演劇を見に行った。演劇自体にマニーを払い見にいくのは・・・多分始めてか。
近くにある演劇場のチラシをあさっていて見つけたのが今回の作品。
ってか、ドリコムちゃん重くてかけなかったんだもん。
やっとかけるべ。
感動した。というか、涙出てきた。やっぱ演劇は良いわ。
背筋がゾクゾクするわ。恐怖じゃなくて、感動でかしらん。
今日は「モンスターとしての私」という演劇を見にいった。
適当に演劇場のチラシを見てたらあったから、面白そうだと。
カフカの「変身」とかある時点で、気になったし。
やはり、面白かった。
内容はいいとして(いいのか)、役者のパフォーマーとしての動きというか
演じる力、それを表現力といいたいけど、それに感動したと思う。
涙を何回か流してしまった。不覚。
この主人公は、同級生を殺した中学生の7年後の話。
参考資料を見ると、結構なラインナップだ。
パンフレットにもある刈馬カオス氏の挨拶文が非常に良い。
あえて紹介しないが(しろよ)、身近なこういった事件にナーバスになるが、
戦争に対してはえらく寛容じゃないかって。そういう突っ込みがある。
なっとく。
まあ、近い方が感情移入しやすいってのもあるけど。
主人公を、相手の家族を、そして社会を。色々な立場から物事を考えて捉えている。
そこから、やはり「生きるってなんだろう」という主人公の台詞(あったはず)。
「なんで私は生きているんだ」と。
モンスターとは、人間ではない何か。いや人間もモンスターであるから、何も言えぬ。
ある日目覚めて、友達を殺そうと思った。なぜか分からない。そして殺す。
今でも、その光景をはっきりと覚えている。恐ろしいが、これはあってもおかしくはない。
殺人は誰も幸福にしないことは・・・分かるが、かといって宗教は人を救うわけでもないか。
脱線。
殺人犯としての少女を僕は知らないし、その少女を探すゲームというのがネットであったか知らないけれど、
少年でもいい。なんでもいい。
それって、あまりにもあまりにもモンスター的だと思う。
モンスターにはモンスターか。時代はバビロニアから何も変わっていないかもしれない。
人肉を食う話を何度かしてる。そこには究極的な選択があるといったが、
戦争に趣く兵士は、始めて人を殺すと、吐き気を感じ、気分が悪くなるそうだ。
しかし、それは慣れであって、しまいには殺してもほとんど何も感じなくなるそうだ。
これは恐ろしいかもしれないが、実際にあるようだ。そういう「慣れ」もある。
学習機能はそういうところでもあるらしいね。
友達を殺した。なぜ殺したかは分からないとしても、おそらくその後繰り広げられるあらゆる悲劇。
それを考えると殺せないのだと思う。そんなものかなとも思う。
誰かを殺したいと真剣に思ったことはないが、小さな頃はしょっちゅう「ぶっ殺す」といってたものだ。
実際に殺せない人間が「殺す」といい、殺す人間は「何も言わず」殺すと思う。そんな気がする。いかが?
殺したいと思っても、殺さない。それが人間じゃないかって、誰か言ってた。それは脳裏から離れない。
これは恋愛演劇らしい。主人公が映画自主撮影の男を好きになったが
家を引っ越さなければ相当まずい状態だから・・・ということで。
ぶっちゃけこの部分はどうでもよかった。あまりにもあまりにも、
現実として「モンスターとしての人間」と「恋愛」を比較してしまうと、
99:1くらいでぼやける。多分これは深読みすると、
村上龍の「69」のタイトルマーケと同じ狙いがある。要は、「恋愛演劇」といっておきながら、
そうではないというところ。
だと思うんですが、いかがでしょう。違うかなあ。
どんなに償っても人を殺した罪は拭えないと思う。うん。
そして殺された側もそれを忘れることはない。
これを恨みといえばそれまでだし、憎しみといえばそれまでだ。
憎しみは憎しみを生むとは、誰かが言った言葉かな、でも、それだからといって
憎しみを忘れることなんて、人間にはできない気がする。
最初から愛のある人間なぞいないということだ。
逆にいえば、何十人も人を殺した人間のほうが、愛を知っているかもしれない。
というと、多分、「お前は殺人者肯定」かとか「殺人擁護派!」かと言う人もいるんだろうけど、
そういう人はスルー。
さかきばらという少年の事件があった。そういった事件を踏まえて、
今回の作品もあるわけで。
だからこそ、実際の被害者、加害者にインパクトを与える可能性が高い。
でも、それに挑んでいるパフォーマーに僕は敬意を表したい。
別に「何か言われそうな、とりわけしなくてもいいこと」をしなくてもいいのではないかと。
そういう声は多いのではないかと思う。多分。
起業をするといって、反対する人の方が多いというのと似ている(笑)
なんでも新しいことにチャレンジする人が羨ましいのだろう。同時に自分との差を感じ、
嫉妬する人もいるわけで。
加害者や被害者、それ以外の社会の目、実際に見に来てくれる観衆、そしてパフォーマー。
色々な立場がある。そこには、もう僕では説明できないものがある。
