ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

考察

不要

ある雑誌に写真がのっていた。
その写真には、コメントみたいな言葉がついていた。
しいていえば、詩みたいなものだ。

が、それがものすごく邪魔だった。
写真はいいのに、コメントが邪魔だと思うときが
よくある。
それは1度や2度ではない。何度でも。

写真家?もしくは、言葉を書いたもの、
もしくは構成者は、これを良いと思ったのだろうけどね。

僕は、編集とか組み合わせとか好きだけど、
広告みたいなのかな、同じことを言葉が言っていると
やはりくどさを覚える。

言葉はシンプルな方がいい。とかいいながら、
言葉は長く書きたいというか、
ある程度、思考回路をおってかきたいと思ったりする。
それがいいんじゃないかと思っているのも分からない人もいるかと思われる。

まあとにかく、
写真だけおいて、最低限のタイトルとか、
それくらいでいいのかもしれないなあとか。

しゃべりすぎ、説明しすぎ、分かりやすすぎの時代とか
偉そうにいってみる。

言葉は大事だけど、言葉が不要なこともある。
行動で示せ、態度で示せ、動きで示せってね。

固有解を出す

一般的な答えは実は役に立たなくて、
この場合はどういうことになるかということを考えるべきだ。

実はそのようなことはおおい。
問題解決においても、抽象化されると、
「課題は?」
「で、どうやって対応するの?見込みは、いつまで?」
「でやれそうなの?全然やばいの?」
「やったら検証は?」
なんていうのは、抽象すぎて、
実は具体例に落とし込めない人は多分多いだろう。

実は、これめちゃくちゃ難しくて、
なぜなら、その人の思考パタンは、構造化されていなくて、
抽象から具体に全然変換ができない。

例えば論理に強い女性はかなり鍛えていると思う。
これは偏見ではなく、女性は具体的なイメージの方が
抽象化よりも専攻しやすいと僕は思っている。
鍛えているというのは、論理やロジックをよく考えるように
脳を鍛えているということ、学んでいるということだ。人よりも当然多く。

具体的なイメージをいくら積み上げても、
実は抽象にはならない。部分の総和は全体にならないことがあるように。
なぜなら、抽象と具体は言葉としては、
反意だが、人間の生活の中では、
抽象は分かりづらい、具体は分かりやすいという程度の意味合いでしか
認識されにくいからだ。多分。

抽象的な意見は分かりづらいから、分からない・・・というのは
ちょっとおかしくて、実は抽象でも分かりやすいのはある。
PDCAなんて最たるもので、これをこれ以上分かりやすくすることはできない。
逆に具体例のほうが冗長で分かりづらい。

問題は、PDCAといったときに、それを具体的に落とし込めて、
自分のやっていることで想像ができるかだ。

問題解決もそうだし、全ての抽象化されたものは一緒。
具体例があっても、その人の具体例でしかないのだ。

ということは?

そう。答えは、
自分で考えろ、でしかない。
もし、自分では考えたくないなあとか、たわけたことをいってるなら、
速攻そこから降りろ。
というか、そこにいる意味はあるのかい?

タスクの可視化

なんか、管理とかTODOとかのライフハックに
力使いすぎて、実際の管理やTODOが回らないってのは、
普通にありそう。だけど、力入れすぎても損しないような、
そんな気分(シャレ

タスクの可視化というところで、数値や箇条書きが有効。見積り時間も必須。
さらに、Visualとしてポートフォリオを組むこと。さらに優先順位。
タスクが5つあるなら。高中低で、優先順位をつけることはできる。
さらに、その見積り時間の割合もみつもる、
A高1h
B高2h
C中0.5h
D中0.5h
E低1h
という形になるならば、これらの時間配分がスマートに
割り当てられる必要がある。

重要なのは、ただそれをタスクとしてこなせばいいのではなく、
タスクをどう組み込み、割当て、作るかを考えることで、
おそらくこれはTODO管理という枠を超えているっぽい。

やはり、ぱっと分かる感じがいい。
紙ならA4とか、そういうのが一番いいっすね。
初見で、10ページもあって、だらだら書かれていなくても、
量が多ければそれを読まなきゃいけない。
それよりも、ポイントを箇条書きで、きっちりおさえて、
後は「話す」ベースのほうがコミュニケートは図れるし、
伝わることも多いかも。

ほら。文字みて理解するより、人の話きいて、
質問して、イメージの刷り合わせという説明の方が
分かりやすい気が。もちろん、興味なきゃダメなんだろうけど。

まあやってる人はやってそうなオハナシ。

仮説と検証

トライアンドエラー。試行錯誤。やりながら考える。
結局どれも同じことをいわんとしている。仮説と検証も同じ。
検証は考えるだけではなく、仮説を確かめるための行動もここには含まれる。

仕事において、とくに何かその仕事に特化したものだと思われがちだろうが、
そんなことはないと断言する。

本屋の店員は、お客にどのように対応するかからはじまり、本の見せ方から、
それこそ世界に精通する気概が望まれる。最もそういう人は少ないだろうが。
本屋の店員の場合の仮説と検証とは何か。
仮説は、どうやったら本が売れるかであり、検証はそのために本棚の位置を変えるとか、
お客の流れを、いわゆる「動線」を読むだとか、また「色々」だ。

では、ITエンジニアにとってのそれとは何か。
例えば、仮説はいかに顧客の望むシステムを提案することができるか。
であり、検証はそのために「仕様書を2段階で構成する」とか、
「噛み砕いた言葉」を多用するだとか、そういうことになる。

また、駅員にとっての仮説とは、
「今日も一日お客さんに心地よく電車に乗ってもらいたい」であって、
その検証のために「挨拶を必ずする」とか「今日聞かれたことをまとめておく」とか、
そういうことだ。
また運転手にとっては
「確実に人を運ぶのだ」であり、
検証としては、「必ず声出しを行い指差し点検を行う」とかそういうことだ。

花屋にとっては、
「花束で人を幸せにできないか」であり、
検証としては「オリジナルの花束を組み合わせ販売してみる」とかである。

学校の教員にとっては、
「どうやったら生徒が気持ちよく学校に通えるか」であり、
検証としては「毎日校門の外を掃く」ことから始める、である。

写真家にとっては、
「海の面白さを伝えたい」であり、
「海を感じる写真の構成をどのように作るか」とか
「展示の仕方を考えて、今回の写真パネルはでこぼこのものにして、お客さんがその上を歩けるようにする」とか
である。

政治家にとっては、
「いかに支持者の声にこたえるか」であり、
「議員を目指して声を議会に反映させる」とかである。

ベンチャー経営者にとっては、
「いかにこの市場で展開していくか」であり、
「すばやい展開をするにはまず人員が必須だ」とか、である。

仮説と検証は必ずしも分離していないが、
仮説とは結局のところ、疑問であり、問いであり、なぜ?である。
その結果おそらくこうなるだろう、との予測、推測が仮説と呼ばれる。

「なぜ雨の日は客足が鈍くなるのだろう?」
「それは、傘をたたむ手間、傘をひらく手間がかかるからではないか?」
「自分もそのような思いをしたことがある」
「それを解消する方法はないものか?」
「そういえば、傘袋というものがあるが、あれは非常に面倒だ」
「傘袋を開いていれてくれるサービスがあればどうだろう?」
「そういう商品があるらしい」
「導入してみよう」

というようなプロセスは、おそらく「大学」での、
レポートでは必須の行為となる。論文もまた然り。
自分のテーマというのは、つまるところ自分の問いである。
その仮説をたてたものを検証するから、
結局、研究者というのも、学者肌だろうがなんだろうが、
「仮説と検証」は同一のことしか指していない。
それなのに、別のことをさしていると思っている人は結構いそうだ、ということだ。


問いを立てることが大事なのだが、
まず問いを立てられない人の方が意外に多い。
それは「問い」とは「大きな」ものでなければならないと構えているからだ。

日常の問いレベルは多くある。それをどう加工するか。どう消化するかでしかない。
最近、駅で、おじさんやらが座っているのを見るが、格好からするとホームレスのおっちゃんの
可能性が高い。
駅の中は外に比べれば風もなく暖かいから、休憩しているのだろう。
ベンチがあればそこで休むだろうが、ベンチがあるわけではないので、
地べたの隅に座ることになる。
ではなぜそのようなことをするのか。という問いは簡単に立てられる。

ホームレスのおっちゃんに同情しなければならないとか、そういうことではない。
単純に目の前のことを、どう捉えるかでしかない。
もし、ホームレスをゴミのように扱うならば、そういう人間だということである。
それはホームレスだけではない、あらゆることに同じことがいえる。

問いを立てて楽しんでいこう。
それを哲学と呼ぶ。

相互性

社会相互性みたいな言葉は多分あるかもしれない。とくに社会学とかで。

それはともかく。
人が店を作り、店が地域を作り、地域が社会を作り・・・というのは、
社会が地域を作り、地域が店を作り、店が人を作りというのと同じだと考える。
それは、視点が異なるだけだが。

例えば、ベストセラーという本で100万部以上かな、売り上げた本についていえば、
それらが本の内容的にどうかはおいておいて、売れた本といっていいのは明らかだ。
だから、多くの人がそれを買った可能性が高いし、だから売れたわけだ。
つまり、多くの人がその本を読んだ、読みたかったというわけだ。
その理由がベストセラーだからというのもあるだろうが、その理由も関係ない。
単に、ベストセラーというのは売れた証拠なのだ。
ということを確定しておきたい。

ベストセラー=人々の需要ということだとする。
そういう意味で、人々のニーズを反映しており、それは受け入れなければならない。
厳密にいえば、ベストセラーを買う人々の気質なども考慮する必要があるが、
ここではその話はしない。

元に戻れば、ベストセラーは人々の産物であると同時に、ベストセラーによって
人々は作られるということは、乱暴な話でもないということだ。
正確にいえば、ここでの「作られる」とは、多くの人に影響を与えるということだ。
オリコントップチャートにあがってくる音楽も同じことがいえる。

「消費する」というのは、おそらくそういう人気のあるものしか追いかけていなくて、
自分の趣味嗜好というもので選ばないというスタイルの受け入れ方だと思われる。
逆にいえば、巷にでてくる音楽しか「一般的」に認知できないから、
そこから選ぶしかないという言い方もできる。

ただCD屋なりにいけば恐ろしいほど音楽はあるわけで、
さらに自作を考えればこれまた鬼のようにある。さらに国内から離れれば
また数は増える。
だから、その「認知」できるレベルがトップチャートしかなければ、
その人の音楽はそれで終わるだろう。

話を戻すと、
社会に参加するとは、一個人が社会に参加しているという意識をしていくことでしかない。
それは意識レベルでよい。行動というのは必ずついてくるからだ。
社会に参加するとは、そのルールや影響を受けることになるが、
同時に一個人が社会に対してルールや影響を与えるということにもなる。

何かつながっている関係があるとすると、それは一方的なものもあるかもしれないが、
つながっているというのは、厳密にいえば、どちらも相互に影響を与え合うことができることに他ならない。
これを相互影響性だとかという言葉にしておくと、相互影響性があるからこそ、
社会と人が成り立ち、人が社会を作ることができる証明となる。

コミュニケーションとは、人対人の話に限定すれば、
ネットワーク用語でいえば「セッション」であり、ここでの意味としては、
「きっかけという糸」でしかない。

そういう意味で、相互影響性を考えると、誰もが社会参加することができるし、実際にしている。

このことを意識した場合、社会がとても身近なものとなり、
極端なことをいえば、誰かの笑顔は自分の笑顔であり、誰かの怒りは自分の怒りとすらなる。
だから、社会というものに無関心であり続けるというのは、非常に難しいと考えられる。

例えば、コミュニティだとか、地域活性化だとか、商店街の実情だとか、
若い人がいないとか、過疎化とか、少子高齢社会だとか、色々な現象はあれど、
基本姿勢はつながりという普遍性が存在すると思われる。
例えば、mixiのコミュニティは仮想世界だが、地域にある囲碁サークルとの違いは何か。
違いは仮想かリアルか程度のことで、つながりという意味では全く同質だ。
ただ社会との接点という意味で、ネット社会はあくまで中継地点でしかなく、
何をしようとも、必ずリアルが必要となる。

当たり前だが、ネットショッピングが成立するのは、
ネットでものを買う人という、実際にいる人がいるからであって、
その人は住所を持っている。そこに送って受け取れるからなのだ。
という当たり前のことを確認しなければ、ネット社会の大きさに飲まれてしまうというのもありそうだ。

ネットを重視するにしろ、なんにせよ、リアルに還元もしくは、形ができるものがなければ、
極論をいえば、デジタルデータでしかない。
説得力はデータそのものではなく、データを解釈する人間の記述に多く含まれるものであり、
単なるデータはデータでしかない。という意味で、統計とは単にデータをある計算式で羅列したものではないと
これまた関係ないことがいえそうだ。


それで、店のレベルが低い、社会のレベルが低いという場合、
もし自分がそこに住んでいたりするなら、自分のレベルが低いからそういう店があり、
そういう社会があるのだという見方も時には必要かしらん。

本の楽しみ

この記事は「日本本楽家協会」参加申込を兼ねています。

さて、先日、本楽家会長である、ちいらば氏のブログを発見した。
先も簡単に紹介したが、
本楽家通信「ふしぎなぽっけ」である。

本楽家の詳細は、「本楽家とはなんぞや」をみて頂くとして、
まあ要するに、本を楽しむ人々である。

この本楽家に惹かれたのは、会員を増やすのが目的ではないという主旨。
それに、本を楽しむという考え方である。

僕が独自に提唱(正確には独り言であるが)している、
めざせ一万冊は、今のところ会員2名である。
レアな人間が、私もやりたいと言ってきたのだ。こちらは勧誘していないのがポイントだ(笑)

その目指せ一万冊とは、一万冊を目指して読むということであるが、
多読が目的ではない。楽しみながら一万冊目指して、
死ぬ前に「くくく。わしゃやったぜ」と死ぬのが本望である。

本を楽しむというスタイルは意外にレアだ。
それはどういうことかというと、本について構えすぎる傾向があるのだ。
構えすぎるとは、習慣化しないというところでもあるけど、
別に好きなときに読めばいい、のだけど、その感覚が違う。
だから、本好きという言葉が出てくるのだろう。

だけども、人間なら誰しも文化的営みというものはあって、
どこかでそれをしないと非常に「つまらぬ人間」が出来あがる。
常に、現実=自分みたいな形で、余裕とか遊びがないとか。
車のハンドルの遊びと一緒ですよねえ。

道化やお笑いも会話に必要なように、
全て事務口調で対応されちゃ、きついような。別にお笑いをしろとはいってないのだけど。

そういう遊び的なものが、文化的営みであるならば、
おそらく僕にとっての本はそれになる。
こういう考えもあるかーとか、これは違うなーとか、
この世界は面白いから、実現しようとか、
学ぶべきことが多いなあー、
これは紹介したいなーとか、これオススメかもしれないなーとか、
これはこういう風に読めたし読んだよとか。
色々、自分の糧になる。

ある友人はいった。
「自家発電しろ」と。
これはつまり、自分でパワーを作り出し邁進!するということだ。
そういう意味で、本はエネルギーの源であり、
本楽家のどなかたかも、空気と同じようなものと書かれていたように、
それに近いものがある。空気なきゃ死んでしまいますからね。


では、僕にとっての本の関わりが激しくなってきたのはといえば、
それが学生時代にある。
僕はそもそも高校生までは、本よりもゲームをこよなく愛していたような
気がする。後、あまり読まなかったけど、漫画は好きだった。
漫画を色々集めて買う人間が高校の時は全く理解できなかったなあというのがある。今では分かるのだけど、でもあんま買わないけど。

大学は、受験に失敗したため、浪人することにした。
そこでの毎日は受験勉強漬けになるが、浪人生活をした人なら分かるが、
時間が多い。モラトリアムという言葉を知ったのも、
確か小此木啓吾氏だったかな?の本で知ったけど、多分このときだろう。

小論文とか、現代文の予備校の講義が異様に面白かった。
ちなみに、筒井康隆の唯野教授の本は、小論文の講師に教えてもらった。
すごく変わった先生だったけど、面白かった。ありがとう。
現代文は、文学作品が中心だけど、例えば、評論文の読み方とか、
読解というところで、何か無性に文章が面白かった。
考えが書かれているというところで、大げさにいえば感動していたのだろう。

その浪人生活から、徐々にだが、新書などを買うようになり、
大学時代に突入して、というかブログのバックナンバーにはないけど、
HPにも確か残っているはず。
うーむ、ない。ぐは。

大学入学して3ヶ月くらいして、すぐに夏休みに入ったが、
その期間を振り返って、「こりゃ自分でやんねーとダミだこりゃ」
なんてことを言ってた。
大学時代の親友とは、そういえばいつ頃からか、本の話をしていたな。
その頃は、何を読んでいたか、忘れてしまったけどね。

自分でやらないとダメというのが、勉強ということで、
もっといえば学ぶというところ。
学生は講義を受けるがひたすら受け身で、レポートを出す意味が
わかってない気すらした。遊ぶのはいいけど、何で学んでるのよと、
親友には大いに語った記憶があったなあ。親友はもちろんそんなショボイ人間ではなかった。

今でも覚えているが、ある同級生が、レポートというか、
本の感想文を出さなきゃいけないから、前受けてたんでしょう?
ならレポート見せてくれっていってきた。
見せるのはいいんだけど、
「てか、本の感想くらい書いたら?読むだけじゃん」
といったら、何か面倒くさいからというようなことをいってたかな。

「何。おぬしは自分が面倒くさい作業を俺に代行させるのか!」
とは言ってないが、思ったものだ。
結局、本を読んでそこから何か得られるかもしれないじゃないか・・・
という感覚はないのかなあ。
というか、これは本だけじゃないぜ。
あらゆるものがそうじゃないか。刹那的ってのはこういう人かもね。

っていって、結局あげたな。電子データだったからね。
ま、それはともかく。

学ぶのはやはり自分が動いて色々やっていく必要があると。
それを3ヶ月の大学生活で思ったのが大きかったような。

それから、本は買って読むの繰り返しで、
いわゆる本を買って読むってことを今までやってこなかった僕にとっては、
えらく楽しかったようで。名古屋弁では「どら楽しいがや」です。
さあ皆さんも一緒に・・・。何も聞こえてこないですね。
続きを。

大学1年時は大学に慣れるので終わった気がしますね。
実質半年だし。1年の終わりには、チャリダーと化して、
湖一周とか色々やりましたな。で、親友も刺激したらしく、
チャリダーと化して、本読むチャリダーとなったのですな。

例えば、琵琶湖一周野宿旅でも、文庫本を持っていって、
自転車のライトで読んだりしてたりと。まあ、旅には本は基本ですな。

2年時には、哲学に目覚めたのか、哲学入門書とか、結構読んだような。
カントの講義が面白かった。形而上学なタイトルの岩波の本ね。懐かしい。

そうやって大学では本は色々読んで、
とくに印象に残ってるのは、何かなと。
やはり、「野比」とか「5分後の世界」とかかな。
「戦艦大和ノ最後」もよかったな。
全部戦争ものですけどねえ。やっぱいいと思う。

哲学的というのはどういうことか?
やはり考えることであって、これは人間らしさ、
いや自分というものの、アインデンテテーであると。
存在する意味なんて要らないといえばそれまでだけど、
意味づけしたくなるのが・・・自分だなと。

結局哲学で何か説明できるわけじゃない。
疑問や問いを立てることで、色々な視点で見ることがでいるし、
世界が広がる。本を読むことで世界が広がる。
人生が豊かになるのと同じことかな。

学びってのは結局そういうことになるのだと確信したなあ。
今でも思うので、学んでない人間、いや
学ぼうとしない人は嫌いっすね。

さて、かなり脱線しているけれど、本の楽しみとは、
やはり学びであって、そこから色々学べるから読むのだと考えています。

楽しみ方には色々あって、現実逃避的でもいいし、
息抜きでもいいし、なんでもいいと思うのですが、
結局、僕には学びが楽しいですね。


この本を楽しむという感覚が共有される本楽家の皆様に愛をこめて。
よし、これで本楽家兼RMになって、役職アップ。
とりあえず、天下統一の夢に近づいたような気がする(何それ


成長理論

理論でも唱えるか。最も根拠は自分の見てきたものと自分であるので、
科学ではない。よってインチキ理論となる。
では、いくとする。

まず、人は成長したいものだという前提があるか?
これはやや怪しい。例えば、新聞に載ってたので、ああそうかなーと思ったのは、はっくるべりーふぃんの物語、つまりはトムソーヤとかの主人公っぽいキャラっぽいあれです、あのストーリーは、アメリカでは、成長(グローイングアップ)の物語として受け継がれてきたらしい。
でも、ライ麦畑をつかまえて、は、大人に反抗するのものの、
自分のやりたいことはこうだってのがない。ってものとして捉えてみた?って記事だった。

これは、まあ、どうでもいいんだけど、
今の社会で、反抗するけど、何もしないという人は増えているのかもしれない。
それは、中学生が悪さするくらいのレベルとして、「うるせー」というようなもので、一丁前に働き出して、「うるせー」ってのは、
かなりまずいんだろうなあと。あ、僕そのまずいのに入ってそうですが。(ニヤリ

