問いはまだ続き、結局、2007年中に終わらない予感もする。

上原ひろみがラジオで話してた。むー、いいなあ。
ラジオはやはりいい。

東京FM系のSky!も久しぶりに寝ながら5時台の話を聞いてたけど、
なんかいいなあ。石川さん最高だ。

走りたい時があって、それはマラソンというよりも、
ちょっと運動をしたいというような時に、近いのだけど、
そういう時って、大体8割くらい、もっといえば6割くらい
走ればなんか満足しちゃうねって、ものすごく分かっていて、
やるから、ちょっとだけで満足しちゃうんだ。

それって悪いことでは決してないのだけど、
なんか物足りないよという声が最近止まらない。

うまく、要領よくというのと、空気を読むのと、真っ向から天邪鬼という
3つがなぜか道があるとすると、絶対に最後の天邪鬼を取る。

大勢がやるものに興味はない、というと、
実は、一生メジャーになれないバンドみたいで、なんか閉じてる気は
するが、「ソラニン」ではないけど、
バンドを仲間とやっていれればいいという満足度も普通にあるわけで、
そういうのは「偏見の満足度」だなと、自分で気付く。うむ。

要領が良いのは、好きじゃない。不器用なのがなんかカッコイイ。
ただそれは、水面下=不器用で、水面上=器用というのならば、
リスペクトということはある。

空気を読むのも面倒くさい。社会性・協調性についての破棄ではなく、
それで自身をひどくコントロールするのがストレスだ。
もちろん、誰も聞いてないのに、アジア経済の情勢を語るのは
やれないけどやりたくないけどね。

天邪鬼は、素直さが足りない点で、損はするが、
冷静な状況のキャッチと、次への展開はアドバンテージがあると思っている。
素直さで損するというところは、もっと深く分析できるけど、
まあ、割愛。

走ろうと思って、じゃあ一緒に走らない?というように、
自分だけではなく、人と一緒に何かやることを、
ものすごく大きな像や、小さな像や、別のシミュレートするように
それは仕事よりも課外活動(笑)(最近の流行言葉。課内は仕事のこと)で
得られる方が自由度が高い。
それは、仕事ありきだから、仕事があるから自由度が高く感じるだけ
なのだろうけど、でも、自由度をどう感じるかは色々あるにしても、
その事実、学びとかは、変わるわけがない。

単に、しょぼい環境と素敵な環境を往復して、満足するのって
なんかアレだ。素敵な環境に全部するようにしたい、が、
まあそうならないかもしれないけど、でも、ぬるま湯にいつまでも
浸る理由は誰にもない。僕にも当然無い。

仕事でいえば、コピー取りが結局何につながるかを1年くらい考えることが
できるんじゃないかと思う。まあ1週間もあれば、早ければ1時間で、
何につながるか分かるんだろう。
でも、そういうのって、コピー取りではない、別の課題、仕事があるとき、
どこまで落としこめるかって、1時間?3ヶ月は何かタイムラグが
あるような気がする。
要は、才能というわけではなく、なんていうか、消化の仕方だ。
そもそも、物事の消化ということの感覚が分からない人もいるはず、だから
どこまで伝わるかは不明だけれど、
1言えば8くらい通じる人と、1いっても1しか通じない人は
普通に存在する。ただそういう人の違いじゃないのかなと思っている。
それは、個々の問題だから、
ここで、昔、指摘された「組織の問題を個々の問題にする」という
僕の傾向を思いだすわけで。

まあ、確かになんでそう思うかは、組織を自己がコントロールするとか、
そういうものを作りたいんだって、意識があっただけなんだろう。
全てが学びということはつまり、自分のものにする、消化するんだから、
そういう風に捉えてしまうんだろう。

だから、「従業員にも経営者感覚を」ってのは、
非常におかしな考えかもしれない、とはいつも思う。
意気込みはいいけど、それやったら、なんて魅力ない会社が
ばれてしまうところもあるかもしれない。分からないけど。

突き詰めていくと、社員がどんどん離れていく仕組みになるかと。
まあ、それをうまく仕組みにして、戻ってくる流れでも、
そうじゃなく、子会社とかにしちゃうとかでもいいのだろうけど、
それはおいておいて、学びとは、結局遠くに学びにいくというのではなく、
こっちに思いっきり引っ張ってくるってことなのだと、にらむ。

ある種の判断において、
自分をごまかし続けてきた自分と、力を抑えてきた自分がいて、
人は「がんばっている」自分を見ているだけかもしれないけれど、
別にそれはどちらでもいいんだ。基本、水面下は見せないし、
見せたい人間には見せていって、それでもやりたいか?という
問いを逆に質問してしまえるくらいにしないとなと、感じている。

力を抑えた・・・というのは、いわゆる自己の自信の表れなのだろう。
もっとできる、まだできる、もっとまだもっとまだ・・・
そういう繰返しが何度も何度もあって、その度にチャンスだと思って、
踏ん張ってやってきたのだろうと思う。
なあに、過去の美化はここには全くない。事実の注視のみだ。

そういうチャンスというチャンスがあったか分からないけど、
運やカンや直観や事実や理屈、そして戦略などがあったから、
ここまでこれたのだろう。それは、単なる一サラリーマンとしても、
課外活動者としてもだ。


天邪鬼といえど、自分に素直にならない時が最近多すぎる。
そうなった時に、「ありがとう」とか、心から言葉を発することは、
ちょっとだけ恥ずかしいが、最近はその恥ずかしさは実は、
「大切さ」を表すためのタメとか、前座に過ぎないのじゃないかと
思っていて、だから、しっかりと「ありがとう」といえるような気がする。

僕にとっては、この天邪鬼問題は、ものすごく大きな問題で、
何をお兄さん、いい歳こいて!という話もありそうだが、
いやいや、実は人ってこういう基本的なことは、歳をとっても、
何があっても、あまり変わらなくて、意外なときに、意外な瞬間に、
はっとして・・・これでいいんだろうか?と思ったり、
このままじゃダメなんだろうってとか、そういうことを思ったりしたり
するんじゃないだろうか。デジャブじゃなく、違和の既視感みたいな
ものかもしれない。


振り返りとかアウトプットとか、
そういうのが止まらないとき、どうするか?

答えは決まっている。書いて書いて書きまくるのみじゃああ。