表現者は、表現をする。
自己実現というのは、実現だけれど、表現と同様ではないかと思う。
演技で表現する、演劇を作る。よく貧乏役者ってのがあるけど、劇団所属で、
何かそれでも演劇が面白くて、という人の気持ちが分かるような気がした。
僕でいえば、起業がしたいし、図書館が作りたい。それは同じだと思う。
美術展をしてもしなくても、自分の絵で表現してもいい。
書道、字で表現してもいい。誌で表現してもいい。音楽、メロディーで表現してもいい。
映画、映像で表現してもいい。演劇でもいい。
スポーツでファンタジスタとして表現するのもいい。水泳で表現をしてもいい。ゴルフでもいい。
僕は、文章で表現したい。自分がパフォーマーとして役者にはなれないが(というか、なりたいというよりも、見たい方だから(笑)否定的な意味じゃない)、
文章で何か表現できるのではないかと。最近そういうことを考えるようになった。
そこで、この演劇だ。
モンスターとは何か。私とは何か。
そういう哲学的なテーマを結構さらっと、2時間で与えてくれる。
僕がここで「生きるって何だ」といっても、今回得たインパクトには遠く及ばない。
全く完敗だ。演劇恐るべしだ。
でも、僕は「生きるって何だ」といって、そのまま放置しているつもりは毛頭ないし、
色々な角度で「生きるとは何か」というテーマなら、追っているつもりだ。
もちろん「生きるとはこういうことだ」なんて答えは、ないのかもしれないけど、
抽象的ではなく、自分にとってのいわゆるオンリーな答えは必ずあると思う。
その答えを僕が感覚的に文章で伝えれば、きっとそこには面白いものが出来ると思う。
多分、作家として活躍している人は、少なからずそういうことを考えているのではないかと。
そう思いたい。
自分の文章という技で、何かしら影響を与える。
非常に面白いことだ。別にヒトラーみたいなことしているわけじゃないしね(笑)
この演劇で得たインパクトを僕はうまく文章に乗っけて、
咀嚼し消化して、今後に活かしたいというか、活かす。
必ず、パフォーマー型ブロガーを目指す。決して、僕は妥協しない。
近くにある演劇場のチラシをあさっていて見つけたのが今回の作品。
ってか、ドリコムちゃん重くてかけなかったんだもん。
やっとかけるべ。
感動した。というか、涙出てきた。やっぱ演劇は良いわ。
背筋がゾクゾクするわ。恐怖じゃなくて、感動でかしらん。
今日は「モンスターとしての私」という演劇を見にいった。
適当に演劇場のチラシを見てたらあったから、面白そうだと。
カフカの「変身」とかある時点で、気になったし。
やはり、面白かった。
内容はいいとして(いいのか)、役者のパフォーマーとしての動きというか
演じる力、それを表現力といいたいけど、それに感動したと思う。
涙を何回か流してしまった。不覚。
この主人公は、同級生を殺した中学生の7年後の話。
参考資料を見ると、結構なラインナップだ。
パンフレットにもある刈馬カオス氏の挨拶文が非常に良い。
あえて紹介しないが(しろよ)、身近なこういった事件にナーバスになるが、
戦争に対してはえらく寛容じゃないかって。そういう突っ込みがある。
なっとく。
まあ、近い方が感情移入しやすいってのもあるけど。
主人公を、相手の家族を、そして社会を。色々な立場から物事を考えて捉えている。
そこから、やはり「生きるってなんだろう」という主人公の台詞(あったはず)。
「なんで私は生きているんだ」と。
モンスターとは、人間ではない何か。いや人間もモンスターであるから、何も言えぬ。
ある日目覚めて、友達を殺そうと思った。なぜか分からない。そして殺す。
今でも、その光景をはっきりと覚えている。恐ろしいが、これはあってもおかしくはない。
殺人は誰も幸福にしないことは・・・分かるが、かといって宗教は人を救うわけでもないか。
脱線。
殺人犯としての少女を僕は知らないし、その少女を探すゲームというのがネットであったか知らないけれど、
少年でもいい。なんでもいい。
それって、あまりにもあまりにもモンスター的だと思う。
モンスターにはモンスターか。時代はバビロニアから何も変わっていないかもしれない。
人肉を食う話を何度かしてる。そこには究極的な選択があるといったが、
戦争に趣く兵士は、始めて人を殺すと、吐き気を感じ、気分が悪くなるそうだ。
しかし、それは慣れであって、しまいには殺してもほとんど何も感じなくなるそうだ。
これは恐ろしいかもしれないが、実際にあるようだ。そういう「慣れ」もある。
学習機能はそういうところでもあるらしいね。
友達を殺した。なぜ殺したかは分からないとしても、おそらくその後繰り広げられるあらゆる悲劇。
それを考えると殺せないのだと思う。そんなものかなとも思う。
誰かを殺したいと真剣に思ったことはないが、小さな頃はしょっちゅう「ぶっ殺す」といってたものだ。
実際に殺せない人間が「殺す」といい、殺す人間は「何も言わず」殺すと思う。そんな気がする。いかが?