おそらく、成長という言葉が堅苦しいのだろう。
だから、変化とか、学びとかそういうことでいってみるか。
でも、何かを学ぶことは一生していくし、それは楽しいと思える。
つまらないという人は、偏見だが、お金を稼ぐのには役に立たないとか、
そういうことを思ってしまうのだろう。
落ち着け。残念ながら、何が役に立つかどうか。
お金儲けノウハウなんてものがあって、それを解釈した時点で、
もうそれは役に立たないような気がするのは、皮肉でもなんでもない。
つまり、ワライのネタと同様、素材を調理することは必須な気がしてならない。というか、必須。

ある目的を掲げて、そこにぶっこんでいくのは、分かりやすいが、
では、なぜそれなのかと。それを説得力があるかどうかで
僕は印象が全く違うというか、それってホントかよ?って思ってしまう。
ダンサーになりたいといっても、プロのダンサーだけではない。
面白いダンスを踊るとか、宗教行為で布教するとか(笑)、表現としてのダンスを追及するとか、なんでもいいけど、
いろいろあるはずだ。これはもう色々なのですよ、としかいえない。


そういう感覚がないのは、もうこれは経験でしかない、とはいわなくて、
そうではなくて、自分がどれだけ、最初の一歩を踏み出したりしているか、
でしかなさそう。
時間軸として、縦軸に年月を、横軸にやりたいことを取る。
そうなるとこんな感じになる。
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かなりの図だが、まあそういうことだ。
1,5,10は経過年と捉えて欲しい。
例えば、5年後に向けてこれこれこうこうの目的があるから、そのためにいろいろやりますという。
そのやります、というものは、実際にやりたいことをまずやるという前提に立つ。やりたくないことをやっているのはここではスルー。
そのやりたいことを、1つセットして上にどんどん進んでいく。
これは普通だ。でも、もう1つ並行して別のやりたいことを進めるとかは
あまり考えるのはどうも少ないのか、なかなか。
でも、事業なんてやるときは、普通に複数やるのが普通なんでそういうことを知らないとか、学んでいないだけの話のような。
逆にいうと、そういうことをしっているのに、自分の人生に応用ができないってことは、結構頭が固いのかもしれない。といったら、言いすぎなんだろうなあ。ま、いっか。

それで、普通は、1つを5年やるのと、2つを5年やるのとでは、
1つ当たりに時間がかけられるのは減る気がする。
1つのことをやってたら、5年もつかえたのに、2つやってるから2.5年ずつしか。それとも、3年と2年とかね。
まあ、そういう風に考えやすいし、一般的なものかもしれない。
でも、相乗効果という言葉があるように、色々やってると、AとBがリンクして、よりスピードがアップすることがこれもまた普通にある。
この感覚が分からない人は、相乗効果という言葉を使ってはいけない、くらい大事なところになる。

1直線1つの人にはどうしても違和感を感じる。
それは「何か目指して集中してるぜ」という印象を受けるが、
実は裏を返せば「それポシャったらどうするの?」ということを
考えたくないだけの、言い訳装置にいれたら、「集中したいから」という
だけでしかない。
僕にもこういう面があるので、全否定はしない。
けど、僕は少なくとも、これではダメだからと思って、
自分で実践しているという自信はかなりある。そこを
見てもらっても、何も感じないというか、訴求が足りないんだろうなーと、
そこを思うだけであるが。

もちろん、2,3のことを並行してやるのもデメリットはある。
「いろいろやってるけど、じゃ何したいのよ」とか、
あと何かに集中したいときに、他がおろそかになるということだ。
でも、それ以上の相乗効果があると思える。
同様に集中型は、相乗効果以上の集中効果があると思っているかもしれない。
が、人間の集中力など、60分が限界で、休憩している間に、
別のことをして脳をほぐせるか、そうではなく、ただボーとするかでは、
全く違ってくるような気がする。という見方もできる。

誤解を招くといかんのですが、
並行型でも、集中型でも、集中して何かをやるというのは、
どちらもある。それは時間の切り取り方でしかない。
それはいいとして、
集中型で、かつ、期間が長い場合が問題になる。
並行型ならいつでも投げられるという無責任サラリーマン時代並みのことができる(笑)

大分前に、インプットとアウトプットの話はしているが、あれである。
アウトプットをするとインプットは定着するし、
インプットだけで、じゃあそれは使えるものなの?というと、
まあ甘くいって、6割くらいは使えない。厳しくいうと、8割は忘れる。
実際にアウトプットできるものじゃないと、それは知恵とは呼べない。
ここでは知識の学習は学びとは言わない。それはお勉強なのだ。

資格のための勉強はお勉強でしかない。
その資格を活かすだとか、なんかいうのは、知恵というものに
焦点をおいているからである。

昔、小学校の先生に、覚えた新しい言葉は使った方がいいと
言われたことを思い出している。
だから「ファックユー」という言葉を覚えたら使うのだろうが、
そこで「それは・・・」といわれればそこで覚える。
良い意味で、これはすぐに分かるという利点がある。
アウトプットとインプットはこんな関係になる。

インプットが多いと、おそらく消化不良になる。
いくらダンスの知識があっても、踊れなければ意味がない。
いくら税の知識があっても、会話で出てこなければ意味がない。
ここで意味がないというのは、その仕事に役立たないというくらいの意味である。

長い間集中して、得たインプットは、
そうだなあ、例えば3年で得たものは、5年後に使えるのだというのは、
単に借金の利子部分を返しているという話で、
問題の解決にはなってない。要は、問題の先延ばしということになる。
これは言い方がきついようだが、
ではなぜ、長い間インプットのみに集中するのか?
そうやって得たインプットはきれいにアウトプットできるのか?
知識が必要なものがあるというのは分かるが、それはアウトプットしながら
やらないと身につきにくいのでは?

そういう意味では、資格試験の勉強なんて僕は集中型で集中してという風には
できない気がする。というかしたくないし、やらない。つまらなそうだからだ。

その人はその人のやり方があって、そうやってインプットが楽しくて、
そうやって集中しなきゃ貯められないし、そうしてやらないと出来ないから、
っていうか、どうやってやんだよ!って怒ってくるかもしれない。

ここまできて思ったのは、
集中型、並行型はセンスの問題だが、これは理解できる気がする。
これでやりたいってのがあるからね。

でも、問題は、「明確に掲げた」というものが、
全然明確ではないってことだ。

普通、明確にこれやりたいなんて、かなりのことをやらないと、
分からないっすよ。そういう意味で、全然考えてないってことはいえる。
しいたけを最初食ったときにまずかったから、しいたけ=まずいものと
思い込んでしまうのと一緒だ。食わず嫌いではないが、それと似ている。
もちろん、しいたけはうまいものはうまいのだ。それは多くのものがそうで、
それでもダメならしょうがない。

つまり、明確ではないのに、明確ではあるように言う。
それはゴマカシだと認識しなければならない。それは自分でである。
そうでなければ、おそらく他人にどういおうが、自分に対しては
ゴマカシは効かないからね。

明確ではないなら、探らなければ、動かなければならないのだ。
そこで僕は課す。お前はそんなにいえるほどやってるのかと。
だからこうなる。自分がやりたいことがわからねーと思ってるなら、
動いて証明せねばならぬ。自分がわからねーってことも、
自分が何がやりたいかっていうことを探るのもね。見出すっていったほうがいいか。

でも、それが出来てない。それなのに、これだって決めれるのか?
決めれないだろう。なぜ決めるのだ。
単に思い込み「過ぎ」でしかないだろう。なんで決めるのだ!(笑)

単に知識を覚えるのが好きというのは、それは普通誰でもそうだから、
どういうことかというと、その人の感覚ではないような気がする。
本が好きなのは僕の感覚で、そういう本好きという人は多くいるが、
おそらくある本好きの感覚と僕の本好きは違う。
知識を覚えるというのは、好きというか、当たり前というか、
好みの問題ではなく、人間としての基本条件みたいなことになるというか、
新しいこと覚えるのは普通に面白いからねえ・・・って。

そうなると、何が問題か分かってくる。
つまり、自分と同じようなスタイルで、色々な視点から掲げて、
やるところで、スパイスとして勉強好きというところをいれてみた。
じゃあ俺と同じじゃねーか、なら動かないのかよ。
動くのが怖いのか?怖いなら外に行かないと何も分からないぞ。
自分なりにやってるからうるせーだと?自分なりって何よ、
それを認識しなきゃ次にすすめねーぞ。

なのに、自分が色々やっていることになる。
もちろん、話し方もあるが、ここではスルーである。

世の中は偏見に満ちている。という偏見にも満ちている。
だから、その偏見をぶっ壊したいという人間がここにいる、というらしい。

お笑いについて

たまには、しっかり書いたほーがいいね。
ここでいう、しっかりとは、リンク元などを整理とかの意味。
という意味で、参考リンクとかを毎度書いているブロガーには
頭が下がります。ホント。

気づいたら独り言カテゴリだけで2000超えてました。
1000を越えた段階でサトリがあったのですが、
もう何言われても「うるせー炎上すっぞ」とか脅されても、
思想的なバックグランドが日本ってことで、
むしろ「乏しさ」を証明しているような気がします。
まあ、10000超えは余裕ですが、その前にブログが消えるかもしれません(笑)

それはともかく、お笑いについて。
ネタ元:マス風の就職日記 「人志松本のすべらない話」について+Voice019
です。
そこに、お笑いから学ぶコミュニケーションってエントリがあるのですけど、
これはマス風さん自身が言われている(実際にラジオで言ってます(笑))ように、面白いエントリですね。

まっちゃんのラジオは聞いているが、そこでは会話がイメージとして
出てくるので、ラジオを聴いていても普通に笑える。
要は、お笑い芸人とは、完全なイメージを創り上げると同時に、イメージを聴き手に分かりやすいように伝え、さらにそのイメージで、笑えるものにしていくという、高等なことをやっている人種といえる。
と、別にお笑い芸人はここではどうでもよく、お笑いについて書いてみんとす。

と、同時に、ラジオでも補足か、上書きか、それとも脱線かで、
とりあえず、しゃべってみんとす。

マス風さんのエントリで印象深いのは、
2のオチの必然性って話。確かに、僕は会話の中で、
「で、どうなの」という言葉を3分に1回使っている。
最もこれはオチではなく、結論である。
ということで、オチとは結論のことであるが(えぇ
落としどころ、着地点、座れる場所とか、人によって言葉が面白い。
個人的には、落としどころは仕事っぽく、
着地点は、パラシュート部隊を連想させるが好きな表現、
座れる場所は、初めての集まりで面子がよく分からなくて、
どこ座ったらいいかなーって感じのシチュエーションを想像すると面白い。

と、書いていて気づくのは、
要は分かりやすいネタとは、通じるネタであるのだが、
でも、通じるとは相手と共有できる体験なりがなければならなくなってくる。
例えば、今「座れる場所」で、通勤で、「今日は座れる場所ないな」を
イメージしてしまったら、この話は、かなりズレる。

で、さらに思い出したのは、ダチで冗談が通じないわけではないが、
かなり手ごわい人間がいる。会ってから3日くらいしか経ってないから、
それを考慮すれば、別に問題ではないが(実際は嘘)。
それはここでいうイメージをうまく伝えきれてないというのが、
問題となってくる。ダチが悪いとか、僕が悪いとかそういう話をすれば、
終わりなのが、そもそもなぜ通じないかといえば、
それが冗談であることの必然性みたいなことは、さんざん警告(笑)しているが、どうも僕の話は全てTRUEであるというのがまずい。
TRUEとは、プログラミング言語でいう、「真」のことであり、転じて「真実」という意味(って逆じゃないか?普通は)になる。まあいいや。

例えば、携帯を落としてしまったとする。
その時、「腕が実は折れててさ・・・」といったら、
これを冗談と取るかどうか、真意はどこか、会話の狙いは(笑)というのは、
ほぼ一瞬で決まる。というか、そういう意味でコミュニケーションの真髄であり、フィーリングというものの証明というか、全てだ。

顔、表情、全体の動き、匂い(笑)、話の内容、話から類推・推測・想像できる言葉、もの、人、通り過ぎる人、看板の文字、歩いている場所、流れている音楽、その人の考えていること・・・。

全てである。という意味で、お笑いコミュニケーションを実践している人は好きであるが、笑えといった瞬間に実践ではなく命令となる(笑)

実際にはあり得ないことを言うと、それは頭が軽く揺さぶられる。
これは、お笑いではなく、論理崩壊(笑)とかでも同じで、
例えば地震が起きたっていわれると、え?って思う。
その一瞬をついて、技(笑)を使うことはできる。
カムイ伝だと忍術で、かなしばりの術とかね。そういうのは、多分こんなこといいたいんだろうと>一瞬をつく、ね。

それはそれでいいとして、笑いが通じない人とは(その笑いが伝わらないという意味ではない)、
「腕折れててさ」
といったら、
「折れてないじゃん」
「・・・・」
「うそつき」

となる。これは、極端だが、でも、自分が「冗談」といって展開したものに対して、「嘘」となるケースは結構ある。
コミュニケーションとしては、「嘘」になるなら、
ぶっちゃけ、「もーいーわ」(笑)となって、多分親密な関係にはなれない(ここでいう親密とは想像に任せる)ことになる。
いわゆる「空回り」とは、この「冗談」で分かってしまうものなのだ。

そのダチが言う反撃としては、
「あなたの言っていることは、本当か冗談か分からない」
これは、「申し訳ない」というしかないのだが(笑)
逆に、冗談として分からないほど難しいというか、僕固有の経験?というなら、ほとんど説明しているから、その共有部分をすくって
提供してきた(笑)ことが多い僕には、意外なのである。
論理的にいうと、
AだからB。BだからC。ならAだからCといえるのは、三段論法みたいなもので、
いけるはずだ。
これを応用して、
AだからCとなるはずなのをなぜか論理がぶっ壊れる、すなわち矛盾というのを
面白くするということもできる。
例は思いつかないが、できちゃうところである。

別の反撃では、
「冗談がいえない人間である」
これは、ダチ自身がそうだといったということだが、
そもそも冗談とは何か。箸が転がっただけで笑う人間もいるのである。
だから、冗談がいえない、いわない人間とはどうなのかと思う。
もちろん、全ての人間が笑わせるというのも、困るのだが。
とはいえ、冗談は聞くよりも、言うほうが大体面白い。
逆に言わなければ分からないことも多いような気はする。これはナンデモ同じか。

コミュニケーションとしてのお笑いであって、プロを目指すわけではない。
ただこれは面白いだろうというネタとして、素材の面白さよりも、
自分のテクニックで面白さに導く自信はあったような気がするらしいかも。

「頭が固い人間」
これはおかしい。なぜなら僕は頭が固い人間なので、
その定義がどうあろうが、僕は頭が固いのである。
その人間より頭が固いということに、文脈的にいうとなるが、
それだと、石頭になるので、僕はそんな石頭ちゃんと話しているつもりはない。この、「つもり」が重要である。

あんま書くと、ダチから何か言われそうなので、ここでやめておく。
この危険回避能力は、相手がどこまで言ったら怒るか、
ここまでなら大丈夫だろうというのが分からなければできない。
というか、いくら書いても、絶対に「冗談を言う人間」というものを
目指すのは、かなりナンセンスだし、実際に落としどころは、
そんなに悪くなく、まあ80%くらいの確率でストンと落ちている。
と、そんなこといってもしょうがないな。

お笑いのテクニックというものは、実際にはあるのだろうが、
ここでは僕が行ったり、やったり、したりしているものだろうと
思われる、もしくは思われているようなことを書いてみる。
ブームというか、波はある。

長いので続きます。

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レビューとか

考察に値しないものだが、あえて。

例えば、自分が読んだ本を礼賛!するのも、全否定するのもいい。
それを見て人がどう思うか(とくに見知らぬ他人がである)を考えるのもいい。
でも、全てに中立とはそもそもありえない。
だから、的外れであっても、それはその当人(とくに僕)には、
本当であり、ジャスティスでしかない。

これはもう了見の狭いだとかそういう領域を越えている。
いわば、うつになった人が自分で治らないとなーとか、そういうことを
思わないと治らないっすよね、というレベルの話と同じだと。

さて、レビューとは、書評のことであると考えたいが、
評するとは、ここはこうだからああだというものである。
だから、論理的である必要性がある。つまり、このブログの本読みカテゴリは、レビューではない。だが感想でもない。
ブログのコンテンツでしかない。ここは読者の力に任せた。

そして、批評という意味では、何かは「これはこうではないか」という疑問なり、同意しかねることがあれば、それはこう思ったからこうだと
書かねばならない。
そういう意味では、小説についてはほとんど「好き嫌い」でしかなくなり、
世界を表現しているというレベルでの、表現性くらいしかいえることはなくなってくる。
実用書とはそういう意味ではほとんど実用的ではない。
ある人にとっての実用は、別の人にとっては、非実用になる。
これは皮肉ではなく、事実であろう。

問題はここからである。
では、どの立場とか(そもそも立場を考えている時点でダメなのだが)で書くべきか。個人ならいいが、団体ならダメであるとか、
それは、何をみていっているのか分からない。
要は、責任をその組織体に押し付けられるとか、見られ方とかの問題でしかない。これは本質的にはどうでもいいことだが、むしろ、言行一致が出来ないというのを踏まえていればスンナリいくような話でもありそうだ。
おっと、大分ハシオリすぎたなあ。

とにかく、自分が描いたものは素晴らしいだとか、
自分が誰かに影響を与えるだとか、そういう妄想は慎んだ方がいい。
これは僕にとっての自戒である。同様にこの自戒に同感された方は、
自戒したほうがいいかもしれない。したくなきゃしなくてもいいわけでの共感は求めるけど。

証明が必要だ。数学的にではなく、感覚的な証明だ。
そういう意味で、この証明は、真っ向から非科学的である。
嘘を89回ついたやつが、99回目には本当のことをいう可能性は、
感覚の証明でしかいえない。科学では、確率で片付けてしまうのだ。

何事も難癖をつけるのも、もっといえば、適当に振舞うこともできる。
でも、自分というのがもしあるというなら、そこから一度やってみないか?

って、誰にいってんだ・・・。

歩き方

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これが何か分かったら、絵心なさすぎである。
というか、仲間である。

さて、これは、上がズボンで、下が靴である。
黒にしようとしたが、分かりづらいので変な色になってしまった。

今日いやに目に付いたのが、こういう靴で歩いている人である。
ノーマルな革靴は普通は、「底は並行」(若干の斜め具合はあるかもしれない)というものがある。

が、これは底がななめに削れているということだ。
だから、歩く時はすごく足が中に入る形になる。

つまり、靴が斜めに減っている人のことである。
これは、非常にまずい。
何か筋力なり、何か持病なり、足が悪いなりなら、
全くどうでもいい、というかしょうがないのだが、
健康なピーポーっぽかったので、なんでそんなふうに減るのか。

靴にも悪いが、人体にも悪い。
だから、靴にはお金はかけるべきであるというのが自論であり、持論であり、TTPである。

確認方法は簡単である。
自分の普段履く靴を、地面において、見るだけである。
面白いことに、斜めに減っていても、
靴は並行っぽくみえる。だから、足首にものすごい負担が
かかっているようにも思える。

基本的な移動は、かかとかはいり、つま先へ抜ける体重移動である。
だから、横への力はあまり入らない。
歩く時、ガニマタだったり、ウチマタであると、
横もそうだが、縦にも減るから、立体に減る?ことになる。
そうなると、足首にさらに変な負担がかかる。

動物占いというものがあるらしいが、
歩き方占いというのはなぜないのか。

どうも地球人は視野が狭いようだ。

自分の人生に集中する

ワンチャンス思想からいけば、
サッカーを(つまりは、豪戦のことだが)みてて思ったことは、
集中というのがいかに大事かということだ。

おそらく、ここで僕が「集中が足りなかった」という以上に、
プレーしている選手自身がそれを吐露、いや思っているだろう。
深く刻んでも、落ち込んではいけない。
やはり、そこはプロである。何度も同じようなことを潜り抜け、
そしてその解決方法を見つけ、また突破していく。

大きく目立つ選手はその成長が早いか、
たまたまその瞬間に頂点にいただけだと思える。
だから、1位とかトップというのはすごいことなのだが、
なった瞬間、ボクシングの防衛ではないけれど、やはり
そこから初回の1位から価値は減算?していくだろう。

だからこそ、価値があり、意味があるともいえる。

自分の人生に集中していない人間はやはりつまらないのだ。
他人の人生のように自分の人生を歩むことはできる。
もちろん多大なストレスを避ける術かもしれない。しかし、それは
非常に滑稽で、笑う前に妙に考えてしまう。

ワンチャンスとは、結局古典的?には、一期一会となる。
一人の人間に出会った瞬間、次また会えるかは不明だ。
多くの人とは、やはり一度しか会えないものだ。もっとも、さらに多くの人ととは、一度も会えないのだけれど。

一時の出会いを、集中していく。
それがサッカー選手のいう「一試合一試合を大事にしていく」というところだろうか。

集中の面白いところは、きっとその集中によって、
影が光に、壁が道になることだろう。影がより濃く、壁が覆いかぶさることは、集中していたらまず起きない。
おきたら、それもワンチャンスだと思えるかどうか。
そこは集中というのは一点のみではなく、全体に焦点を当てているという感覚だ。

サッカーでいえば、試合に集中することで、より周りが見えるとか、
スペースや裏に走りこめるとか、そういうことになりそうだ。

自分の人生に集中していって失敗というか、
そもそも失敗という言葉は入り込めないのだが、
挫折とか否定とか、そういう言葉は弾き飛ばされる。
入る領域などなくなってしまう。いわゆるバリアだ。
集中することで、「否定」という外敵から守ることができる。

自分の人生にフォーカスをあて、そして周りとともに楽しむ。
そうやって生きるのもひとつの意見だろう。
で、僕はそうやって生きていくのみである。(おぉ

書いたものってなんだ

うーん、熱い。
で、コメントしてたら、新たな記事が。何の話かって?そりゃ、まいる空間のお話でござい。
前回エントリ「ものすごく引っかかったこと。」を通しての雑感。

というわけで、話はまだ続くのでございますが。
にしても、同じこと考えてるなーと妙に思いましたね。
嬉しいのやらどこかで差別化せねば、いかんと。負けてしまうと(えぇ
TB先は常にライバルであれと、僕はいいました(自分かい!っていつの間に!

