話せる場が単純にあればいいと思ったので、
それに近いことをやるには、結局、
PDCAみたいな仕組みが必要で。

つまり、話して終わり。会議して終わりじゃなくて、
実際にできるみたいな。

実際にはまだまだ、「話す」と「できる」レベルではなくて、
「自分のやっていること」をアウトプットということになってる。

が、昔なら、無理だったのだけど、理由がいくつかある。

・時間の制約→これは解放されるので。

・コネクタの制約→やってもフォローが甘くて紹介しきれないとか、
今はもう違うので。

・コストのかけ方→これはいいとおもったらそれをやる。
お金のコストはかけないために、時間コストでカバーできるとか、
選択肢が増えてきているのでOK。

・実験的試みを実はしていたり。
→WSRというプロジェクトを立ち上げてそこでの共有とかもやってて、
それはもう終わったけども、色々試せたり。人が1年くらいの関係で、
色々やっていくとか、そういうので見えてくるものが大きい。
例えば、人によって面白さは違うのだけど、面白い部分の解釈が違うだけで、
面白さの土台って結構変わらないかも。
でも、役割というかはまり具合で心地よいという感じ、それは面白さではないのだけど、それは違う。一緒にしちゃわずに分けるといいかも。

面白くないけど心地よいってなさそうだけど。
そうすることで、見えてくるものがあって、
以前からいってたリアルでやったほうが話が早いよね、みたいな。

・何を企てているかといったら、色々で。
→色々やれないのではなく、色々を色々として色々やろうという発想が
なぜか出てこないのは、「できない」と思い込んでいるだけ。
もちろん、無理なものは無理だけど、やろうとして考えていく。
そういう感覚が土台としてないなら、前提でないなら、不毛で、
次のステップはない。今度はない。今しかない。刹那的に、
今を生きるのではない。次は期限を決められないなら、次はない。
もちろん、これを言い訳に使うのはいいかと。自分も使う。
だが、やりたくて「次」って言っちゃだめなんだよ。
今やれる方向でやらないと次はない。チャンスは一回って。

アイデアについて検討とかするなら、
話せる人がいるかも。まあ、自分がそれを目指せばいいし、
そうなればいいだけ。実はニーズはやっぱり多いと思ったり。

予想から確信に変わったり、推測が断言に変わったり、
なんとかっぽいが、なんとかであるに変わったり。
そういう変化が自分で起こるときに確実に次のステップが踏める。
この感覚分かる人は多いかもしれない。

実はこういうことをしたかったんだよねって、ぽろっという発言が
リキを入れてないところでの本音で、しかも深い深い話かもしれんと
そういうことは感じたりする。

アイデアって面白い。やっぱいいなあ。