殺したいと思っても、殺さない。それが人間じゃないかって、誰か言ってた。それは脳裏から離れない。
これは恋愛演劇らしい。主人公が映画自主撮影の男を好きになったが
家を引っ越さなければ相当まずい状態だから・・・ということで。
ぶっちゃけこの部分はどうでもよかった。あまりにもあまりにも、
現実として「モンスターとしての人間」と「恋愛」を比較してしまうと、
99:1くらいでぼやける。多分これは深読みすると、
村上龍の「69」のタイトルマーケと同じ狙いがある。要は、「恋愛演劇」といっておきながら、
そうではないというところ。
だと思うんですが、いかがでしょう。違うかなあ。
どんなに償っても人を殺した罪は拭えないと思う。うん。
そして殺された側もそれを忘れることはない。
これを恨みといえばそれまでだし、憎しみといえばそれまでだ。
憎しみは憎しみを生むとは、誰かが言った言葉かな、でも、それだからといって
憎しみを忘れることなんて、人間にはできない気がする。
最初から愛のある人間なぞいないということだ。
逆にいえば、何十人も人を殺した人間のほうが、愛を知っているかもしれない。
というと、多分、「お前は殺人者肯定」かとか「殺人擁護派!」かと言う人もいるんだろうけど、
そういう人はスルー。
さかきばらという少年の事件があった。そういった事件を踏まえて、
今回の作品もあるわけで。
だからこそ、実際の被害者、加害者にインパクトを与える可能性が高い。
でも、それに挑んでいるパフォーマーに僕は敬意を表したい。
別に「何か言われそうな、とりわけしなくてもいいこと」をしなくてもいいのではないかと。
そういう声は多いのではないかと思う。多分。
起業をするといって、反対する人の方が多いというのと似ている(笑)
なんでも新しいことにチャレンジする人が羨ましいのだろう。同時に自分との差を感じ、
嫉妬する人もいるわけで。
加害者や被害者、それ以外の社会の目、実際に見に来てくれる観衆、そしてパフォーマー。
色々な立場がある。そこには、もう僕では説明できないものがある。
表現者は、表現をする。
自己実現というのは、実現だけれど、表現と同様ではないかと思う。
演技で表現する、演劇を作る。よく貧乏役者ってのがあるけど、劇団所属で、
何かそれでも演劇が面白くて、という人の気持ちが分かるような気がした。
僕でいえば、起業がしたいし、図書館が作りたい。それは同じだと思う。
美術展をしてもしなくても、自分の絵で表現してもいい。
書道、字で表現してもいい。誌で表現してもいい。音楽、メロディーで表現してもいい。
映画、映像で表現してもいい。演劇でもいい。
スポーツでファンタジスタとして表現するのもいい。水泳で表現をしてもいい。ゴルフでもいい。
僕は、文章で表現したい。自分がパフォーマーとして役者にはなれないが(というか、なりたいというよりも、見たい方だから(笑)否定的な意味じゃない)、
文章で何か表現できるのではないかと。最近そういうことを考えるようになった。
そこで、この演劇だ。
モンスターとは何か。私とは何か。
そういう哲学的なテーマを結構さらっと、2時間で与えてくれる。
僕がここで「生きるって何だ」といっても、今回得たインパクトには遠く及ばない。
全く完敗だ。演劇恐るべしだ。
でも、僕は「生きるって何だ」といって、そのまま放置しているつもりは毛頭ないし、
色々な角度で「生きるとは何か」というテーマなら、追っているつもりだ。
もちろん「生きるとはこういうことだ」なんて答えは、ないのかもしれないけど、
抽象的ではなく、自分にとってのいわゆるオンリーな答えは必ずあると思う。
その答えを僕が感覚的に文章で伝えれば、きっとそこには面白いものが出来ると思う。
多分、作家として活躍している人は、少なからずそういうことを考えているのではないかと。
そう思いたい。
自分の文章という技で、何かしら影響を与える。
非常に面白いことだ。別にヒトラーみたいなことしているわけじゃないしね(笑)
この演劇で得たインパクトを僕はうまく文章に乗っけて、
咀嚼し消化して、今後に活かしたいというか、活かす。
必ず、パフォーマー型ブロガーを目指す。決して、僕は妥協しない。