んでは、本論に。

どうやら、言葉の定義、いやそもそも言葉の定義で片付く問題ではないんだと
まず先に言っておきながら、言葉の定義の問題だったようです。
だったようです、というのは僕の中ではスッキリしてないからです。納得というか、スッキリです。スッキリしたらどうなるかというか、単に僕がスッキリしないだけで、書くわけです。うふふ。

「書きたいように書く」という言葉の意味が、
「伝わるように書く」という意味なら、やはり全然違うと思います。まず、です。
あと、「書きたいように書く」というのが、「好きなように書く」という意味ではないなら
これもまた違います。
要は、「書きたいように書く」って一体なんなんだということです。
これは問いとして整理したいところです。

まいるさんが「自分が」以外の言葉がかかるとは思っていない、なんていわれてますが、
僕も同じで「書きたいように」なんて、自分以外の誰が書くのという話になります。
書くのは自分なので、やはり自分です。
で、多分話はこれで終わることはなく、そもそも揚げ足取りするのが狙いでもなく。

自分が思ったことを、文章にできるかどうか。
そういうことを考えて見ますかね。自分が思ったことを文章にできるかどうかは、
やはり人によると思います。すごーく無難な意見ですが。
それプラス、好き嫌いもあるんだろうなと。あと、表現したいかどうかってのもありますね。
自分の人生に興味ない人もいますからね。文章!?で、しかも自分を!?表現!?
なんて考えられない人もいると思われます。僕はそれが分かりませんから、
書けないといってるのは、書かない言い訳(=代弁装置)だとおもってます。

できるかどうか、ではなく、やるかやらないかという指標でものをみるようになりました。
それは結構前かもしれません。学生の頃はそう思ってても意外に何もしてなかったかもしれません。
書けるか書けないか?ではなくて、書くか書かないか?ということになります。
書くということでいえば。

だから、まいるさんが言っていると思いますが、
どうのこうのいっても、結局「書く」しかないのではっていうところに僕もつながっていきます。
どう考えても、僕の前のエントリでも言ってるんですが、
書かない理由、書けない理由をあげてどういう意味があるのかが分からんです。

分からないならそこで放置プレーでもいいんですが、
「書かない」のを「なんで?」って言われても、「あんたが書かないからに決まってるよ」という
ある種笑い話になる問いをしていることになります。面白いですね。皮肉でなく。

英語でいくと、 I dont write.になるんでしたか。まあ適当でいいでしょう(笑)目的語がいる?もうしらない。

で、次は「書けない」のほう。これは可能の意味で。I can't write.になりますかね。
「書くことができない」のは「なぜか」ということになると、
自然と話はできる、できないの話になりますね。
おーってことは、canで言ってたら、そーなるわねえ。あーそういうことか。
すごく納得しちゃった。

can writeだろうが、writeだろうが、書きたいのではないかと。
文章で何か表現したいのではないか。表現という言葉がやや敷居が高い!なんて
思うなら、何か示したいのではないか。自分の思ったことを書くとすげーすっきりする、
というストレス解消で書くの僕は大好きですが、そういうのではないか。
と思うわけです。

自分が思ったことを書くことができないのは、
ここらへんは誤解を恐れずに言うわけですが「問題」です。
文章が嫌いだろうと、書く事が嫌いだろうと、書くことから逃げることは現実的ではない気が。
読んで話せればいいというのは分かりますが、契約書など自分で書かねばなりません。
すごく現実的な話ですけどね。

そこらへんをつめてくと、
書く事ができない人はいないとなるわけです。
書く訓練を受けてないとかそういうのはここではスルーですけどね。
で、おそらく「can wirte」といってるそれは、「うまく表現できない」というレベルだと思います。

ここで話を脱線させると、
「分からない」というとき、何が分からないか分からないといっていては、
おそらく「分かる」ことはないでしょう。
ただし、「分からないことが分からないのだよ!」と分かったら、分かる気がします。
言葉遊びではなくて、事実だと思ってます。問題の明確化はすなわち解決であるとは良い言葉でございますな。

で、戻すと、
「うまく表現できない」といってるのは、何をうまく表現できないのかっていうことになってきて、
いや違うんだよ、うまく表現したいだけなんだ、というだけの話なら、
そんな「うまくいかない」ことなんて、腐るほど転がってるので、その時点でアウトかと。
またアウトかよーと思いますが、アウトなものはアウト。

自分の思ったことを文章にしたいと。そう思った人がいるとします。
じゃあその人はまず、文章を書くでしょう。で見直すと。
あら、うまくかけてないな。と思う。
それはなんで?どこが悪いのか。自分が思ったことと違う。
「書いた文章」が「自分が思った文章」ではないなんて、当たり前田のクラッカーでございまして、
そもそも完璧一致とか、100%一致していると思っていることがアウトですな。

僕がここで書いているのも、別に自分の気持ちに素直なのは当然ですが、
100%一致できているとは思ってませんわ。
人と会話して一言で100%通じるかどうかって話を考えると分かりやすいです。
ならんでしょう。何度も話すのが常でしょう。で、伝わる、分かるとなると。

100%一致はないとは思っているが、やはり「違う」からうまくかけないといっても、
結論は僕の中では同じですわ。

書きたければ書けばいいし、書きたくないなら書かなきゃいい。

で、僕が何を言いたいか。もうかなり明確になってきました。
「ブログブーム」で「やってみよう」といってやるのは自由だし、
僕は歓迎しますし、ぜひぜひ書いてもらいたいとすら思ってます。
でも、それがブームだからやるのか、本当に書きたいものが「無意識レベル」であって、
ブームはきっかけにすぎないのかと。
おそらく、ブームでやればそれだけで終わるかと思います。
それが悪いのではなくて、そういう人が「うまく書けない」からどーのこーのいう理由はないし、
そもそも僕にそんなこと言われる必要性がないし、言う必要もないわけですな。

じゃあ、何か。おみゃーさんは、文章で!表現!したくて、すごく深い思い入れがなきゃ、
そういう「うまく書けない」って言っちゃいけないのかと?そういわれるのでございますか、と。

まさか、そんなこというわけがございません。

非常にシンプルにいえば、「書きたいから書く」それだけです。
それがあれば、そもそも最初は「うまくかけなく」ても、「書こう」として、書くので
次第に「書ける」はずです。少なくともそう思う。

「うまく書ける」というのは、これまたでかい話ですが、
作家が文章表現に優れていればなれるかというとそういうものでもない、
ということから、そもそも「うまく書ける」なんて客観性はないわけですわ。
伝われば結果オーライだし、それが結果が全てといっても多分僕は嫌われないでしょうね(笑)

自分が思ったことを表現できないなんてのも、同じように突っ込めます。
何を思ったかによるし、どこまで表現したいかにもよるわけですわ。

文章が書くのが好きでも、ブログで書いてやってくのか、
メモになぐり書きするのが好きなのか、原稿用紙に書いていくのが好きか、
メモを取るのが好きか、という意味で大分違ってきますし、
表現したいのは、自分の気持ちだけなのか、他者の気持ちもか、
背景もなのか、自分についてのもっと深い理解なのか、誰か伝えたい人がいるのか、
広めたいのか、自己がスッキリするレベルでいいのか。

その前に自分が思ったことってなにか。
1つなのか、頭の中で整理できてないだけか、言語にできるレベルじゃないのか、
それも分からないレベルなのか、そもそも何か思ったのか。

僕の場合は、考えるということで、問うことで、それを細分化させ、
より明確にしようとしています。
これを感情の明文化というのかもしれませんが、
同時に感情は理屈ではないというやや違う話かもしれませんがそういうのも好きですし、
最もだと思います。

書いたものがうまく表現できてないからといって、
誰が怒る?のか、誰が文句いうのか。誹謗中傷したなら別ですが、
思ったことってそんなことじゃないでしょう。もっと軽やかな文章のはずです。多分。

たまにはタイトルの問いに答えてみますかね。
書いたものは、やはり思考であり、自分の身体!の一部であり、
身体がうまく表現できないなんてのはなくて、そのものが存在として表現されているから、
やっぱ文章は血肉であると。

だから良いもの食うと、良い文書が書ける(肉くれー(笑)
良い文章とは、自分の納得したものって程度の意味でっせ。

書くように書く

まいる共和国でなにやら面白そうな話があり。
ん?いつから共和国に。いやん、怒られちゃうわ。
とりあえず、
「ものすごく引っかかったこと。」
を読まれると面白いかなと思います。

まあ、読まなくてもOKです。全ては独断と偏見で書きますから(何

冷静に読むと、まいるさんがちっと感情的になってるのが分かりますが、
熱いなーと、今が冬だということを忘れちゃいそうですな。
ま、そういう熱さを含んだものを上梓しているところが好きですわ。
大分カットしたのがあれなんで、してないもの出したら面白かったかもしれませんね(笑)

ネタ元はこちらです。
ブログの自由と、われわれの不自由

僕は書きたいように書いていますね。
書きたいように書けないというのは、単に書くのが嫌いか、
別に書くことにそんなに興味がないか、ほとんど書いていないか。
そんなところでしょうか。

ただ、色々コメントなどを読んでて、もしかして、ですが、
「書きたいように」というのが、理想であり、
「書ける」というのが現実という話であって、
現実と理想は常に不一致であると。
そういう流れの話なら、勘違いしてたなーとは思います。
が、どちらに転ぶにしよ、この話は続きますわ。うふ。

書きたいように書けない人もいるということは、
なんとなく分かるんですが、別にそういう人に「書け」とか、
「書いてください。お願いします」とか、僕は言った覚えはないですな。
もちろん「書くのは楽しいよねえ」とはいいますけど、
それって「相手次第」で、興味あれば書いてますし、書き始めますしね。
だからそれはそれでいいんじゃないかと。僕が書くのが好きなくらい、
その人には別の「好き」なものがあるわけですな。人の好みが違うのと同じくらい、可能性がありますな(笑)
だから、そもそもそういう書きたいように書けない人が、
書くという時点でアウトかと思いますね。

それって無理して書いてないといっても、「無理」してますね。

感覚的に、ピアノがうまいバイトで一緒だった相棒がいましたが、
彼のピアノを聴いて、自分の弾きたくなりましたけど、で実際に弾きましたが、
ダメですね。4日坊主でした。1日がんばりましたね。すごい。
というのと、同じレベルじゃないかなーって。

そのレベルなら、別に大した話題、僕にとってですよ、、じゃないなとまず思います。

生きたいように生きるという比喩がありますが、
本質的にそのようであると、僕は思ってます。
ここで思い出されるのは、「自分次第で人生はいかようにもなる」という言葉で、
それは「生きたいように生きる」だと思います。
いつまでたっても生きたいように生きれないというのが、
上で書いた現実と理想の不一致というなら、僕はうなづきますけどね。
そこらへんは考えなきゃいけんところです。

書くではなくて、生きるで考えてみますかね。
生きたいように生きれないから、生きる。というのは、目的が何か良く分からんですね。
おっと、人生に目的なんてないといって生きるのも一興ですが、
やはり「勘違い」して「使命」として「生きる」のが、僕が好きですね。勘違いってのは、
自己の能力を過大視することでもあります。が、その過大視するパワーというか、
勢いはうまくコントロールすればいいだけの話でしょうな。そいつを、
人にぶつけて、「お前はバカだ、おれは天才」なんていってたら、即一人ぼっちですね。
一人ぼっちでいいさ、というのも一興ですな(笑)

では、「書く」で。
書きたいように書けないから、書く。
書きたいように書けないから、書く?
書きたいことがあるから書くとか、伝えたいことがあるから書く。
それなら分かりますけど、書きたいように書けないというのは、
書く理由にならない気がしますね。上の生きると同様ですか。

書きたいように書けるまで、今は書けないから修行として書く。
こうしてみますか。
でも、今現時点では、書きたいように書けるということはない、といっているわけで、
そういう想いはどこまで強烈か分かりませんが、
その時点で「書けるものもかけないし」、「書きたいように書ける」ことはないのかなと思いますね。

自分のなりたいようになるといって、絶対なれるわけじゃないですが、
少なくとも「なれない」と思っている人はなれないのは確かです。
それと同じように思うんですけどね。
つまり、書きたいように書けないといってる時点でアウトってことです。
ツーストライクですか。いやん。

極東ブログさんの引用がありますが、
あの一文だけではちょっと違和感がありますね。いや、ネタ元の文脈として。
というか、独り言とかで、考えをきっちりまとめて書いてない場合は、
とくに意味がないときもありますしね。
って意味でここで突っ込んでいることも意味がないことは重々承知。
で、あえて書いてみるわけですが(笑)

必要な文章はかけるというのは、書かれたものは必要なものだったという、
結果物肯定論!であって、それ以外の意味があるのかなあと。
書かれていないものは、必要とされてないといったら、
例えば、福祉にお金は必要だといってる人はいるけど、実際に実現されてないから、
必要とされてないという曲解もできますけど、「いってる人」はいるから、
違うのかなと。


で、最後に無自覚な人ですが、
無自覚というか、別に興味の話な気がしますね。
ほら、自分の人生に興味ない人が、人生の話なんぞ展開できないというように、
書くことに興味ない人が、書くことに関する話はできないと。

文章力とか、表現力って「力」って言葉は常に眉唾ですけどね。
抽象的すぎて分からんのですよね。まあ、一般論をいうならいいですけど。
誰にでも該当するように読める占いみたいでいやですよね。
というか、人がいれば誰かに当たるのが占いっていうと、占い師怒るのかな。ひー。


よし、まとめてみるか。
まず、文章を書けないという人はその時点でアウトだということ。
書けないわけがない。というのは、以前ここで「吉野家行った。うまかった」的という話が
展開されている。「吉野家へ行って、うまかっただね」というのは紛れもない「文章」だ。
「うまかった」ことと「吉野家へいった」ことは伝わったけど、それだけかなーとは思う。
だからそういうことを書いていて、誰か知り合いが見るならいいけど、
そうじゃない人は話し込むきっかけがないっすよね、っていうことになる。

書きたいようにというのが、もしも理想であるなら、理想どおりにいかないねということで
それは納得できる。
でも、書きたいように書けるまで書くみたいで、なんかやだ。
そもそも、100%相手に理解してもらえることなんてないでしょう。
90%くらい理解してもらえれば上出来かなと。逆に100%理解されたら、
自分の自己アイデンテテというものがなくなる。なぜなら、相手と自分の区別がつかなくなるから。
むー、恐ろしい。


後、連載への前だしとして、聴衆(笑)を煽る狙いがあったならば、
それはそれでいいかも。インパクトはあるかもしれない。
でも、そういうの嫌いな人もいるってことは確かなり。

後はタイトル。
「ブログの自由」は、書きたいことが書けるといってる人がいるように自由があるけど、
「われわれの不自由」として、そんなうまく書けない不自由があると。
むしろ逆で、ブログで不自由している人が、われわれ、ここでは現実生活かな、で
自由なわけがないという問いはないのかなあと。

自分の人生に不満があるのと同様(短期的な愚痴、不満、ストレスはここではスルー)、
うまく書けないといっているだけ(だけがポイント)は、一生かけないだろうと断言。
書けないといって書く人間が僕は好きだし(聞いてない)、
書けないといってること、その理由は「あらゆる意味で無駄」であるとさらに断言。
だから、必要だからかけるし、書きたいから書けるしということになる。


で、最後にとどめを。
そもそも、そんなに悩んで苦しんで書いたものがあってもさ、なくてもいいけど、
書くということをそんなに「高級ツール」にしなくてもいいと思ったりしますな。
それぞれのスタイルがあるでしょうしね。
だから、悩んだことがないという人は無自覚かもしれませんが、
「悩んだから自覚している」ようにも見えます。
もちろん、学びは失敗や苦しみや迷いや悩みがあるからこそ、するしされるのですけど、
だからといって「悩め」とはいえないし(言ってないけどね)、
悩んだことないからってのは、違うかなあと。


で、スリーストライクかな。

さらにお節介を少々(おぃ

・ブログを始めたいが、どういうふうにやろうか迷っている
これは興味ある人はやるべきだし、やって楽しめばいいと思いますが、
ブログを作るのが目的だとそれで終わりですね。つまらなさそう。

・ブログをはじめたけど、思ったより楽しくない
ブログが悪いんじゃなくて、楽しみ方がヒットしなかっただけではないかな。

・もう少しアクセス数が増えると楽しそうだ
アクセス数の意味を語るのもありでしょう。
数値は絶対ではないが参考にはなる。数字は嘘はつかないが、
嘘の数字を書く人はいますね。
アクセス数を増やしたいなら、コンテンツを充実させるのが現実世界と同様かな。
コンテンツが充実させられないなら、そもそも向いてないと諦めましょう(笑)



文章術というのは基本的に眉唾です。
なぜなら、そりゃそれ相応の決まりって意味では、書き方がありますけど、
それって基本的な話であって、別に「自由な書き方を縛る」ためにあるわけじゃないですしね。
アドバイスとはその人の真実で「しか」ないのか、
真実「である」ととるのか。アドバイスをする側ではなくて、
アドバイスを受ける人の器によりそうですね。

で、僕は必要だから書いているのだと思いますと。
良い文章ライフを♪

文章が苦手な人

さて、「吉野家へ行った。うまかった」が頭から離れません。やばいっす。

というわけで、
happy hunting groundのまいるさんのエントリ
「評価を恐れているのは誰だ?」

から派生。

結論はこうなっとります。まいるさんのコメント引用。
【ここから導き出される結論は「誰もそこまでお前の事を構えるほど時間がない、みんな自分のことで精一杯なんだ」ということでして。そしてそれが正解だろう、と。】

簡単にまとめると、
文章が苦手な人は苦手だとかいっておいて、
実はそういってるだけで、「単に評価を恐れているだけでは」と。

評価ってのは、「あなた文章下手ね」とかよりも、むしろ
「あんたの考えはよくわからん」とか「なにいってるのか?」とかなどの、
考えを表現したけどもうまく伝わらないケースがここではより近いかと考えます。

「苦手です」といっておけば、いわゆる「想いが伝わらない」とか、
もっといって「摩擦」が起きた場合に、
「わたくしめの不徳といたすところでございます。なにせ文章が!苦手!ですから」と
いえばすむって寸法です。

ところがどっこい、例えば、辞表を書いて、相手に退職の想いが伝わらないのでは、
やっぱ「吉野家へ行った。うまかった」のレベルの文章を書いていては、
おっと、こんなことをいうと、日記を書くなという風にとれるかもしれませんが、違いますよ、おほほ。
書いていては、ダメなんじゃないでしょうか。
辞表で辞表できないなんて、軽いネタになりますね。

ま、そんなたとえ話はともかく。

文章はおそらく、まいるさんの言われるとおり、学校の国語ってやつが、
厄介だし、そもそも読解力は微妙です。
学校教育批判は簡単ですが、何もうまない気がするのでスルー。
そもそも僕は文章書くの好きですけど、前からというよりも、むしろ本を読むようになってから、
というのが正確なところです。ま、それはスルーで。

文章が苦手だというのは、結構辛いものです。
例えば、自分が考えたことを「うまく」言葉にできないのは「ストレス」です。
少なくとも僕はストレスでございます。もちろん、あらゆる考えを言葉にできるなんていってません。
で、そのストレスはまあ、好き嫌いとか人は色々な人がいますからね、文章は
苦手とか好きとかそういう感覚的!なレベルで言ってていいのかなあと。
多分ダメだから、こんなこと書いてると思うわけですががが。

別に文章が苦手だからダメですとか、そういうことじゃないですわ。

こういうツッコミをしたいんです。
「あんたは文章苦手っていうよね、じゃああんたが文章苦手だとするさ。
で、あんたは文章苦手だけど、文章書いてるわけさ。
で、その文章をどうしたいのさ。日記でうまかったとか書いてりゃ、それで満足なのかね。
ネットで何らかのことを書くってのは、たとえ1ミクロンでも反応が欲しいんじゃないのかね。
反応を欲するのを何も「文章がうまい人」がやる行為なんて思ってなかろうかね。
こういうことを書いてみたいから書くのかね?ならば、海のものとも山のものとも
分からぬあんたの文章に反応するってことは、文章それ自体があなたというものと
一緒になるくらい、想いを詰め込むか、密度をこくせんといかんのじゃないかね。
それが大げさと思うかね?大げさだとか、堅苦しいとか、そこまで覚悟がないって?
ならば、文章が苦手といって、そのままの人間でいたまえ。別にそれも一興だわ。
で、最後に。
文章が苦手というなら、次は何をしたいか考えてくれ。
好きになりたいのか、うまくなりたいのか。何だ?
別にうまかったという日記書いていれば満足。友達とか身内に見せるだけでOKなら、
そもそも「文章苦手」で、書かないよね。
つまり、文章が苦手といってもいいけど、だからブログが続かないとか、
妙な自己正当化と、妙なレッテルを他人に貼るのはやめてくれないかな。
というか、そんなこといってるからいつまで経ってもダメなんだよ。」

と、まあそんな感じです(おぉ

で、書いてて思ったのは、
文章が苦手な人って、いいですか、ここから注意、
そうやって「本当に」思っている人は、まず文章書かないでしょう?
文章書いているブロガーは、苦手じゃないってことですわ。これはまいるさんも確認済みですな。
文章が苦手な人は本当に書かないんですわ。
文章を多分読むのも苦手だと思います。
本好きに文章が苦手な人はいないと推測+断定しときますか。

ってことは、文章が苦手な人って、
恐れずに言うわけですが、やはり単に「考えてない人」であるといってしまいましょう(そうきたか
考えてないから、書けない。書かないから、考えない。の循環。おめでとう(笑)

ってことはやはり、文章が苦手だという人は、誰かの反応が欲しいのです。
その文章がどんなものであってもね。というわけで、まいるさんに同感。


思い出しました。
文章に重さ、つまり「想いが入った文章」のことをここでは意味しますが、
があると、バカみたいとか思う人もいるそうです。
そういう反応というか、バカみたいと思うのは勝手ですが、
何をもってバカというのか。非常に本当の意味で「偏見」ですね。蛙ちゃんというか。がーがー。カエルが可愛そうですわ。

常に何かに白けて、興味をあまり出さずに、表層的なところで暮らして、それが
人生だと思っている。別にそういう人生は一興ですな。まあつまらなそーとは思うから
真似しませんが。

文章がうまいと思っている人ほど、下手な気もします。
僕は文章がうまいとは思ってません。念のため。
多くの熱きブロガーもそうでしょう。まいるさんもね(笑)



コミュニティが今後ますます必要となってくる?

