善意な作為をデザインという。
うむ、悪くない。

やらせ番組というのが流行ったことがあるが、
一定のリズムでそのようなものもある。

森達也氏は、ジャーナリズムがそもそも神の手のような
客観であるというところから始まったわけがないと、
いやそこまでいってないか?といってるのだけど、
実際にジャーナリズム自体も作為といったら怒られるだろうか。いや・・。

主観、作為、善意。

善意は作為ではないという人も一定数はいると思うけれど、
自分も全く同じことがいえる。

ある種の意見や考えに対して理解できんことはある。
しかし、利害関係というか、その人、ここで重要なのは
その人とどう関係するかなのだけど、その関係具合によっては、
言うべきことも黙っておいてしまうのだ。
それは処世術なのか、よく分からないけど、そういうものだと思ってる。
普通こういう人の関係の中でどう振舞うか、振舞えるかは、
性格という便利な言葉がある。

友人が名言をはいた覚えがあるが、忘れた。
ただ、「色々すぐ分かる人」というのは、味がなくてつまらんと。
納得である。

次に別の友人は「あまり話さないと思われる」のは短所だといった。
なるほど、そういうのが気になる人は多分、「関係」できないんだろうとか
ふと思ったりする。

個人的に、あまり話す人間は嫌いである。
話すとは、おしゃべりな人間ということで、
マシンガントークがおしゃべりというわけではなく、
何でも筒抜け・・・とか、会話に重みがない人である。

「そういえば・・・」といえば、確実に重さがある、
面白い会話をしてくれる人が素敵である。

デザインは、何かを企てる、目論む。そして企画する。
設計する。全部デザインだろうといってもいいだろう。

自分をデザインする、design my life。
そして、自分が生きているという、I DESGIN ME!!
何かを社会に対して提案したい、social design.

思うに、何かを仕掛ける人は
やはり仕掛けるのが好きなんだから、
仕掛けることをもっとやったほうがいいと思ったりする。

そうではなく、こつこつ積み上げるのが好きなら、
そういうことをもっとやったほうがいいと思う。