捕らえ方にもよるが、
バイオグラフィーなんてページもこのブログはあるので
見てみた。

2010年あたりに変動があるような感じだが、
ちっと前倒しか。まあいいさ。

僕がやりたかったことはシンプルで、
多分、人助けみたいな言葉は嫌だから、
別の言葉、もしくは行動で、どういわれようが、
行動ベースで実行していくことだろう。

よく、口だけいって(アイディア出しとかの話では当然なく)、
何もしない人が嫌だったりしたもんだ。
そりゃアイディアは大事だが、
真剣に検討することが「他にもない」とみえると、
一気にやる気なくなるものだ。

例えば、Aということについて話してて、
その人はAについては疎いから、適当にアイディアをいった、
口にした・・・としよう。
ではその人の興味あるBについてなら、
真剣に検討するか、考えるか、実現可否は?というと、
多分しないんだよ。

なんでかっていうと分からん。
しかし、そんな人は一杯いるんだろうと思う。

自分が実現できないことに安堵を覚えてしまう人は、
絶対いると思っている。
自分はそんな器ではないというのだ。
自身の力量をきっちり把握、認識するのはいいことだ。
でも、それで可能性とか、今後についてを
断ち切るってのはどうなのかと。

断ち切っている意識がないんだろう。
だって、そもそも、可能性なんてものは、
少しずつやっていって、できていくものだから、
いきなりは、「ない」。
あったら、それはまぐれだといっていい。大体。


で、自分に振り返ると、
考えが変わっていないのは、頑なさ、頑固さともいえるが、
自分が言ってきたこと、考えてきたことは、
何も夢でも、幻でもなかったわけで。
そして、つまり、実行レベルに落とすために、
きっと今までやってきたんだろうと。今になって大きくいっても、
多分、今までを知らない人はそうだったんだね。って
それくらいでしかないけど、僕をずっと知っている人がいるなら、
それは大学、高校のときの友人なんか特にそうだけど、
よく分かるんだろうなあ。

何度も思考と、試験、そして、失敗を繰り返し、
何度もやってきている。
多分これらのプロセスと、数はどんどん増えるだけで、
あまり数量は意味がない。意味なくはないけど、数量多ければいいってもの
でもないだろうと。

友人が、僕は失敗をしてないように見えると思ったらしいが、
何のことはない。多分僕が知らない世界、そしてもっと大きな失敗が
あるとは思っている。が、そんな失敗を期待して、やらないということは
一番もったいないし、馬鹿だと思っている。
僕が失敗をした話を失敗学のように抽象度を高めるなりしないと、
ほとんど使えない。個人の愚痴でしかなくなる。愚痴も大事だけど。

何度もモチベーションと、そしてやる気。
または、確信と自信。不安との対話。
何度も何度もやっていこうと思っている。
くどいくらいにやっていこうと思っている。

毎日は面白いのだ。