隣に誰が住んでいるか分からないなんてことはよくある。
自分の住んでいる付近にどのような人が住んでいるか知らなくてもいい。
知らなくても生活できるからだ。

しかし、ある日突然、何か事件が起きた時、人々は戸惑う。
原因は何か。どうしてそんな人が。なんでそんなことになっているんだ・・と。
僕自身も今住んでいるところで事件が起きれば、非常に気になり、
明日はわが身と考えてしまうだろう。


コミュニティとは、集まりといった意味合いで僕は使っているが、
中間社会という言葉もなかなか分かりやすい。
個人が所属する集団には、家庭や学校や会社などがある。
社会という大きな集団もある。住んでいる地域社会もその1つだろう。

一昔前では、生き方のモデルが今よりは明確だったようだ。
しかし現在では、多様性という社会の中で幸か不幸か生きているために、
なかなか明確に何かを決めるというのは難しいらしい。
そんな中、何かに悩んでしまった時どうするのか。
もちろんそういったときは、家庭があり、友人や恋人があり、学校や会社なら、そこでのつながりもあるはずだ。
子どもなら親に相談するかもしれない。友達でも先生でもいい。
仕事なら、上司や同期に相談するかもしれない。

ただ、それらでは補えきれないほど社会は変化し、多様化していると僕は感じている。
こうやって生きれば良いという指標のようなものはおそらくない。
昔からそのようなものはないといえばそれまでだが、一昔(=高度経済成長時期)においては、
良い学校に行き、良い会社に勤めれば出世し、そして人生は安泰であるというものがあったが、
非常に分かりやすいと思う。

現在はどうだろうか。多様化した社会では個人の考えが重視される。
個人の考えが重視されるということは、個人の決定が直接自分の人生を決めることになる。
そのような環境では、常に自分が試され、自分が決定し、肩肘を張っていきなければ
いけないような感覚に陥りやすいと思う。
自分がほっとできる、落ち着けるということが非常に重要になってくる気がしてならない。
もちろん、家庭や友人、恋人などのつながりが重要なのはいうまでもない。

そこでコミュニティが出てくる。
家庭でもなく、学校でもなく、会社でもなく場でもないもの。
フォーマルとインフォーマルの中間といっていいのだろうか。
それをコミュニティと呼びたい。
中間社会とは、小さな社会(家庭など)と大きな社会(地域社会、日本社会)の間に位置するものという意味合いでここでは使っている。

ここでいうコミュニティというのは例えば、
インターネットではミクシィなどのSNSと呼ばれるコミュニティがある。
もちろんそういったサービスではなくても人とつながることは可能だ。
地域でいえば、囲碁やお茶といった趣味の会とか、社会人のサークルとかいったものがある。

SNSをはじめ、ネットコミュニティも現実のコミュニティも今後もっと増えていくだろう。
そういったコミュニティが増えることで、個人はより落ち着いて生きていくことができるだろう。
賢者の集まりといえば言い過ぎだが、単に集まれる場所があるだけで、人は非常に安心するものだ。

コミュニティが多く形成され、そのコミュニティに個人が属し、さらにコミュニティ同士の交流が生まれる。
それは個々のコミュニティの集まりが地域社会となることを意味する。
結果的に、地域の人々が地域社会を作り上げていくことになる。

その一例を挙げてみよう。
ap bankというものが比較的著名だが、東海地方にもmomoというコミュニティバンクが
創立された。(http://www.momobank.net/)
エコマネーといったものも同じように地産地消を目指し、地域の経済活動を活性化する
狙いがあったと思うが、それに似たものと考えていいだろう。
つまり、地域社会を地域の人々のお金で循環させていこうというものだ。
このコミュニティバンクは地域社会は地域の人々で回すという好例だと考えられる。
出資者は志高き人に出資をし、融資を受けた人は地域に貢献をする。
地域社会を人々が作っていくのに非常に面白い仕組みだと思う。
もちろん地域を面白く楽しくしようという人が少なければ厳しいかもしれないが、
こういったコミュニティバンクからコミュニティや地域の人々とつながるというのも
非常に刺激的で面白いと思う。


隣人が誰か知っておくのは社会においては基本的かつ重要なことかもしれない。
ただ、社会とは人が集まる場であると考えれば、ここは柔軟に考えて、
仮に隣人が誰か分からなくとも、コミュニティを通じて間接的に知るといった手段も
あっていい気がする。


ただコミュニティが必要だといっても、
注意すべきは、コミュニティといっても、どんなコミュニティなのか、信頼できるのか、何を目的としているかといったものから
個人が判断していくしかないだろう。

今後、地域社会が、いや小さな社会であるコミュニティが人々の拠り所となればいいと思う。
もっといってしまえば、「こころの拠り所」となるだろうと思っている。

参考記事
ご近所付き合いを見直した出来事 隣りのおばさんは“名探偵”!?

参考図書
上田 紀行 「生きる意味」岩波新書 2005 ISBN 400430931X

自分の名前に込められたもの

実家に帰ってふととある額にかざられたものをみる。
満一歳時に手形とともにメッセージと名前が書かれている。

メッセージはこうだ。誰が書いたんだろ。
「その小さな手で大きな夢をもち信実の道を歩んで欲しい」

すばらしい。戌年最高。
どうやら勘違いしてたらしい。
敵を倒さなきゃいけないと思っていたが、違うってことだ。
どうも勝手に倒れていくようだ(おぉ

名をつけてくれた親へ。
ありがとう。

考える人間と考えない人間

で、前提が人間は成長するものであるーとあるので、
当然、考えない人間を考える人間が下に見てるってことになる。
ちなみに、僕は考える人間としてエントリしてる気がする。

問題は、考える人間が当たり前だと僕が思っていることのようだ。
自分の価値観の押し付けである!
と、厳しくいっても、意味がないなあと思う。押し付ける気はないからね。

考えない人間からみて、考える人間は「窮屈」にみえるんだろうか。
そんな考えて生きて辛くないって思うんだろうか。
多分そうだとしたら、それは勘違いの可能性が200%なのでお願いします(おぉ

いいんですよ。
別にどんな風に生きようが。
でも、目の前に違う人間?がいて、僕は戸惑うわけです。
ってか、そもそもそうなった原因は・・・環境のせいにできないじゃないって・・。

寒けりゃストーブとかいれて部屋あっためるでしょう。
ストーブを買えるお金がなかったら、稼ぐしかないでしょう。
稼ぐ口がないなら、それを探すしかないでしょう。
で、そこまでくらいかな・・・。

そりゃ・・・さ、障害とかさ、福祉的なところで、
フォローはするわさ。それが国家であり、自治体であると。

まあいいのかねえ。
とりあえず「自分の人生を他人の責任にできない」っていうルールは
法律にはないねえ。

表現手段、仕事、将来。

スーパーハードジェルなみの、硬い文章を寝る前にどうぞ。(え、そんなのいらないって?)

同期と軽くのみつつ語らい、巣束で語らう。(スタバですよ)

よく分からないけど、同期のストレスは少しは軽減したようだ。
いや、そうだといい。そうじゃなくてもいい。(えー

話した内容を整理すると非常に簡単。
「現状に満足してない。このトンネルを照らす松明(たいまつ)は?」
であると思う。

シンプルな質問ほど答えに窮するものだ。
僕もよく分からない。

僕は具体レベルで考えるのが好きだ。
多分抽象的表現できるってことは、具体表現もできるからこそだと思ったり。
具体レベルってのは、例えば、自分が今面白いと感じるところで、その延長か
もしくは発展、ひねりを加えたもの、他の面白いものとのミックス、
面白いと思っている人とのミックスとかも大いにある。

以前、核となるもの云々な話を書いたけど、
自分が今やりたいことからはじめればぶれることはない。
なぜなら、やりたいことはその時点で考えるだけで楽しく、
実際にやればさらに楽しいから。で、仮に3日後にやりたいことから消えたものでも、
それを実際にやりたいといって、実際にやったことは消えないわけだ。
それが達成感なり、充足感なりにつながるはず。だから、無駄が生まれない。

最初に決めたことに必ずしもこだわることはないんだ。
徐々に変化する。それは別にいい。でも、最初に決めたことってのは、
あくまでも核となるものから決めたものであって、
適当に選んだものであってはいけない。
なぜなら、適当に選んだものなら、それ自体が変われば、
最初に決めたことが「変化」するのではなく、本当に根本から変わったことになるから。
あえてまわりくどく言ってみた。

表現をしたいと思う。
自分がこうしたい、これは面白いといったものは積極的に取り入れるわけ。
仕事はやはり楽しめるレベルまで落とさないといけない。そいつは自己の腕次第。
将来は、未来なんだけど、今の延長線というよりも、今でしかないと思う。
今でしかないというのは、現実しか見ないというのではなく、今の自分の連続という意味で。

世界は広いし、悩みも深いこともあるし、悲しみから立ち上がれないこともあるし、
意味のない行動をすることもあるし、笑えること、死にたくなること、泣きたいこと、
そして、不安になること、病気、現実から逃げたいこと・・・。
さまざまなことがあって、だけども、やはり「楽しい」といえるのが僕にとっては大事だ。

なぜ僕は問うのか。なぜ生きていて、なぜ働いて、なぜ・・・なぜ?

哲学の面白さは、その「なぜ」と問うところだ。
本の面白さは、著者の想いや考えと対話できるところだ。
文章の面白さは、言葉という無数の組み合わせであらゆる表現を可能にすることだ。

将来の面白さは、分からないことにあると思う。


最後に。
好きなことを誰もがやったら社会が崩壊するというかうまくいかなくなるという意見がある。
例えば、ゴミの処理とか。確かに機械にまかせても、そいつを運ぶのは人間だし、
機械が壊れたら治すのも人間だ。
ゴミの処理なんて誰もしたがらないというのはわからないし、
したがる人がいるというのもとりあえず分からない。

思うに、こういううまくいかなくなるという人は、
自分がやりたいことや好きなことをやれないだけの言い訳をしているだけなきがする。
だから僕はその手の人間が嫌いっと(聞いてない

ある人間の人生で、すべてやりたいこと、好きなことで構成されているわけがない。
そもそも、好きなことやるって、嫌いなことがあるからいえるっていう、得意の論理にもっていきたいが、
ここはあえてスルーして。

我慢とか忍耐がすごいこととは、思わない。
その考え方はやや古いかな。もちろん、古いから悪いわけじゃないけどさ。

やりたいことのタイムラグ

ちらっと以前書いたようだけど、まとめてみせませふ。

やりたいことがある人がいるとします。
彼(彼女)は、仕事等で、時間が足りないと思っています。
では、やりたいことをするにはどうすればいいか。

時間がないなりに、彼(彼女)っていうのが面倒なので、その人としよう、
その人は、時間を確保する行動にでるでしょう。

仕事の合間、休日などを使おうと。

ところがどっこい、予定が思ったとおりにうまくいかないように、
時間を確保しても、その時になると困ったことにうまくやりたいことを実行できません。

ということが、僕には多々ある気がします。
皆さんはどーでしょう。

実際にやりたいことをやっている、そんな状態にもっていくには、
時間差があります。タイムラグとはそのことを今回指しています。

で、さらにすすめると、
やりたいことをやるには、タイムラグを極力なくすことを
考えたのですが、これって車のハンドルに遊びが必要なように、
やはりなくしてキツキツにするのも考えものだと思ったわけですわ。

要は、マルチタスクにして、
やりたいこと1がタイムラグが小さい、やりたいこと2がタイムラグが大きいなら、
やりたいこと1をすぐにこなすべきかもしれません。
が、やりたいこと1をすぐにしなくても、「遊び」が必要かもしれません。
やりたいこと1をしている間に、やりたいこと2には「遊び」が発生するという
考えもありでしょう。

優先順位で物事を決めるのは、なかなか良いと思ってますが、
このタイムラグを考慮すると、ベターなタイミングとか、うまいタイミングで
何かするってのもありなようです。

それは、起業するタイミングがあるとかないとか。そんな話ともつながります。

あと、タイムラグを考慮しない、気づいたらやっていたというレベルまで、
やりたいことをやっている・・・状態にすれば、良いなあとも考えられます。

ああ、これやらなきゃいけないといって、タイムラグが発生し、
やれないのは、どうなんでしょう。やれないものはやれないじゃないか・・・いや違うといって、
自分に言い聞かせて追い込むのもありでしょうな。
逆にやれないものはやれないといってあきらめるのもありでしょうな。

タイムラグと優先順位と追い込みをうまく使い分けると、
パターンが多くなりそうです。
それは広い視野というか、色々なところから状況を切り分けられるので、
面白いなあと個人的に思ったわけですな。笑顔

アイデンテテ確立

新環境になってから3ヶ月後にアイデンテテが揺さぶられる。
というRMの法則がある。(って、てめーの経験則じゃねーか、このやろー(笑))

と、突っ込みをいれつつ。

サラリーマンってなんだろ、自分ってなんだろ、働くってなんだろ、生きるってなんだろ。
と、考えているのだけど。

ふと思い出したことがあった。

大学生活一年目で、夏休み入る前くらいにすごい悩んだことがある。
ちょうど今くらいの時期だ。今年の夏も暑そうだ・・。

それは、大学の仲間というか、連れというか、そういう人と一緒に話していると、
なんていうか「腐ってくる」のを感じつつあって、嫌だった。

そういう腐っている人の一人は「自分がすごいやつだと思っているやつが嫌い」という
発言をする人だった。
そもそも「すごい」と思っていなければ、「すごい」やつにはなれない・・・。
自信過剰でも、自信がまったくない人間よりは、僕は好きだ・・。

そんな人達。別に彼らは悪くないんだろう。性格には、彼ら彼女らとしておくべきか。

大学入学3ヶ月でアイデンテテという言葉を駆使し、そういう思いをHPに綴っていた。
このブログはその延長線上であるといっていい。


自分って何か。徹底的に考えたかった。
そういうところで、そういう思想というか、思いについてこれる人間、
いや、ついてくるってのは、表現が悪いかな。そういう人間は、こもれび氏しかいなかった。
残念ながら、皆逃げてしまう。逃げるというのも、偏見かな。
こっちが相手を知らないだけかなって、そういう立場を変えた見方も出来る。
でも、そういうのを割り引いてもなんか違うべ、と思ったんだ。これは間違いない。今でも。

そういう哲学的問い、心理学でいう青年期の自我確立、またはモラトリアムのアイデンテテ探索期間。
そんな時期だって、一応科学的にいわれてるんだから、それにハマルかもしれないけど、
それはどうでもよくて、もっとシンプルに自分に素直に生きる姿が、良いなと。


ドラゴン桜という漫画は面白いと思う。
けれども、東大入学後の生き方なんぞ「そんなもんお前らで考えろ」と言い切ったはず。

そうなのだ。

重要なのはここからも明確なのだ。

そう。大学に入ることではなく、試験をパスすることでもなく、大学生になることでもなく。
重要なのは、じゃあそこで何がしたいのか、ということに尽きる。

これを観念的、抽象的、哲学的などといって、考える人間が少ない気がする。
いや考えはするさ。でも、「分からん」から放置する人間がということだ。

別に放置してもいい。でも、そのまま自分に跳ね返ってくる。
それは自分自身のことだから、誰もかまっちゃくれない。


究極的なところで、僕は人に理解されないというところに、満足を感じる人間なのかもしれない。
なんかすごいひねくれているのだけど、それはそれで。

矛盾した行為がすごく面白い。
こう考えていくと、殺人者の殺人行為もある程度は理解できる。
もちろん、そいつはあまりにも自分のことを考え過ぎているのだけれど。

さあ・・・出かけるか・・。

TABLEタグからブログの質。

うーむ・・・。
TABLEタグでレイアウトをすると、云々という話題が以前あった気がする。
Googleで検索すると普通に出てくるけど。
要約すると、どーも<TABLE>タグってのは、表を表示するためであって、
そいつをレイアウトに使うなって立場と、
使えるものは使おう、見た目良くしたいじゃーんという立場と分かれるようだ。

ここでキーワードは「アクセシビリティ」とかいうやつだっけ。
読み上げる?機能を用いると、TABLEがレイアウトで使われるとおかしくなるとか。

なんだかこういう議論は嫌いじゃないけど、どうも関わりたくない。
といってしまったら、関わってるのことになるんだろうな。うは。

それはいいとして(本当は良くないんだけど)、
ブログの質へ。(珍しい、タイトル通り展開されてる)

結構前に「ブログで駄文を書く」ことで、そいつが検索エンジンのボット(ロボット、Webサイトの収集プログラム?)が反応して、いわゆるSEO云々。で、
結局、「検索サイトで検索している人に対して」は、「不要な情報」が集まるから、
駄文はやめろというか、書くべきではないっていう、話があった。というか、ある。

でも、これってなんかオカシイなと思っていて、今日あるブログを読んでたら、なんか同じようなことが書かれてた。
内容は、小説とか書きたいならブログはやめろーみたいな内容の紹介?で、
ぶっちゃけどうでもいいのだけど、ふむーといいつつ読んだ。

検索エンジンの利用者の立場からいえば、確かに「店 うまい 安い 雰囲気良い」で、
自分の欲しい情報がゲットできればいいだろう。
でもそれって、非常に「最も」なようで、非常に「乱暴」だと思う。
データを読みとって解析してってのは分かるけど、結局イタチゴッコというか。
悪意あるというか、悪さするやつはどこでもいるという話と結びつくわけですな。

で、立場を変えて、ブロガーから言うと、
何を書こうが、自由というのが普通だと思う。
あのブログは駄文が多いから消えろって思うのは、思っていてもいいけど、
実際にコメントしたり、ブログを晒すのはまた別の話だ。
これって、人を殺したい!と思っても殺さないのと似てる。大袈裟かな。まあいいや。うふん。

自分が質の良い情報を提示できていると認識し、自分はブロガーとして、
またはHPなどで情報を書いている、何か記事を書いているとした場合だけど、
それでもって、「駄文ブログ」を批判するのはいいけども。
そもそも「ブログ」に駄文云々いってる時点で、もうレベルが低いかなと。

ずっと前にそんなルールは確立できたはずなんだろうなと思ってたけど。
HPが流行った時、「更新を早くしろ」って変なメールが来るサイトがあったそうな。
そいつは非常にうざい。お金を取っているなら言えるが、そうじゃなきゃ、
要望メールとしてスルーされてもいいメールだ。普通は。

つまり、HP更新はHP作者の勝手というルールだ。
もちろん利用者や読者に配慮するのが自然だろうけどさ。でも、その配慮も作者次第なわけで。

まあ、批判したら、自分の意見を書くべきだけど、
そこらへんのルール守ったら、後は自由。
っていうルールの話。

それを今になって、ブログが流行ったら、ブログで云々。
なんだろね、こういうのは。時代は繰り返すというか、まだそんなことをいってたのかと。
そういうことを思う。

いいんでないかのかね。と、思う。
だって、自分がつまらんと思っている記事でも、文章でもアップしても、
そいつが面白いことだってあるわけだしね。

その情報が誰かにとって有益とかどうかって、本とか雑誌の紙の話だと、
チェック機能があるかどうかっしょ。それはHPはやったときにもあった。
HPに乗る情報は、信憑性が低いって。そんなのは前から言ってるじゃない。
ブログって、そういう意味でいえば、信憑性は高いんじゃないんすかね。
同じブロガーが何年もやっていれば、HPも同様だけど、それはその人自身から
出てくるネタだって証明できるっていっていいんじゃないかね。
どうなんすかねえ。

チェック機能がないから、その情報はダメだって。
それは違うね。チェック機能なんぞ、自分でやればいいわけで。
それが面倒なら、ブログなんぞ読むな!HPなんて見るな!

