そんな雰囲気です。
貯めて→アウトプットは、誰でもできるけど、
ある程度加工するのは意外に出来ない。
加工=編集であって、要約ではないというのがポイント。

気付いたら、ある程度固まった知識や知恵などがあるとして、
それらってうまく流したり貯めたりすることで、
力が生まれる。元気っていってもいい。

そういうのって、インプットするぞ、とかアウトプットするぞとか、
そういう意気込みももちろん大切なんだけど、
やはり、出し惜しみというか、惜しむ要素が限りなく0に近い方が
いいような気がする。再確認ということで。

積極的に何でもやればいいとは思わないが、
しかし、何もやらない受動的よりは、いい。何でもやる受動的とか、
何にもしない積極的ってのは、「冗談」のようだが、
実際にありえるケースのような。

そういう感覚があるかないかはおいておいて、
最近は「一緒にやらないか」という言葉が
ものすごくドキドキするというか、ものすごく深い言葉だと
(ちなみに、エロい意味じゃないっすよ。)
思っている。

一緒というのは、なんかいい。
一緒にいたくないやつもいるけど(笑)

で、アウトプットの質が変わるっていうのは、
これは僕の中では大変化なものなのだけど、
ここで「書く」のもそうだし、
人に話す、語るのもそうだけど、
なんていうか「表現」してみて、どうだい?って
そういうコミュニケーションとか、
あと、リアルでFaceToFaceなものが、
なんか「ちょっと、うん?」ってこともあるけども、
断然そっちが好きだなと、感じている。

だから、ちょっと書いた「社会の関わり方」なんて、
実は、単純に自分と人を直接関われるなら関わりたくて、
そうじゃないなら、間接的でも出来るだけ関われるところに
いたいって、そういうことになるかもね。

人とは、ここでは、何かってのが問題だけど、
そこまでは分からんと。

ただ、もう1つ追加でいえるのは、
自分の顔ではなく、体が内ではなく、外を向き始めている。
なんかものすごく「楽」だ。
今まではもしかしたら「体は内で、顔だけ外」だったような
気がしている。

今は「体も、顔も外」向きだから、姿勢が楽なんだよ。
そういう姿勢だから、なんかいい。

なんかいいね。