これがネットの世界のルールじゃないかねえ・・・。

肯定的なデータばかり蓄積されるのが嫌な人が、そういうこといってるだけな気がするな。

ああ、今日、創価学会に皆入っていくの見たなあ・・。
宗教か・・・と、なぜかため息がでてしまう。
別に創価さんをどうこういうつもりはないけどさ・・・。

なんだっけ。営業マンだったかな。
政治と野球と宗教の話は禁物だっけ?

宗教の話は滅茶苦茶面白いし、政治の話も面白い。野球はあんまり興味ないけど、
熱く語れるものはあったほうがいい(笑)


で、ブログの質ですけど、幣ブログにはファンがいる時点ですでに満足。
まさか、ファンがつくとは思わなかったから。

毎日見てくれる人ありがとさんQ。

大学で何を学んだか

ほう・・・今日の1件ヒット。

にしても、Pageviewが恐ろしいことになっちょる。
5日は約Visitの2倍。PageView率200%突破。嬉しいじゃないか。
今日もほぼ2倍近く。うんにゃあ恐るべし。


で、大学で何を学んだかについて。

大学で何を学んだかというと、まあ専攻してた学問について語ることが多いと思う。
けども、学びというのはそれだけじゃない・・・はずだ。
と思う。

実際に働いてみて痛切に感じるのは、やはり環境は作るものだってこと。
あー別に自然環境を破壊しようと意味じゃないっすから。

大学で学ぶには、って前も何度も書いてるのだけども、
環境を作るって意識がないと、多分学びは圧倒的に不足するのだと思う。

大学のキャンパスで溜まって、だべってバイトなりサークルして、
レポート書いて…遊んで、終わりっていう人が結構いるんじゃないかなあ。
僕はそういう人を好んで切り離してきたし、緩いつながりというのが苦手だった。
今もそうなのだけど、今の状況は、好むならこちらから、好まないならそのままスルーという
状況だから、あまり何かに所属しているという感覚がない。
もちろん会社に所属しているのだけど、ぶっちゃけていえば、仕事さえ出来れば
良いのだと思う。そりゃ他にも色々あるんだろうけどさ。

大学でこういうことを学んだと、1つでもいいから言える人は結構少ない気がする。
実際に就職活動で、面接でそのようなことを聞かれたことは多い気がする。
その質問の意図は考えればすぐ分かる。

何を学んだか?と聞かれて、人間関係の大切さといえば、それはなんだって突っ込まれる。
当たり前だ。なぜか?面接官の立場に立てという言葉は、こういう時に使う。
自分がそんなこと言われたら、絶対聞き返すからね。
突っ込まれたらまた言葉を口にすればいい。なぜ人間関係の大切さを学んだのか。
その大切さって何か。

まさに考える作業だ。これを「哲学」という。

大学で何を学んだかというのは、はっきりいってどうでも良いことなのだ。
でも、一体何を学んだと「思っている」のかが聞きたい人が多いのではないかと思う。
僕は他人については、その人の思考が好きであって、出てくる結果は結構どうでもいいとすら思っている。
それくらい人の思考は面白いと思う。

僕が大学で学んだことはどっかに書いたのでパス。

今回は「何を学んだか」といって、何も出てこないのはちっともったいないかなと思うってだけのこと。
または、大学の4年間をどう使ったかという視点でもいい。
4年間の自由とはいわないけれど、多くの人は自由だったと思う。
そういった環境で自分がやりたいことができなかったら?
そう、もうどういう環境でも何もできないんだってことだ。それが嫌なら、悔しいなら、
今後変えていけばいい。もしそういう人間だからいいやって、放棄しちゃうなら、それもいい。

でも、そんな程度の人間に、このブログは見て欲しくないし、読んでもつまらないと思う。(おぉ

他のブログは知らないけど、このブログは不特定多数向けじゃない。ピントがぼやけるからだ。
読みたいやつは読め。読みたくないやつは読むな、だ。
去るもの追わず、くるもの拒まずだ。

ブログとかネットの情報とかが、氾濫してるから、情報が無料になるかって?
そんなことない。価値のある情報が生き残り、腐った情報は淘汰されるだけだ。
そこには少なからず、要はこのブログにもファンがいるってことだ。
それだけのことで、このブログは継続される。ありがとふ(笑)

幣ブログは読者を選ぶし、読者に攻撃すらする(笑)
だから、もし意見を言う場合はその人のフィールドであるブログを持つべきだとすら思う。
そうしなければ、コメントだけでは圧倒的に意見者の背景が分からないから。


人はなぜ生きるのか

アクセス解析にてトップ。2件だけど(笑)

そうっすね。なんで生きるのかって。
本当分からんところですな。

ただこんな分からんことで、死んでしまう人もいるわけで、
それも分からんですけど。

誰かが
「何で生きるかって分からん」と
教えてくれる…わけじゃないっていつ気付いたんだろう。

まあいいや。

でも、変な話、宗教なんかに触れちまわないと
「哲学」だの学ぶ意味がないかもしれない。
だって、日常生活で全く必要ないから。本当に「生きる」だけなら。
哲学なんてそういう人からみたら、クソみたいに見えるんだろうと思う。

さて。

なんで山に上るのか。登るか、か。
そこに山があるから。

ならば、人はなぜ生きるのか。
そこに自分の人生があるから。

これでいいじゃないかと思う。そういう感覚でいいのだと思う。

村上龍が言いまくってる、アナウンスが届いてない、というのは
結局、そういうことなのだと思う。
ただ知らないだけじゃなくて、通信網、インフラからつぶされているといえばいいんだろうか。

アンテナを張る事。それでカバーできるって結構前に気付いた。
多分そいつは、自分の動きの成果だと思うけど、誰もそれは認めてくれない。
というか、認めてくれる必要がない。だって、自己評価しか今は意味がないから。
他人から誉められれば嬉しいけども。それとは違って。


なんで生きてるんだろうなんて。考えても答えがないなんて
とっくに分かってる。ってことは本当に分かっていることなのかと
ヒトヒネリくわえれば、誰もついてこれないさ。「難しい」から。
でも、日々考えている。
なんで働いているのかって。生きるために?
ならなぜ、生きているのかって。

自分は常に良い意味でこんなんじゃないと思っていきてきた。
環境によっては、「アホ」呼ばわりされ、そこで杭はもろくも打たれてしまったことも
あった気がする。だから、環境は自分で見つけるものだし、自分で構成し作るものだって、
そういうことが分かったんだ。

そういうプロセスというか、動きをせずに、
現状に対する不満、否定のみをタレ流すのはおそらく、ダメだろう。

死んだように生きるならいっそ死んでしまったほうがいいかもしれない。
明日楽しいことがあるから、生きているって。
それもなんだか違うんだろうけど、自分の人生だって、自分の人生は自分のものだから、
という1回きりの人生だというような考え方。
意外に少ない気がする。

だから、つまんなさそーな人生になるんだと思うけど、
まさか、僕がそんなことを本人の前で言うわけがない。
僕はそんなに傲慢ではないが、少しは傲慢だろう。うん、これは良いフレーズだ。



自分に対して自問しない人は本当に愚かだ


お前はしょぼいやつだ。

そんなことを言う人間が実在するだけで、なんかはらわたが煮えくり返るというか。
冗談なら許されるーかもしれないけど、どうなんでしょうね。

お前は、お前は、お前は、
しょぼい、しょぼい、しょぼいやつだ。

じゃあそういう発言者はどうなのか。
自身がしょぼくないから、言うのか、
自身は棚上げしておいて、言うのか。

どちらにしても、器が小さすぎる。
前者の場合、しょぼくないから言う場合、それはただの思い上がりだ。アホです。
後者の場合、タナアゲするのは別にいいけど、言ったら、自分への自問がなきゃアホだわ。

大した人間かどうかで、色々言ってるけど、
自分が馬鹿じゃないといっておいて、その後で「馬鹿かもしれない」といって、さらに「馬鹿じゃない」と
言える人は、あんまりいない気がする。つまり、それくらい自問する人は少ない。
普通は、そこまで考えないというか、考える必要がないというか、
考えなくても生きられるから、皆サラリーマンで楽したいんだよ。

残業を月に、200時間やったとしよう。多分死ぬよ。知らないけどね。
それって本当に厳しくて辛いのかって。そう感じる。
単に「奴隷」のように、「こき使われている」だけなのに、それを一サラリーマンが、
自分への充実度とか、満足度を上げるために、他人へのかっこよさとして?俺は働いているぜというポーズのために、
「厳しいけどがんばっている」といってるだけじゃないの?

そんなことをいう余裕がないくらい働いているんだって?
そりゃ勝手さ。状況によってそうなるかもしれない。
でも、それって「厳しい」のかね。誰にとっても厳しい気がするし、というか普通に考えておかしいわ。

そこで思考停止しているだけじゃないか。
働いて、時間がなくなれば、何も考えなくていい。そういう意味で辛いかもしれない。
でも、働いていればそのまま生きていける。滅茶苦茶…楽じゃないか。それって。

そういう人生は嫌だって、同期は言ってたな。その通りだ。
残業は嫌だし、出来れば仕事はきっちり定時におさめるのが基本だ。
その上で働くこと。そして自分の力に結びつけること。

そういうのって、自己啓発本なり、話を色々な人とするなりして、
見なおすことが大事だなーと感じる。見なおさないと、多分忘れるから。

そういう意味で自分のブログは見なおす良い機会となっている。
素敵だ。うはは。

バカは適当にあしらうに限る!うっひょー。
自分が適当にあしらわれたら、バカにされたってことになるな・・うわーん。

ITEB方向性

ふと思いついた。

地下街のWaterForLifeというテーマポスターをみていて、
こんなに色々な作品が並んでいる…すげーって。

独特だ。同じようで違うのとか、全く違うのとか。
この人はこれを狙ったんだとか、分かるものも分からないものもあり。

ITEBブロガーはそれを表現すべきかもしれないと。
少なくとも自分は。

ブロガーは文章で語るものだ。そこで表現していく。
パーソナルブランディング化したブロガーほど強いものはないとにらむ。というかそれを狙っている。

ポスターは絵だけど、ITEBも、幣ブログも文章で勝負していく。
そりゃ写真を載せないって意味じゃなくて。本質的なものは、やはり内容。
自分の日記を載せているつもりは全くない。考えを書いているつもりだ。

それがきっと誰かに役立つこともあるだろうと。それが結局ブログの狙いだし、
それだから続いているんだと振り返ればそう言える。

独自の見解なんて、結局自分の思った通りかけば「独自」なんだから、
それを期待しつつ、ITEBで皆違う見解を持っていると(それは各メンバが意見が合わないという意味ではなく)
滅茶苦茶楽しいと思う。そんな刺激的なフィールドはそうそうない。

異業種交流会のサイト見つけたけど、おそらくだけど、そこから何か広がる人というか
広げられる人って、別に切り口が交流会だっただけで、別の切り口からでもできた気がする。
たまたま交流会だっただけだと僕は勝手に思っている。

僕にとっては、ブログはそういう意味で切り口という意味で、重要なツールだ。
もしブログがなかったら、延々とHPに自分の考えを吐露してただろうし。
ただそれだけなんだと思う。多分ね。

ブログに固執しているつもりはないけど、フルに利用しているつもり。

ITEBの方向性とまではいかないけれど、
各メンバx独自の見解=ITEBメディアとなる気がする。
これは、まず自分のブログで、パーソナルブランディング化して、
RM軌跡メディアとならなきゃいけないかなーと思う。

というか、ブロガーの継続年数と、人気度と、内容、コンテンツと、
テーマ、方針、想い?、熱さ、方向性などどれでもいいけど、
何かしっかりしたものがあれば、多分そのうちファンが出てくる気がする。

すでにこんな幣ブログでも、確実なファンが存在するわけですからね(?ー?)
RM軌跡メディアとなるのは、そう遠くないでしょう。

よーし、楽しくなってきたぞ。
もしかして、ブログで天下取れるかもしれん・・・。やべえ(勘違い

そうなったら、こもれび氏も巻き添え食らわしてみようか。
いや、こもれび氏は違うな。天下なんぞどうでもいいはずだ。
むしろ、天下を徘徊する車ちゃんが欲しいはずだ・・・。そうか、そっちか・・(笑)


ITEBに載せても良かったけど、とりあえずこっちに書いておこう。
もうちょっとまとまればいいけど、今の時点ではこんな感じ。

社会人と学生の違い

今日も1件ヒットしてるので。また書いて見よう。

社会人と学生の違いにおいて、まず社会人って何か。学生って何か。
を考える必要があると思う。(お、新しい視点か?)

社会人は一般的には、労働者のことを指す。
いや、正確に言えば、学生を卒業して、働いて飯を食らう人のことか。
俗に言って、大人、ともいうかも。

社会人を社会を構成する人間だといえば、学生もまた社会人となる。
まあ、言葉の意味合いね。

学生は、本業は勉強だ。これを笑う人もいるが、そういうバカはスルーしとこう。
実際に僕は学生の頃は勉強が楽しかった気がする。
もちろん、「大学」の勉強(ここでは学生とは大学生を指す。高校生くらいだと自由にうごけんし)ばかりしていてはだめだと思う。

一時期、つまらん、眠い講義を聴くなら?、ああ、聞くか。
本を読んでいた方が良いという話があった。
が、それも一興だし、どうしようが自分の勝手だと思う。

勉強というとイメージが悪いが、学びといったほうがいいだろう。自分としても。
結局、大学で何を学ぶか、というのは、大学という環境、学生という身分、
ありあまった時間をフルに使って、何をするか?それに尽きると思う。

学びとは、「あ、これ面白そう」から始まるものだと僕は思っている。
面白そうなものに食いつけば、多分その「あ、これ面白そう」ループは、
ぐるぐる回りつづけると思う。もちろん、つまらんこともあるけど。

そうやって生きれば面白いのに、
どうも否定的ループに入ってる人や、勉強なんて詰まらないと思っている人、
勉強がつまらないとなると、学びがつまらんということになりやすいーと思うけど、
そういう人もいる。

前書いたように、学生を卒業して、社会人になって、すぐに大人になれるわけがない。

社会人と学生の違いで、
友人と同期の違いとか、時間の量とか、責任とか。
そういう違いはある。

でも前いったように、本質的な違いは全くない。といえる。
というか、そうなってる。

自分の視点でいえば、年下なのに素敵な人とか、
年上のなのにクソみたいな人もいる。

これをどう説明するか?
年輩者は敬えっていうのは、儒教でしたっけ。
年輩者にも色々いるし、うざい年輩者もいればそうじゃない人もいるわけさ。
そいつを十把人からげにしちまうのはどうかと。そう思うわけですな。

そういう意味で、孔子の言葉を。
愚はますます愚となり…というのがある。

孔子万歳。


考えを放棄した人

誰になんと言われようが、「負け」という言葉は、自分の中でのみ存在する話だ。
つまり、人から見たら勝っていても負けていることはあるわけで。
勝ち組負け組はどうでもいいが、自分に負けたかどうか、勝ったかどうかはすごく気になるところだ。

今の社会が昔の社会と比べて…ということを言っても、何も話が進まないかもしれない。
太古バビロニアの時代にも、若者は大人の言う事は聞かなかったようだし。確か。

前書いたかもしれない。
自分が考えたことや考えていることを、ぶつけるというか、発言するというか。
そうすると、「分からない」という人が結構いる。
この「分からない」は、考えて生きるという僕のスタンスから大きく異なるという意味に
とれる。というか、そうなってしまう。

だから、僕は考えをぶつけないのであり、いわゆるちょっとした付合いとなる。
別にそれが嫌だとか、ダメだとかは思わないが、まあ関係が曖昧になるのは否めない。

でも、問題は別のところにある。
「僕が本気?にならない」から、「伝えられない」のは、相手に原因がある。
それは「分からない」というスタイルというか姿勢というか。
もちろん、これでは底の浅い人間さ。だから、己のコミュニケーション能力をフルスロットルにするが、
難しい。そうしていくと、「ああ、もういいや」となってしまうわけ。

相手の立場はどうか。なんか考えをぶつけられた。分からん。から、分からんといった。
そうしたら、反応が鈍いというか、そんな風になってしまった?


そこで「なんで本当のことを、というか自分を出してくれないか?」といわれることが、
一番の問題だ・・・。

こちらが推し量った?コミュニケーションフルスロットルもどこかへ飛んでいき、
相手はこちらが自分を出してないと思う。

こういうことが結構ある。正直「どうでもいい」ことなのだけど、
意外に人間関係の悩みとか、そういうのの1つのパターンかなとにらむ。

で、面白いことに、結局「本気かどうか」なんて意識しちゃったら、
多分もう終わりなんだろーなとか。客観視という意味での意識ではなく。
自然に話せるーそういう人が良いわけだが、そういう人ばかりが社会ではない・・・。
からこそ、バランス取れてると思うわけさ。


そういうことを考えていくと、やはり「考える」ということの重要性に気付く。
なぜだーと、問いつづけていく。やはりそれが楽しい。一時は苦痛なんだろうけど。

社会人と学生の違い

これ何度目だろう。検索ワード1件あったからまた書いておく。

簡単にいえば、「生きているか、生きるか」の違い。
学生は生きているのだけど、社会人は生きるということ。

まあ、適当なんだけど(笑)

生きているというのは、悪くいえば「生かされている」ということになる。
確かに「生きる」の連続という意味で、「生きている」という言葉は、
自分の生きるという感覚を再確認して「ああ、僕は生きているんだ!」とか使えると思う。
けど、学生は「生きている」のであって、「生きる」とは思えない。自分の学生と今を照らし合わせての話。

社会人は、「生きる」のであって、単に「生きている」わけじゃない。
まあ、ピンきりなんだけど、社会人であろうとなんだろうと、「え?まじで?」という人がいるわけで。
「生きる」ために、働き、食い、寝る。シンプルだ。
「生きている」状態は、「生きる」を連続して行わなきゃいけない。

学生でも確かにバイトしたりして、自炊生活で苦学生ーなんていう人もいるだろうし、
時には片親で、仕送りを逆にしている人もいるだろう・・・。
そういう人は除いての話かな。

なんで生きているかって、青臭い質問かね。若い証拠かね。
なんでもいいけど、そういう問いすら出来ない人間は、やはり真剣に生きてないだけじゃないかって、
そういう答えというか、問いかけもできる気がする。

社会人と学生の違いなんぞないと言ってしまえる。矛盾しているが実際は本当だったりする。
学生でバカなやつは社会人になってもバカだし、逆もまた然り。
もちろん、学習能力とか、運命論とか、才能とか、そういう話じゃなくて。

社会人になるのは、学生であって、じゃあ学生って何さ?
社会人になるまえの過程であって、前過程か、ただそれだけだ。
ある日、卵からかえったヒナはいきなり飛べるようになりますか?なりませんじゃありませんかー(笑)

って、いきなり馬って立てたような気がするけど。どんまい。

社会人と学生に違いはあるんだろうけど、そういう差異はホントに微々たるものだ。
本質的な違いはない。だって人間だもんね。
常に人との差異は紙一重…。うーん、アフォリズムっぽい(笑)

仕事の優先度

仕事が一息ついたわけではなく、休日の前の頭の整理なりけり。
明日は東京じゃ。うはは・・・。

で、本題。

仕事は確かに面白いかもしれない。しかし、つまらないところもある。
自分のしたいこと、やってみたいこと、興味と合わないこと、合うこととか色々ある。

もっと自分が若い、学生の頃は、人生はもっとストレートだとか、
単純だとか、想像できないからこそ、思っていたきらいがある。
それがコドモというか、若い証拠なんだろうと同時に思うけど。

ところがもっと複雑で、悪く言えば泥臭くて、もっといえば、
人生なんて薄っぺらい「目を閉じて開けたら終わりさ」なんてアフォリズムを吐いても、
やはり、それは違うと思う時があるわけでして。って、今だ。

自分の人生のことをがーと考えるわけです。
確かに目の前の仕事を終わらせることも…大事。いや、大事でしょう。
お金をゲットするためには・・・。という感じでしょうか。
生きていくためには、ということでしょうか。

毎日1ドル以下で生活している…という人が圧倒的に多いこの世の中…。
と考えて比較すれば、幸せであり金持ちであると。
でも、その比較は間違っていないけど、ずれているといはいえそうです。
そうですね・・・。
例えば自分がてーしたことのないと思っていることで、悩む人は多いわけです。
というよりも、人の悩みはそういうものだからこそ悩みな気すらします。
誰もが悩むことで悩むのも健全ですが、小さなことで悩むのも健全なり。

人の悩みと自分の悩みを比較して得られるものは?
あまりない気がします。

といって、1ドル以下で生活していて、満足にもし飯をくらっていないようなら、
というかそうなんでしょうが、考えものです。
人間はきれい事だけでは生きていけないですし、残酷なイキモノでもあったりすると思います。

現に、タバコを道端に捨てていく人もいるわけですから。僕には理解できませんが(笑)


仕事の優先度の話でしたか・・。

もし、自分で仕事を作り、そいつを動かしていくというなら、多分これぞ起業というんでしょうが、
多分仕事の優先度はかなり高いでしょう。
実際に、いや、いわゆる「想定内」で、やはりサラリーマンはサラリーマンであると。
もちろん、素敵な人はいますが、そこは「サラリーマン」関係ないといいたいです。
同時にサラリーマンはサラリーマンだという憂鬱というか、悲しさというのは、
やはり、従業員なんですね。これが現実であり、結果でしょうか。

従業員が悪いわけがない。ですが、僕にはそこで終わりたくないという、
若さというか、夢というか、そういうものがあるわけです。
というか、自分に限界を感じていないという錯覚ちゃんな発言とも言えそうですが(笑)
勘違いクンとでも言ってみましょう。

じゃあ、ハッタリをかまさないやつで…すごいやつか、ハッタリをかますやつで・・すごいやつかというと、
変な話、ハッタリくらいかまして生きていたほうが面白いし、楽しいですね。

人生=仕事は違うと思いますが、だからといって仕事を投げ捨てるというのも違うでしょうね。
仕事という言葉が悪いイメージが僕にはあるから、イカンのでしょうけど、
与えられたJOBをきっちりこなせば、多分誰も文句は言わないと思います。というか言われる筋合いがない。

で、現状はちっとまずいので、怒られてもしょうがないんですが。
ま、まあなんとかなるでしょう。という以前になんとかします。

仕事も楽しみ、人生も楽しむ。これが僕のスタイルですね。
現状が辛くても笑い飛ばすくらいで・・・。最近はそういう意味の慣れが出てきました。
もはや新人ではないです・・・。3ヶ月も経ちましたからね。

5月の終わり頃に、ローからセカンドとか書きましたけど、
今度は、サードではなくて、ハンドルを使ってうろうろしてみたいですね。
多分一定の成果をあげつつ、何か並行してやるのは、こばやしさんもおっしゃってたんですけど、
慣れが大きいのかもしれないなあと、思ったので。
本読みもそうですしね。今月全然読んでない・・・(笑)

さあ、明日も楽しんでいきまっしょい!

残業考察パート66とか。

ふむ。

今日のことは忘れるまい。

一応間接的もなにも直接的だが、残業はしない方がいいし、むしろ悪いことだと
思った方が良いというアドバイスをもらった。

というか、早く帰って明日やれということで、
自分を心配してくれているのだろう。まあ、だが、それは良く取ったらだ。
悪くとれば、なんでそんなに仕事が遅いのかということになる。


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自分を信じろ

同期と飯を食らいつつ、話した。

勉強会ではないが、勉強をしていくことがかなりスンナリきまった。
言語は、JAVAで。
目的はサーバの勉強。

サーバを知るのには、プログラムつくっちまうのが早いと睨む。
多分難易度は高いんだろうが、こつこつ作り上げて行くという前提。

まず、Javamailちゃんをつかって、メールクライアントあたりから
少しずつ作っていく。一つのプロジェクトとして、また楽しみプログラミングとして、
自分の中では非常に優先順位が高いものとなってしまう。うはは。

毎日を楽しく生きている。

3ヶ月という言葉が一種のキーワードとなりつつあるけど、自分の中で、
半年後には、とりあえず、ほぼ完全に?仕事とプライベートの両立、
いや両立じゃなかったな、うまく回していくことができると思う。
多分、慣れと経験とやり方で、いかようにもできるはず。

確かに、時間がないというのはある。
が、現実として、それを自分が選んでいる。別に辞めてもいいのだ。
選択しているという意識さえあれば、少しベクトルを変えれば、
もし自分が「罠」にはまって、時間がないといいだしてもそいつは
大したことにならずに、抜け出せられると思った。万歳。

環境は自分で作るんだったね

学生時分にいってた言葉がある。
そう。「環境は自分で作るものだ」って。
周りがクソだと思ったら、自分から変えるか、そこから逃げて別の場所で動くか。
大抵どちらかだ。僕は前者はあまりにもパワーがいるので、逃げてしまう臆病者だが(笑)

社会人になると、完全にそれが自分に振りかかる…ってことかな。
要は、自分の境遇を嘆いても、「で、それが?」となる。まあ変えられないこともあるだろうけど。
何でも自分でやらなきゃいけない。そりゃ無理なものもあるけど。基本はそういうことらしい。

仕事が出来れば、おそらく先に生まれたとかそういうのは関係ないようだ。
年齢が上…というだけでは、ハンデではない・・・。

全力でライバルを潰し、最後に笑うのは私。
そういう考え方と、同時に、
「皆平等に生きていこう」とまさしくキレイなことを思ってしまう。うん、これは嘘じゃないな。

結局、矛盾している。

これもまた学生時分にあった・・・。
矛盾は悪いことだーみたいなことを言ってたし、人につっこんだりもした気がする。
現状がそうなら、こうあるべきじゃないかって、矛盾をあばくというかそういうのがあった。
若かった…(笑)

おそらく、こうだ。
自分が矛盾しているがために、人の矛盾を撲滅したいというような・・・。
いわば心理学を学ぶ人が、自分の悩みを解決したいがために・・・カウンセラーになりたいというような・・・。
ヘンテコなものがあったと思う。
あー、そりゃ自分の悩みを解決するために、心理学学ぼうが自由さ。
だけど、私は苦しんだから分かるのっていうのは、ちょっと危険だと思ったり。

そりゃ、共感できるからそういうことするのは・・・いいさ。
でも、そもそもカウンセラーになるって、そういう共感部分だけじゃ・・・厳しいかなと思うわけさ。
冷静さも大事だし、常にクライアントがいるよりも、クールに割り切った方が、いや割り切らないとやっていけない。
これは、仕事が楽しいと思っていても、同じことがいえると思う。
ある種の割り切りがどこで必要だと、そう思う。というか、そうなっちょるわい。


自分に勝つために生きる。よく分かりづらいが、こういうシンプルなルールで生きるというのもありかもしれない。
毎日が楽しい状態にもっていくために、僕は努力しているかもしれない。そうじゃないかもしれない。
とにかく、人と会って行くことを…大学の終わり頃から意識し始めたと思う。

昨日読んだ本(本屋はサイコー!)に、今の若い人は、いろいろな人と話すコミュニケーション能力がないと
さらっと書かれてた。バイトの面接で…という文脈でだ。
圧倒的に経験不足という、前書いたかな。高橋歩という人が、AERAのさらっとした記事にコメントがあったので
印象深い。

要は、簡単なことだ。高校くらいになって、イロイロな人と話しているか…とか。
大学入って、大学の友達、サークル、バイトくらいで固執というか、環境を固定すると、
多分、年輩の人とかって話す機会がない。バイトの接客で話すというのもあるけど、ボランティアで活動してというのもあるけど、
それは、経験量的に少ないような気がする。

意識の問題といえば終わりだけど、接客はバイトのために、お金のために、小遣い稼ぎのためだし、
ボランティアは少し違うかもしれないけど。

今もたまに戸惑うけれど、いつの日か忘れたけど、人と話すのは楽しいと確信できたことがある。
出会いっていいなとそう純粋に思ったことがある。それは忘れてないけれど、いつかは忘れた。
そう感じてから、色々な人の話を聞くこと、話すこと、相手の応答を確かめたり、自分との共通点を探ったり、
冗談をぶちかましてどれだけ効くかをみたり、今後も連絡を取りあえる仲だとは思わなかった人が実は…だったり、
口調は穏やかではないけど、優しい人とか、本当に色々な人がいるなあと思えた。

おそらくこういう感覚は、コミュニケーション能力が高いという人には共通してあるものじゃないかと睨む。
と、自分がコミュニケーション能力が高いとは思わないが、低いとは思わない。

コミュニケーションとは、べらべらしゃべる・・・ことじゃない。
意図が通じるかということで、伝えようすることだ。伝わらなければコミュニケーションじゃないかもしれないけど。
話が上手いというのは、コミュニケーションのアドバンテージ?の1つであって、コミュニケーションじゃない。
よく話す人は嫌いではないが、それで人の話を聞かないという人はかなり心苦しいわけだ。


周りに大した人間がいないなら、大した人間を見つければいい。
というよりも、見つけるために動かなきゃいけない・・・と思う。
そういうことをしないで、環境や境遇についてうだうだいうことも一瞬はあっても、
やはりそんなこといっててもしょうがないと。そう思えるのが健康的だと思う。

明日のタメに今日生きるの?

まさか。今日のために今日生きてる。
今の一瞬一瞬が楽しいんじゃないか。
とにかく楽しむこと…というのは強要じゃなくて、
楽しみながらやるというのは非常に重要なスキルというか、
笑顔があれば、ハッピーになれるなんて単純法則を主張しないけど、
挨拶はあったほうがいいし、気持ち良い…じゃないっすか。

なんかただそれだけ。単純。理屈じゃないさ。NoReasonコカコーラじゃないけど、
NoReason楽しくっていうのかな。

ただ楽しく楽しくってばっかいってると、楽しくないことはしないとか、思われそう。
あと、楽しければ何をしてもいいというふうに思われそう。

って、そこらへんをちゃんと考えてれば「そう」思われないんだろうけど。
というか、僕は思わないだけか。

おっと、皮肉か。うはは。

夢の強要とか

http://plaza.rakuten.co.jp/gakusem/diary/200506190000/

その夢をいつやるんですか・・・か。

なるほど。確かに夢を強要されている気もする。
ダテ眼鏡氏の意見も分かる気がする。

確かに仕事が自分の望むものと違うからといって適当にやるのは
本当にやりたいことがあってもやれないという感覚は分かる。
だからこそ、僕は自分の仕事を少なくとも「適当」にはやってないし、
どんな仕事でも、やりたいことでも、やりたくない要素は絶対あると思っているから、
変な「手抜き」「投げやり」はないと思いたい。

せどりは、梱包が面倒だったりするけど、売れればやはり嬉しい。
そういう感覚がどこにでもどの仕事でもあると思っている…と。

仮にでも、自分はそれをしたいんだと、夢を設定してしまう場合というのは、
その時点で、強要しているのだと思うけど、僕はそういうのはあまり経験がない。
むしろ、今やっていることは本当にやりたいのかという疑問は常にあったりする。

逆にいえば?、
何かこれをしたいんだと言っている自分がいる一方で、常に否定している自分がいる。
図書館を創りたいけど、本当にそれ作りたいの?夢なの?といわれると、
うるせーほっとけと言いたくなる。あまのじゃく的だ。

金持ちとーさん貧乏父さんは結構な感銘を受けた。
けど、結構あの本に影響を受けた人が多いって書かれていると、
なんだか「くそ、俺はそんなの影響うけてねー」といいたくなる。
別に人はどうでもいいのだけど、人の情報をゲットした瞬間にそう思いたくなる。あまのじゃくだから(笑)


無理に…何かする必要は全くない。
でも、「自然」に何かしようとして、それが「無理」にしているという
これまた結構複雑そうで実は単なるトラップにはまっているというパターンもあったりする。

自分は自然に生きたいんだといってる人で、僕から見て自然に生きてない人がいたとすると、
その人は大抵自然に生きてない。だからこそ、生きたいんだ、かもしれない。
また、自然に無理せずやってるといってる人で、僕から見てそう見えない…人がいたとすると、
その人もまた、何か無理しているパターンが多い。

別に僕は相手の心を読めるわけじゃないけど、感覚的なものである程度は把握できる。
というか、それは単にカンの世界であったりするわけで。まあどうでもいいけど。

あえて批判的に言えば…。
社会の波に流されないように、楽しみながら生きる…というのも
自然ではないかもしれない。自然かもしれない。

夢を設定して生きている人が、無理にそうしているかもしれない。
そうではないかもしれない。

だけど、それがわかるのは本人だけっていう説も大いにあるわけで。
僕が何か言えることではないと思う。
目の前に苦しんでいる人がいても、僕は救えないというのは、僕の持論だから。
もちろん救う努力はするんだろうが、究極的には自己が大事だ…。悪いけど手助けは僕はできないんだ。


で、僕はダテ眼鏡氏、好きですから(笑)
今後ともよろしく・・・。(?ー?)

残業ちゃんパート2

今週は残業が多かった。正確にいえば、そうならざるを得なかったというべきか。

以前ちらっと書いたけど、自分が悪いのかどうかよくわからないと。
どうなんだろ。本格的に始まったのが、3週間前くらいで、結構「いきなり」なのに、
自分はよくやっていると思うのだけど、
多分そういう「満足感?」というようなものは、不必要ではないけど、要らないかもしれない。

要は、負荷をかけてもいいやつには負荷をかけるし、かけなきゃ成長しないし。

今週は、結局定時に帰ることはなかった。すでに、自分のスケジュールに遅れが発生して
しまい、その埋め合わせにという形だ。
残業をしたいわけじゃないが、意識が少しだけ変わった。

会社員らしき考えではないと思うけど、
「仕事が終わりません」というのではなくて、「仕事を終わらせる」という考え方。
「終わらない」なら、「なぜ」終わらないか、その理由を。
そして、どうすれば終わるのかを対策を。

もちろん、理由が抽象で、例えば「自分の能力不足」なんて、話にならないんだろうと思う。
自分の力や状況を把握していなければ、具体的とまではいかなくても、
ここが分からないから進まない。といえば、そこを分かるようにするには、
どうすればいいか・・・。

こういう考えは、非常に「論理的」だと思う。
これが苦手な人もいるような気がする。僕は結構楽しかったりするのだけど(笑)

終わらない仕事はない。

目の前のものをタダ、もくもくとこなすのみ!なんて、ことはしたくない。
常に全体を見たいし、同時に常に自分のやっていることに向かい合いたい。


どうでもいいけど、キャッシュフロー付けるなら、
時間のフロー、タイムフローってのもつけると面白いかも。
時間家計簿(笑)多分つけるのきついけど、何しているかがわかりそうで
楽しそうナリ。

人はなぜ生きるのか

重い。重いテーマだ。

なんで自分は生きているんだろう。なんで仕事をしているんだろう。
ふとそう思った。

生きたいから仕事をするのだろうか。それとも仕事をするから生きているのだろうか。
多分答えはない気がする。あるとしたら、それは嘘の答えなりけり。

生きていても意味はない、というのがデフォルトだった、いやデフォルトなのではないかと思う。
不幸論という本があったが、僕は賛同してしまったクチだ。
人間は幸せになるために生まれてきた…というのは、嘘のような気がするからだ。

もっと暗い、じめじめしたものが、僕は人間らしいと思う。
だからといって、嫌なやつは嫌なやつなだけなんだけど・・・。ここの説明が難しい。

生きる意味なんぞないから、生きる意味を見つけるというのは、
やや乱暴だが、多分しっくりくる。少なくとも今の僕にとっては。

だから僕は自分を笑い飛ばしていきたいし、そうやって生きたいと思っているのかもしれない。
死にたくはない。ただ「無駄に」生きたいとは思わなかったりする。

この思想からすると、年金は払わず死ぬのが思想的にぴったりかもしれない(笑)
そう。老人になったらすぐ死ぬということだ。そうすれば、おそらく、若いもんがへろうが、
国は回るような気がする。
多分そんな日本もあっていいかもしれないなあ。どうだか。


コンパクトに

渾身を込めたのにも・・・。関わらず。

コンパクトに復活させておこう。

要は何がいいたかったかというと、
・己は会社員で一生を過ごすなんてまっぴらであり、嫌だということ
・会社に入った目的が会社員として、社会人として、働くということ。組織を学ぶこと。会社を学ぶことであった。
・SEは上司ではなく、先輩社員。もっといえばチームの一員であり、対等の立場であること。プログラマからみて。
・業界の構造上、人月という特殊な生産量指標で測られるため、「正当」な評価で、正当に働くことはしづらい業界、いや仕事かもしれない。もっともプログラマは嫌いではない。むしろ好きだが。
・コスト意識を高めたら、結局誰もが残業をしなくなるような気がしなくもない。

こんなところかな。

あと、
・コミュニケーションは双方向の成果であって、伝わらない理由はおそらくどちらにも多かれ少なかれ原因がある。
・先輩(上司)の悪いところが見つかる度に、僕は賢くなっている気がする。ありがとうといいたいが、それは相手に失礼だろう(笑)

んなところですわ。

残業サバイバル

残業については色々な考えがあると思う。
ただ僕はお金は好きだが、好きだからこそ冷静に見たいというのがある。(聞いてない
人も同じかもしれない。ちょっと違うか。

残業なんぞ、リーマンちゃんとして働く前は考えもしなかった。
ただ考えたことは「残業は嫌だ」「残業なんてしない」くらいだった。
でも、リーマンズオブワンの一人って、逆じゃん。ワンオブリーマンズとしては、
そんなのはタダの「夢想」っぽいらしい(ぽいとらしいで、二重推量。ほとんど意味がない推量になる)ですな。

今考えたものとして、久しぶりにコンパクトにまとめると、
1.残業を残業として捕らえない(定時という考えがあまりない)
2.残業しなければ終わらない仕事がある(必然的に)

の2つがあるようだ。
それとは別に、
残業をすれば手当がもらえるし、悪いことでもない。とか、
残業はコスト的に高くなるので、極力するべきではない(己)。とかがあるようだ。

「残業をしない技術」という本があったが、あれはスルーしてしまった。今度買う予定だ。

で、まあ他の人の意見はどうでもいい(よくないけど)。
僕のスタンスは、残業はするべきではない。しかし、特別な事情がある限り、しても良いだ。
あくまでも、「残業はしない」スタンスだ。残業は悪ですらないかと思う。

問題は、なぜ残業をしているのか?ということを考える人がどれだけいるか。
そこがポインツだ。ポインツ?2点以上あるから(しーん)。

社員を見ていると、残業を普通にこなしている。確かに残業しなければ終わらないのかもしれないなと思う。が、そう僕が思うのと、本人が残業をしているのは大分異なるはず。

コスト意識は、自分にとってプラスになるのだが、
直接的には、残業をすればお金は余分にもらえる(残業をすると、要は8時間労働以上をすると、1時間あたりに125%の、つまり25%分多く時間あたりの賃金が増えるわけよ。って分かりづらい言い方。)。

もっといおう。
「目の前のお金」VS「コスト意識という効率性を自らで高める力」
ゴジラVSキングヒドラではない。事件は現場で起きてるんだ。なかなかの名言じゃ。

そう考えると、
残業をしない人はここでは全く問題ないが(ちなみに、仕事が違うという時点で、残業について比較できないのだが、それは追々考えたい)、
残業をしている人で、残業について「お金」か「コスト意識」かでどちらを重視しているかで、
リーマン依存度が分かりそうだ。

リーマン依存度指数というものがあれば、
それは、
リーマン依存度指数=(「お金」or「コスト意識」で重視する方。-1?1の範囲)x実際に残業をした時間x(残業についてどれくらい考えたか(笑))xプライベートを満喫したと思う時間

みたいになるかなって。これだとおかしいな。まあいいや。

残業はしたくないが、残業しなければ終わらない人、状況はどうするのか?
それが一番の問題だ。むしろそれは、残業の問題ではなくて、仕事のやり方や、
元にある「会社の社員育成システム」とか、「会社の方針」とか、スケジュールや予定、売り上げ目標などに問題はないかとか、そういう話のような気もする。どうか分からないけど。

話は単純化できればいいが、すでに話は「仕事観」になりそうだが、
追い討ちをかけるように、まだ問題がある。

それは、「仕事ができる人は残業をするのかどうか」だ。
仕事ができるというのは、効率がよく、つまりテキパキとこなし、定時できっちり帰る。
そういう人だと、とりあえず定義。

残業をする人は、非効率だから、テキパキこなさないから、残業をするというのもある。

しかし、それを測る指標や数字は残念ながらないようだ。(まじで?)
この問題はおそらく「残業」の話だけではなくて、仕事観、人生観、会社の考え、
しいては、資本主義システムの国家、人間とは何か!?(笑)まで行きつく問題だ。(大袈裟)

営業は、売り上げ目標や、顧客獲得や商品受注など「分かりやすい」数値があるため、
意外にやりやすいかもしれない(って、営業の人見てて、「てめーこのやろー、ノルマなめんな」っていわれたら、ど、ど、どうしよ。受けて立とうか(ぇ))。
人事は、人材を数多く採用しても、質が悪ければ、離職率が高かったら、あまり意味がないようで。かといって、少なくいいわけではないわけで、というのがあるようだ。
ということは、数値目標が意味がなくなってくる可能性が高いというか、高すぎる。

プログラマとしての己の場合、技術職だが、納期と品質と機能があって、お客様の要求を満たす、もしくはそれ以上のサービス、ブツを提供できるのが目的だ。
納期はスケジュールであり、品質はバグの少なさ(致命的なエラーが5つで、大したことのないエラーが1つより、致命的エラーが0で大したことのないエラーが10のほうが品質は高いと思う)、機能は使いやすさ、文字通り機能性でもある。

数値目標がない。売り上げ目標があろうとも、プログラマは目の前の仕事を、作業的にこなすのが一応の目標だ。SEは、お客とジカに話すが、営業ではない。もちろん、営業に近いSEとか、SEに近い営業とかあるのだけど、基本的にはそう捉えたい。

むしろ、技術とは、市場原理のないところにも生まれるかもしれない。これは言い過ぎか?
かといって、市場原理があるところに生まれないわけではない。
別に技術とはいえ、研究開発部ではない。だからいいのかもしれない。


脱線。

残業をする人が能力が低かったら、残業手当でコストが高くなる。
最悪のパターンだ。
要は、同じ新入社員でも、給与が20万だとしたら、
Aは残業全くなしで、20万。Bは残業しまくりで、20万+5万で25万。

しかし、仕事量からみると、A>Bの場合、経営者は、管理者は頭を悩ますわけだ。
なぜなんだと。投資回収率的にいって、Bも長期的にみれば、Aに近づくのではないか。
まだこれからだよと思っているとしたらまだいい。しかし、1年後。
A>>Bなったら、もう会社はBを見捨てるかもしれない。これは残酷なのだろうか。
それとも、自然なのだろうか。それとも?

仕事ができないやつは、会社を去れというのは至ってシンプルだ。
けれど、最初から仕事ができるやつなどいない。さあどこで見切るんだ?
ここはその仕事に熟知している上司、管理者が判断を下すところ・・だが、
最悪の場合、その上司や管理者がアホで、バカなら、
「残業をしているやつが、熱心で良い」とかおもってたら、Aは会社を去るべきなのだろう。
Bのような人間が集まってくる会社に未来はあるか。ないだろう。さようなら!

仕事量が多いから、残業をするという場合もある。それは仕事ができるから、
残業をするといってもいい。

残業については、価値観が表に出てくるので非常に難しい。
残業なんかしないで帰りたいといっても、会社の雰囲気で、要は周りが残っているから
帰ることができないという人もいるだろうし。
僕も雰囲気は見るが、果して何を重視すべきかと、問うわけだ。するとコストだ。
新人は一刻も早く仕事を覚え、すばやく吸収し、会社に黒字を返さねばならないと思う。
でも、そんな意識って、冷静に考えたら「何かしたい」と思っていなきゃ、生まれるわけがないと、手前味噌的に自分を誉めてみるが、哀しい。

コストを低くするには、
1.時間あたりの仕事量を増やす。つまり能率、効率を上げる。
2.労働時間を減らす。

さらに、会社に貢献という意味で、1の延長で、
3.新しい仕事を作る。もちろん黒字狙いだ。
というのがある。

僕は3に惹かれるわけだが、さすがに新人リーマンちゃんにやっていいよというか、
まだ仕事が完全に見えないわけで、見えるようになったら、3を実行する。
そして、実行後、役員や取締役、しいては社長の座を狙う(え
そして、会社をBuyOutして、その金で、会社を作る。

うお、やばい思想の持ち主が一匹入りこんでしまったねえ。
どうなるんでっしゃろ。今後が楽しみ。

一部妄想がありますが、ご容赦下さい。って、BuyOutかっこいい・・・。

で、1は誰もが結構やろうとしているかも。
2は無理だと思っている人が多いけど。
経済的な自由というのは、あくまで「経済的」自由であって、
お金にしばられて生きるという自由!?もあるのではないかと思う。

僕は天邪鬼的に、相反する2つの考えを同じように内在させつつ、
実は目の前の真実らしきものは全て嘘ではないかとすら、思って笑いたいわけだ。
それくらい、人生は「自由」でいいと思うわけで。

この「残業」ネタについて考察している人いないかなあ。
多分いるねえ。アンテナにひっかからねー。リーマンは残業について考えないのかよー。
まさか、ね。

時間の使い方

ヨーグルトを書き込みながら、書く。これが現代のブロガーだ!(笑)
ヨーグルトうまい。

時間の使い方でまず確認したいのは、「必要性」というキーワードだ。
何かやらなきゃいけないと思っていてもそー簡単に成し遂げることは意外に難しい。
それは気になる人(良い意味でも悪い意味でも(笑))に話しかけるのが意外に難しいというのと似ている(ホントかよ

何かしたい!何かしたい!っていっても、じゃあその何かって何か?って、
ジレンマに陥るのが定石(笑)
でも、考えないと進まないので。これまた結構厳しい道のり。

というわけで、ここで事実を。
自分のやりたいことをやるのは、そうではないこと(やりたくないこと、ふつう?のことなど)をやるよりエネルギーがいる。要は大変だということ。

ではなぜ楽をしたい!という人間本能?に反してそうするか?
それは、大変な分、楽しいから。のはず。これも事実か。意見か。さあどっち。

いくら時間の使い方を考えても、そもそも必要性がなければ
自分にとって意味のある使い方ができるはずがない!

ギャンブルをしたいなら、朝からパチンコ行けばいいわけだ。良い悪いは知らんですよってパチンコってやってるのかな。
運動したいなら、ジョギングでもすればいいわけですよ。誰もケチつけないだろうし、
自分はやりたいからやるといえばいいわけですな。

時間の使い方は効率的であればよいわけでもないから、なかなか難しい。
スピードが命という考えもかなりこなれてきてると思う。
60分あって、10のジョブ(ビジネスの仕事という意味ではなく、処理が10あるということ。例えば、飯を作る、着替える、メールをするとか・・・。)をこなすのに、
効率化して、60分で10のジョブしかこなせなかったのが、30分で10ジョブこなせるようになったとする。半減だ。

じゃあ、60分あったら、20のジョブができるはずだけど、
それって結局圧迫以外のなんでもないのでは?と思うわけで。

こういう局面にまだ現実的に出会ってないけど、
「コスト削減」のデメリットというか、見えない点ってこれかなあと思う。
能率化・効率化はそういう意味ではすでに意味がない。
ビジネスとして、効率化するには重要なのだけど。

見方が異なれば、時間の使い方も異なる。

自分には時間がないと思ったら、なんで時間がないのか考えるか、
時間をどのように使いたいか、何に使いたいかを考えるようにしている。
そもそも本当に「時間がない」と嘆く人は、「時間が必要ない」ようである。
「時間がある」という人は、本当に「時間を大切にしている」とすら感じる…のだけど、
これはあながち間違ってないかなと思う。

時間がないなら作れば良い。
もし作れないなら、よーく検討してみるしかない。
その理由があるはずだ。時間の絶対量が足りないなら、
優先順位を比較して、思い切って今やっていることを削除する必要があるかもしれない。

ただ一つだけ言えるのは、時間は平等という名台詞(せりふ)があるのと、
時間を作れない原因はほとんど自分自身の原因だということ。

なぜなら、時間の使い方=人生でもあるからなと思うわけですよ。
「時間がない」といっても、それは自分の問題であるので、
自分でどうにかしろとしか言えないわけですな。


前、「頻繁にブログを書いていると暇人」と思われるから書かないっていう
新聞記者か取材した人か、の話があったけど、これは一体何なんだろ(笑)
時間があるように見えるのは良いことだと思うけど。
忙しい人は、なにで忙しいのかによって、評価が異なる。

自分のジョブ(ビジネスでの仕事の意味)がこなせないから、残業する人を
忙しい人というべきだろうか?この人こそ、時間がある人間ではなかったのか?(誰に言ってるんだろう

あくびをしている人は忙しくないのか?寝ている暇すらないかもしれないかもしれない。

ブロガーは暇人だという認識があってもいいんだろうけど、
それは非常に歪んでいると思う。要は自分も表現したいのに、うまくかけない、それは文章のことなんだろうけど、それができないのに、「暇人」とかいうべきじゃないよね。
それは格好悪いと思う。暇人って響きは悪いですからなあ。
って、なぜかイチローの話を思い出すけど、まあどんまい己。


まあ、ぶつぶついいつつも、結局いいじゃないですかーと。
自分が楽しくできるレベルまで持っていって、死ぬ時に「ありがとう」といえれば
そこで自分は自分を生き切ったとなるはずなので(笑)

今日もふんばっていきましょう!

幸せとは何か

ついに来ました。ええ、「考察」コーナー。

いやね、基本的に「幸せってのはさ、人によって違うわけさ。だから定義なんぞできんよ」と思うわけどすな。
でもね、あんたの幸せと自分の幸せが違うなら、自分の幸せのために生きたいって。
そう思うのが自然じゃないかと。ただそれだけは思います。

幸せに対する欲求というのでしょうかね。
こうなれば幸せになれる!なんて、あまり僕は考えたことがなくて、
楽しいこと、面白いこと、背筋がぞくぞくすることを追っかけているという感じです。
簡単にいうと「好奇心がある」ということになるんでしょうが、そんな安い言葉はいらん!(まて

そうやって生きるのが楽しいんだって、確信して生きています。
もし「好奇心など捨てて生きるのが楽しい」ならば、そうしているんじゃないかなあと。ふと、思います。
まあ、まずないですが。


刺激が欲しいわけですね。現実が滅茶苦茶楽しいと。
辛いことがあればあるほど、楽しくなるわけですな。その分レバレッジになる(てこの原理なり)

というのも、確実ではないですけど、まあそういう風です。

やりたいことがあるならやればいいって。
でもそれをやらないのは、やりたくないのか、やる気があっても動くまで行かないのか。

結局、結果論になるんですが、やれない自分をですね、
やりたいことがあるのにやれない自分をですね、愚痴らずに「ああ、俺はそういう人間さ」と、
開き直りでもいいんですが、受け入れることが大事だなあとホント思います。

そうしないと、どんなことでも、自分は駄目な人間という風に思うでしょうしね。

やりたいことをやった達成感覚がある人間は強いなんて、「就活物語」に書いちゃったんですけど、
これはとある社長の御言葉。これはもう確認しちゃいました、うふ。
そうなんです、強いんです。自分が達成できるという自己肯定観があるから。
自信といってもいいんでしょうが、微妙に違いますね。

大小違えど、達成感があれば、そいつは燃料になって、結局燃料は切れないという、
無敵のモデルに達します。
こいつを神や信仰を交えると、宗教の出来上がりってなわけで。多分ね。
御手軽チャーハン並のノリでどうぞ(笑)


自分がこうなれば幸せってのは定義できないとしても、
こうしているのが「楽しい」ということはあるでしょう。
それが必ずしも「趣味」ではないなとも思います。というか、趣味って何か良く分からないですしね。

暇つぶしが趣味という人もいそうですが、それも一興だと思います。
得意のパターンでいえば、そういう人とはあまりお近づきになれないなということで、解決。
それって「人を嫌うってことじゃないの、だめじゃん」とか、いう人は間違いなく、文字通り「偽善」でしょう。

腐った偽善を振舞うなら、まず己を見ろと。誰に言ってるか分かりませんが、なんとなく。

って、友人と話したネタではなかった。やべ。
次へ。

の前に、シャワー浴びてきます。

ホームレス支援とは?

新聞に、(朝日どす)読者投降、ではなく投稿コーナーがある。
さらっと読むのだが、ホームレスの記事があった。

ふむ・・・。

名古屋の話で恐縮だが(恐縮してない!けど)、
地下街がある。ある時間帯で、多分終電かなー、地下街にいるホームレスを追い出す(と書いてあったかな)警備員がいたそうな。
もちろん、警備員にとってはそれが仕事なのだから、否定はできないよ。

そこで投稿者は・・・
ホームレスに1000円を渡す、渡したのかしらないけど、そうしたら
警備員が、「そういうことされると困る」的なことをいったそうでございます。

投稿者の意見は「単に同情ではなく・・・」という意見だそうですけど、
客観的に僕からみれば「単なる同情」にしか見えないわけですね。
ここらへんは、結構深い話ですよ。さらっと流しちゃいやん。

で、ふとまた見ると、別の「その投稿を読んだ」人から。
大意としては「そういう行為は同情であって、支援ではない。だから支援する団体・機関でやればいいのでは?」というもの。
納得である。

そもそも同情と共感は違うし、同情と支援も違う。

1000円を渡す行為が、「一時的であれ、ホームレスのためになる」と思って、渡す人は、性善説的に?考えれば多いのかもしれない。
が、それはちょっと違うかもしれない・・・という意見があることを把握しといたほうが、面白いと思う。笑うオモシロさじゃないっす。

よくあるのは、インドーなどの途上国(言い方好きじゃないけど)「るぴぃ」とむらがる少年、乞食などがいるという話。
この人々に「恵もう」が「分け与えよう」が「同情しよう」が「共感しよう」が「支援しよう」が何をしようが、「ルピー」を渡す行為は同じだと思う。直接渡す。
そこで「自分はいいことをした」と満足にふけるのも一興であるし、
「何か違うな」と思うのも一興である・・・。

しかーし、ここで冷静に考える。
もしそういった人々がいちはやく「仕事をもらい、自立?できる」のを望むなら、
それは意味がないと言ってもいいだろう。

しかーし、そうではなく
自分は同情、単に気まぐれ?でやっただけだから、どうでもいいと思えば、
そういった行為は批判されないだろう。
でもね、そういう行為ばかりしていると、多分僕みたいな人間に食いつかれる(笑)可能性があるのは否定できません。

これは脅しとかではなく、色々な考えがあるってことです。

さて・・・。

そこから発展。

「募金は無駄」という話を書いた。僕がそう思うのではなく。
確かに「資金援助」のみというのは、無駄という考えがひろまっちょるようだ。ホントかな。
それは、いわゆるおーでーえー(ODA、オダじゃないよ)の話か。
ここらへんは非常に葛藤と、政治的要素と、人間性と、ビジョン・・・とか
色々問われるわけで、だから「外交」ってのは、難しいわけだべさ、ね。と外務省官僚にちょっとだけ共感。でも税金無駄使いはだめよ。

ホームレスに資金提供している・・・団体を僕は知らないが、
炊き出し、
名古屋では問題になった公園にあるテントを撤去ーという話とかもあるので、そういった
住居を確保しようとする団体もあるはず。

支援とは、当たり前かつ月並みな話になりますが、
一方通行なわけがないんですな。

だから例えば、さきほどのホームレスに1000円事件(事件化完了!)では、
投稿者は「私はそんなにホームレスを支援したいとは思いません」といってるような投稿になってしまう。本人がそう望まなくともね。だからブログで書けばいいじゃんとか(笑)いやお節介ですみません。

で、もし投稿者が「支援したいんじゃー」というのならば、
そのホームレスと話をして、こうして欲しいというニーズを聞き、
それに応えていくという形式をとらなきゃいけないと思った。
それは「感性」で動く人間には煩わしいんだろうが、そういうプロセスは大切ーだよね。

それを個人でやるのは大変だから、団体があればそこに所属もしくは
その団体の人、組織の人の話を聞くことから・・・。
HPなどでそういう情報はあるわけですからね。
小さなことから始めるべきで、決して1000円あげることが悪いわけじゃないんですな。
でも、それが自身の目的にかなってないなら、考えるべきではないかと。

おそらく「それは支援じゃない」といった投稿者もこういったことを言おうとしたはずー。
間違ってたらやべえ。


TBの話に無理矢理戻せば、
そういった「突っ込み」がいやなら、日記に書けばいいわけで、
それを「新聞」という他人の目にとまる媒体に「投稿」したということは、
「批判」がくるか分からないが、「共感」なり、意見を期待した行動と見てとられる。
なんか、これって行動主義みたいだなあ・・・いや違うな。うん、違う。
行動が全てとはいわない。そうじゃなくて、1000円事件ではそう取れるということ。


というわけで(?)、
支援なんて言葉は軽く使っちゃいけないんですな。
といっても、もちろん「支援しよう」と思わなければ、「支援」なんぞできないわけですな。

そのハザマで迷いつつ、悩み行動できない人がいる・・・。
それは日本人口の60%だ!

おっと、そんなに多いかな。って、自分はどうなのさ?
いや、知らんっす。逃避。うはは。。。!

自己把握と自己表現

今日も夜な夜な。
って、こういう生活ももう出来ない気がする。というか、やろうと思えばできるけど、
やる意味がない・・・ね。だねえ。とひとりごつ。

ネタ提供は、毎度お馴染みなゲエム。

さて、自己把握とは。
自分がどういう人間か知るってことではなくて、
自分の状態・状況を把握するということ。
自己状況把握といったほうが正確なんだろう。

自己表現とは、本来人間とは表現をしたいものだ。という思想がある?という前提で、
実際の自身の行動や言動を表す。
表現だから、言葉でもいいし、絵でもいいし、ジェスチャーでもいいし、笑いでもいいし、
スポーツでもいいし、なんでもござれっと。


自己把握は出来てないのは、おそらくまあ未成年くらいなもんで、
自分がどういう状況なのか分からないってね。
あ、病気でもだめかな。

自己表現が出来てないのは、これは年齢に限らない・・・・・結構多そう。


例えば、抽象的だけれど、
「自分は悪いのは分かる・・・でも、どうしたらいいか分からない」
これは、自己把握が出来ているが、自己表現が分からないというパターンだ。

人にはそれぞれ得意不得意があるわけで、
自己把握に長けていても、自己表現できなければ何も進まないことが多い。
逆に、自己表現は長けているが、自己把握が苦手な人もいるかも。
主張はするが、自分がどうしたいか分からないって人、意外に想像できるんで。

車の両輪みたいで、どちらも必要なものだと思う。

自己を表現するってのは、結局本音とか言いたいことをいうってことだと思う。

自己表現をしない人生なんて僕はつまらないと思うし、
自己把握しない人生も単なるわがままちゃんな人生だから嫌だなと思う。

もし、こういった考えを受け入れられなくても問題はない・・・。
別に常に表現しなければならないというわけでもなく・・・あくまで自然に。

なんで問題じゃないか・・・そう。
別の人間の考えがなければ、僕の考えすら存在できないから。

だからこそ、自己表現は間違っていようが、すべきというか、
したほうが面白いと。全てを含めて面白いと思う。

自己把握と自己表現は違う概念だけど、
僕は、自己把握できたら、普通自己表現の道に走るんじゃないかって思う。
なんだろう。一緒じゃないけど、つながっていて、多分走るんだなーと。

トラックバックの仕方

親愛なるzubosi様から質問あり。うふ。

まず、トラックバックの仕方…というのだから、トラックバックの思想(笑)から
始めてみようかしら。

そもそも、Web+Log=Blogは
1.とっつやすいインターフェイス、操作性
2.コメント、トラックバックでつながりやすい
という2点が今までのHPや掲示板などにはなかったものだからこそ、
注目を浴びたのだと。そうおもっちょります。

当たり前ですが、HPもブログも掲示板もそれらは公開されています。
プライベートなものも作れますが、極論ですけど、URLがある時点で
それはすでにネットの一部です。
だから、検索エンジンのボットにデータを収集されないMETAタグをうちこんでも、
変な話、直接URLをうちこんで「ビンゴ!」となれば、検索エンジンなんぞ、
プライベートなんぞほぼ無理なんですね。

ここらへんは、プライベートなものを作る人には考慮すべきことですけど、
まあ有名人、芸能人でなければ、あとは「個人情報」に気をつけるくらいですか・・ね。

脱線しちょる。

それで、ブログでのコメント、もしくはトラックバックの作法、マナー、やり方、ルールは、
それこそ「ブロガー」分あるんじゃないかなーと思います。

例えば、僕のブログでは、コメント・トラックバックともに受けつけています。
しかし、スパムコメント、スパムトラックバックは削除しますし(当たり前?)、
関係ないようなトラックバックは時には消していますし、
トラックバックされてもなんか「ぴん」とくる記事書いてなければ、無視することが多いです。
たまに「さんきゅーコメント」しにいってますが。
ブログの方針が「来るもの拒まず、去るもの追わず」(笑)なんで、
まあそんなところです。

ちなみに、ブログでは「コメント」「トラックバック」を受けつけない設定もできます。
受けつけなくすると、もうアウトプットオンリーなんで寂しいわけですな(笑)

「コメント」のみ受けつけることも、「トラックバック」のみ受けつけることもできます。

だから、自分は「トラックバック」されたくないなら、「トラックバック」受けつけなくすれば
いいだけの話・・・となります?いかがでしょうか?

ブロガーの考え、トラックバック・コメントを受けつけるかどうか。
これだけでも色々な「ルール」が出来そうです。
コメントを受けつけている人でも、色々な考えがありますからね・・・。


そんなところでございます。

ちなみに、最近僕は、コメントはやりやすいけど、TBは慎重にせんといかんなと思っています。
自分がTBされた時、相手の記事を見るわけですが(スパム除く)、
そのとき、重視するのは、内容よりも考え方です。

同じ内容・・・というか情報?でTBするのは、はっきりいって無駄です。
これは異論ありそうですが、
例えば、マクドナルドのハンバーガーが50円だよ!というセールがあったとします。
で、ブログの記事でそのハンバーガーを食べに行ったという内容を書いたとします。
じゃ、同じような内容(他の食べに行った人)にTBをすべきかどうかということです。
僕はそれが無駄だと思っているわけです。
他にも色々あるんでしょうけど、ここでは無視(まて

で僕が気になるのは、例えばハンバーガを食べた内容ではなくて、
ブロガーの考え、どうして食べにいったとか、こういう話があるとか・・・。
そういうことになりそうです。

だから内容が重なるのは、無駄ですが、そこに面白味がないとなーと。

でもね、こんなこといってるとTBは、その通知でいわゆる橋をかけるわけですから・・・
どんどん閉鎖的になっていくわけですな。

感覚的には、HPのリンクとTBの違いは、
リンクは大きな橋(瀬戸大橋とかね)ですが、TBは小さな橋、もしくは町内の回覧版(笑)のような気がします。

つまり、TBは気軽にやるからこそ意味があるという意見も結構あると思います。
それはもちろんいいのですが、ブロガーごとで考えが異なるので、
これは非常に難しいわけです>ルールなど決められない。

気軽と記事の内容重視は、相反するかもしれませんが、
まあそこらへんも適当でどうぞ♪

生きやすい社会、転じて面白い社会

久しぶりにTBしてみた。ランディ氏のブログへ。うふ。
元の記事はこちら。
「生きやすいってこと」http://blog.ameba.jp/randy/archives/000698.html

印象に残ったというか、良いなというところを引用。
以下がそれ。

??
それによって何かが変わるなんてことないかもしれないけれど、でも、そこにいたみんなが誰かのために一生懸命に自分の経験を語るってことは、それぞれにとってとても、なにか大事なことを噛みしめることのような気がした。
??

記事を読んでもらえば分かるが、その娘さんのために、親?のために一緒に考えるということをしている状況。
確かに「こういう瞬間」は結構あるなあと僕は思ったが、でもあまり意識してない気もした。

友人が「話をしてくれるだけで満足」といってたことがあるが、
今になって「なるほど、そういうことか」と思い出したように分かったような気がした。

自分のことを親身になって心配してくれる方がいいけど、自分のことを知らなくても、
自分の状況などを話すことで、それを聞いてしっかり考えてくれる人がいれば、
素敵だろうなと、やはり思う。

そうやって考えていくと・・?

そう自分が考える面白い社会とは、まあそういうものなんだろうなあと。
ってことは、このブログも自分のアウトプット、考えの表明でも、固く言えばそうなるので、
やっぱり、「無駄」じゃないなと。

見てくれる人もいるわけだし。誰も見ていないとさすがに1年も続かん・・・(笑)

というわけで、ブログでアウトプットすることで、またはコメントし合うことで、
そこから面白い社会を作るのも一興かなと思う。


結果と過程

考えてみよう。

とりあえず、ブログ内検索。
自分で似たようなことは書いてる。

いずれも結論的には「結果も大切だが・・・過程が大事に」落ちついている。
ちなみに「結果」は大事じゃないなんて、さらさら思ってない。
むしろ、大事だ。過程の延長線上に結果があるという表現があるけど、それ。
それに尽きる。

過程と結果は、対義語ではなく、結果は原因だっけ。過程・・・は何?
げ、分からん。

ってことは、つまり「過程」の延長線上に「結果」で良しとしよう(いい加減(笑))

そこで、先達たけし氏の話。

間違った解釈をする可能性はあるけど、ご愛嬌で。
つまり、氏が言いたいのは「つもり」であろうと、「結果」が出なければ、
あらゆるプロセス、つまり「過程」は無駄だと。そう言いたいのである。多分。
極論かもしれないけど。

僕が一番解せないのは、「結果」のみを見る主義です。
これは「結果主義!」として、非常に「カッコイイ」気がしますが、多分馬鹿です。馬鹿って言葉は悪いな。氏は違いますよ(フォロー。

ある会社説明会でのことでした。
その説明会では、営業職を募っているので、営業の若手社員が多かったです。
どの面子(といってる時点で、すでに感情が入っている(笑))も、
「営業は結果だ」といいました。

当たり前です。結果でなけりゃ、やめろーってことです。
いや、いいんです。といってる人間が、営業に興味ありますが。ふはは。

営業は結果だなんて、誰でも言えるわけですが、これを注意深く聞いている、少なくともそこに「たまたま」いた、若手の営業社員、たまたまその会社の営業職、たまたま・・・かもしれませんが・・・・。
「結果だ」「結果だ」としか言いません。つまらん。
「結果よりも過程」とかいってほしい。別に現実逃避ではなく。

さて結果主義(ここでは、結果だけを見る人間と定義)の問題点は?
それは「結果だけを見るあまり、過程が見えない」ということです。
月並みすぎですか。こんなもんですよ。

結果を重視するなら問題ないのか?どうなんでしょうね。

変な表現しますけど、許してね♪
本来の(笑)結果主義なら、「結果を考える」からこそ、その根本である「原因」を考えるんだろうなあと。そう思いました。
つまり、営業成績が良いのは、何か原因があると。と、語感悪いですか。要因なんかにしときますか。

営業成績が良い人間が全てか分からないですが、
「こうしてみた」から「こうなった」と、原因→結果で解釈しているような気がします。
冴えない営業マンが、ある日突然生まれ変わって、成約しまくり!というのでも、
ある日突然後、したことと、前やっていたことはやっぱ違うんですね。
それが原因でしょうか。

ってことは?

そうです、誘導成功。

結果を考える人間は、原因を考える。
そこで出てくるのは、フロー。つまり、流れである(横文字使うなよ)。

原因って言葉は悪いことに使われがちなんで、要因にしときませふ。

結果1:成約しまくり。受注伸びる!
(結果1の)要因1:営業マンの交渉が良かった。

結果2:全く成約できず。やばい!
(結果2の)要因2(原因):営業マンの説明がおぼつかなかった。

とか、まあこんなのがあるんでしょう。多分ね。
で、結果1から結果1の要因を考えるわけです。ごちゃごちゃになってくう。

フローとしては、
要因1→結果1となります。金持ち父さん貧乏父さんみたいですね・・・はは(!?)
誰かの口調をパクってしまった・・。

もう御分かりでしょう(話を手短にするため)。
要因1→結果1の「→」は、フロー、流れ・・・そして・・・「過程」なんです!
おおーニュートンばりの発見だああ。(あほ


話を戻しますか。えいや!(この口癖ってなんかであるんですか?結構使う人いたような)
(えいや!でやるとか・・・ね)

三論法?でいきますか。

結果を考える人間は、原因を考える。
原因を考える人間は、過程を考える。
よって、結果を考える人間は過程を考える。

って、たけし氏さん、考えないなんていってないしなあ。やべっ。

で、「つもり」の話は、
「がんばったつもり」でも、「がんばった」でも、「がんばってなく」ても、
「結果」で一まとめにできますよね。というか一まとめにできるのが結果?

いやね、氏が言ってることが、
「結果」でなきゃ「過程」は意味ないと。
そういう風にきこえたもんですからね。ええ。氏は大好きですよ。うふん。

このくらいです。

で、「営業は結果です」というのは、
「過程を考えない」ようにきこえたから、嫌なだけですな。

だから補足で、「過程も考えつつ結果をにらむ」といえばいいだけで、
それを言えないということはそこまで考えてないと見る。

それがわが人生。おっと。

虐待としつけ

ぼんじゅーる。
アディオスhirohiroでございます。

虐待としつけの関係は至ってシンプルでございます。
躾(しつけ)とは、その漢字のままで、身体が美しいなんて解釈できますね。
立居振舞いなんて、一朝一夕で出来るわけがねえべさ。

虐待は、色々あるようです。
典型的なのは・・・というと、専門的にやってる人に「おらー」て言われそうですが、無視。
まず、虐待って、親が過度な暴力を精神的にも、物理的にも子に振るうこと、くらいに定義できますかね。

虐待の連続性(つまり、虐待された子は親になって子を虐待しやすい)はよく言われていますが、別に誰しもそうなっちまうわけではないんですね。ここらへん根拠ないですが。
いやね、人間はカマラちゃん(狼に育てられた話、ありますね)のように、環境に影響受けるんですよね。それを「否定」しないほうがまあ賢明ですよ、ね。事実みたいです。
遺伝子云々はまあ無視しましょう。あほにかぎって自分は「バカ」なのは遺伝子のせいだ!とかいいますから。

しつけとは、親がすべきものですが、まあ親がバカならしつけもできるわけがないと。
っと、しつけってなにか。そう。御行儀よくとか、マナーとかそういう点が強調されますけど、
言葉遣いもそうですし、いわゆる金持ちの坊っちゃん、嬢ちゃんの話ではなくて、
普通にそういうのは大事ですか。

「育ちが良いか悪いか」というのも、ありますね。しつけに大きく関係しそうです。

しつけが悪い人間が虐待をするわけではなく、虐待をする人間がしつけが悪いわけではないはず。

じゃあ、虐待ってなんで起こるのか。

ケースが悪化すると、子を殺して、親も死んで、心中してしまいますからね。

虐待に似ているのが、DVというやつで、これ大分普及しましたか。
どうなんでしょうね。

虐待やらDVも、発生源はまあ一人の人間ですが、その一人の人間の心が原因だと。
まあ心理学的に見るわけです。法学的にみるとどうなのかしらね。

赤ちゃんが泣き止まないから、ストレスが溜まる。だから、赤ちゃんをほかって置く。
ひどいもんですが、それだけの理由が親にはあるかもしれません。
まあ、理由があるとうなかろうと、子どもが親を選べない、選べるだろうと、
親が子どもを選べる選べないだと、産むつもりはなかっただろうとそうではなかろうと、

そういうのは全て「甘え」だと思います。

というか、それ以上に子育てが楽しく、子どもがかわいいと思える人が・・・
そういう人が少ないように感じる、もしくは実際にそうなのかもしれない。

命賭けて子どもを育てる!なんていうのは大袈裟かもしれませんが、
まあ真剣にという意味では決して大袈裟ではないはずー。

で、虐待でもそういった理由がなく、なんとなくーみたいな人は魔女裁判でもしますか。
でも、家庭の事情とか、警察は「民事不介入」が原則だし、福祉関係のいわゆる施設は、子どもを保護することも、かなり難しいのが現状みたいですね。

つまり、虐待をしようが何しようが、そこで「誰も助けてくれない」と、子どもが学んでしまう。
これって前言いましたけど、学習性無力感(Google検索)になってしまうかも。
すると、結局「生きる力」なんぞ最終的になくなって、どうにでもなれと・・・。

虐待があるのは事実で、虐待をどう思うのかが意見。

アドバイスB

自分が起業に向いているなんて誰も言ってないし、僕も思ってないが、やりたいと思わない人がやるのはまずいなとは思う。

まずやってみること、と誰が言ったか知らないが、良いことを言う人はいるもんだ。

僕のブログに根底して流れているのは、「自己表現」だとD51さんに言われた。
前もこれは書いたけど。深めに。

確かに新聞記者、作家、ライター、モノ書きという職業は良いなと思うことはある。
が、村上龍曰く「作家は最期の職業」であって、ある人曰く「フリーライターとかのフリーランスとフリーターは一緒さ」であるし、さらにある人曰く「起業家もフリーターのようなもの」である。

(笑)

新聞記者に関する、いや正確には新聞報道の話か。
新書を読んだとき、やっぱり記者はこうだよなと妙になっとくした。悪い意味で。

作家はなれればいいが、副業もしくは兼業がいい。

つまり・・・・一つの仕事だけというのは、まずないってこと。
そういう生き方をするってこと。それは誰から「決められた」わけではなく、
そうしたいなと。

起業してそれで生計が成り立つか分からないが、それも1つのこと。
仕事を創れるというセンスを身につけたいし、そういう力があれば、
それこそ「一生食える」とにらんだ。その判断はおそらく間違っていない。
心理学を学んだことは、その1つの糧となっているし、プログラミングをかじったのは、
論理的思考を鍛えることになっているし、とにかく「良い風」に解釈することはなんとでも出きる。

ある人は僕のことを「親切」だと言ってくれたが、ある人は「毒舌」だという。
同じ人間が同じことをしているが、何か一場面を切りとって、同時に何か一場面を提供して、そこで「判断」しているだけだと思う。
だからこそ、他人の評価はあてにならないと常に思っている。

だからこそ、アドバイスなるものは「うたがえ」というわけだ。
ちなみに本も疑って読んだ方が良い。それを手っ取り早くするには「量」をこなすこと。
違う考えにふれれば、違和感のある事実などはすぐわかるように人間は作られている(笑)

自己表現ということをこのブログでしているというのは、ある。が、それはあくまで1部。
話すのも僕の1部。全て1部。
これを足せば全体になるかといえば、それは・・・分らない。多分違うと思う。

それくらい不安定な存在だが、収入は安定させたい(笑)

もしこのブログが誰かのため、誰かに書かせられているというようなことだったら・・・
僕はこんなに書かないし、こんなに(1年間)も続かないはずだ。これで証明できた。

つまり、このブログは自分のために書いているのであって、決して他人のためじゃないんだ。
それを「自己満足」という輩もいるが、それは僕の言葉であって、他者が言っていい言葉じゃない。
だからこそ、「自己満足」でやってるなんていわれると腹が立つわけで、
やはり「自己満足」ではやってないなとも思う。難しい。矛盾しているが、矛盾してないレベルだ。

自分の思ったことを考えたことを書く。
たったそれだけ。それだけなのにする人としない人がいて・・・
好き好きもある。面倒臭いとかね。意味ないとか。

で、それでいいんじゃないかって思う。
文章を書きたいのに書けないのは、センスがないわけでもなんでもなく、
才能がないわけでもなく「単に」、今、「そうである」だけで、明日から書けるかもしれないし、
1文字でも進む可能性がある。
それはウマの前にニンジン的な妄言に聞こえるかもしれない。
でも、そうであっても、自覚しているならいいのではとすら思う。

好きなことをやれる社会というのは実現可能だと思う。
というか、僕のイメージする社会はそれだ。その中に「真面目なやつが損しない」社会が入っている。

好きなことをやれる社会とは、嫌いなことをやれる社会と同義だ。
これはもう何度も言っているように、「好き嫌い」は両立してこそ意味があるからだ。
嫌いなことをやれる社会って、なぜ言わないのか。
単に入り方の問題。

最初に、「扉を壊して鍵をあけます」という修理屋がいいか、
「鍵をあけますが、扉壊れてしまいます」という修理屋がいいか。

心理学的にいえば、文脈効果。社会学でのアンケート調査の項目で学ぶ話。

最初に善情報をあげれば、悪情報も軽く感じるみたいなね。説明悪いけど。

自分ながらキレが良いまとめ。

というわけで、D51さんの意見は有り難く受け止め、こんなくそみたいな人間にありがたいのでございます・・・が、
自分は起業をまず目指すと。そしてそこから得られるものを最大に活かすと。

とりあえず、奨学金制度をですね、もっと充実させるくらいからやりたいですな。
島を買うとか、ロケット飛ばすなんて小さい夢じゃないですかね。

現実に役立てる方が大きい夢かもしれないと。
現実にないからこそ大きい夢って、実現可能じゃなさそうだから大きな夢じゃないかって。
そう思うこともありますけどね。

面白いですね。やっぱ人間は面白いですよ。

募金は無駄なのか

いや、そうではなかろうよ。

募金は無駄だという人がいるという話を聞いた。
何かショックだった。僕はもちろんお金が全て良い方向に向かうとは思わないが、
そもそも「募金を無駄」というのは、何かもっと深いものがあるような気がする。
仮に何気なくいったなら尚更・・・。ってこと。ふふ。

今日とりあえず気付いたのは、

それは、その人は「強い立場」からしか見てないということ。
日本人なんてかなり恵まれすぎているということを知らないか、
知ろうとしないのか、自分の環境を全てに適応させて話すのか・・・
他人への想像力の欠如なのか・・・なんだろ。

とにかく、逆にいえば「弱さ」を知らないともいえそうだ。

弱いことを知らない。自分は強いと思ってる。
まさに「裸の王様」。自分は裸なのに・・・。

自分を受け入れることが出来る人は、きっと「募金は無駄」なんていわないだろう。
言ったとしても、きっちり「こういうところが問題だから」と説明できるだろう。

募金が無駄というなら、何か考えた事を言ってもらいたいものだ。
そういうことは、募金活動者、募金で事業をする人を舐めているといってもいいだろう。
別に舐めてもいいのだが、その分しっぺ返しがくるだろう。あーめん。

自分がもし、募金を受ける立場なら・・・どう思うか。

途上国の人々が、募金をどのように使っているか、または支援者がどのように使っているかを知る人は少ないし、僕もよく分らない。
「無駄」ということで、何かを捨てる、いや自分とは関係ないといっているようで非常に何か冷たいものを感じた。

もちろん、お金を提供するだけではなく、きちんと回していく技術などが必要なんだろう。
でもそれって、非常にデリケートなところだ。
別に経済的発展が全てじゃないと、誰もが言えるのではないかと思う。うーんそうでもないか。

どっちにしろ、僕はそう言いたい。
むしろ経済発展が不幸にする部分もあるわけで、発展が全てとはいえないが、
そういった流れ、時代の傾向はどうも人間の一人の思いだけじゃコントロールできないという無力感がやはりある・・・。

自分とは関係ない人間とか、そういうのは何かセコイ気がする。
たまたま日本に生れただけとか、たまたま自分は死んでいないとか、
たまたま教育を受けられたとか、そういうことをきっちり自覚してないんだなと思う。
だからこそ、そういうことが言えるわけだ。

もしも「お金」で「励ます」ことができるなら、そうすべきかなと思う。

お金を援助することの意味は非常に難しいけれど、
少なくとも「無駄」と一言でいえるもんじゃないなと思う。

そこには深い考察があり、同時に上げればおしまいなんていうレベルはもうとっくに通りすぎていると思う。

なぜあなたは今不自由なく暮らせるのですかと。
そういうことを突き詰めて考えれば、自分なんてくそみたいな存在だってわかるはずだ。
なんておこがましいのだろうと。
同時にそういう思想、思いを持つのも人間だと思うからこそ、やはり人間は
面白いなと、無理にではなく思うのでありまする。

無意味に有意味を。

そういうことがあると思う。

無駄なことをいってると、それが以外に有意味にとられ、相手にプラスになることがある。
同時に、有意味なことをいってるのが、無駄にとられて、無意味だと思われることがある。

そういうのは少ないかもしれないが、
きつきつの「正論」しか吐かない人間もまた嫌なものだと思う。んだ。

それこそ僕の最も嫌いなタイプだ。


ということで、つまり、意味のある、役に立つことを必ずしもしようと思うのは時には無駄だということがあるともいえる。
肩肘張らないというのは、方に力を入れ過ぎないとは、結局そういうことなんじゃないか。

自分はやるだけやった、あとは結果次第だって。
そういうのは、うまいパターンだなと思う。

だから無意味だと思えることを書いていけばきっといつか有意味になるともいえる。

だからこそ、誰も能力がない人なんていえるわけだ。
おお、そうきたか。ぐふふ。

意図しない発言だと取られたら、それはしょうがない

やっぱり、そういう時って多く、多分9割が「コミュニケーション不足」だから。

こっちはそういうつもりはなかったって。
そう思われたら、誰が悪いの?

自分が悪いのか。相手が悪いのか。

おそらく両者が悪い。でも、両者ともそれで良いと思っていたわけだから、
奇跡の会話が通じたとか、そういうことは放っておいて・・。

意図してなくても、そのように取られたら、それはしょうがないと思う。

意図しないものを勝手に誤解した場合で、かつ相手が傷ついたとかいうのが問題になる。
傷つくのは勝手だとすら思う。

勝手に自分で妄想して勝手に傷つくのと何が違うのだろうか。

差別的な発言とかそういうことも考えていると結局何も言えないことがある。
でも、差別的な発言が良いとは思えないのも確か。

同じではないんだろうけど、そういう意味で「何か捨てないと何か得られない」というのもある。

コミュニケーション不足の場合、こっちに気力がある、もしくは相手に気力があれば、
お互い補えるが、それが生じないならそれはもう無理だと思う。
僕はそういうふうに考えているっと。

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