1つ目。
あるブログの言葉で、印象的なのは、
「自分がレールにのって生きていることで幸せを感じる人が羨ましい。皮肉ではなく」
というのがあった。まあ、文意が異なれどいいだろう(おぃ

そういう羨ましさは正直なところ、皮肉にしかならない。結果的に。

難しいのだけど、レールなんてそもそもないという認識が僕にはあるので、
その認識のズレがまずここにはある。
そして、レールってそもそも、ひかれているんですか?という点も異なる。
会社に入って仕事するのが、レールなんですか?ありえんよ、と。

だから、脱線するとか、レールから抜けるってのはちょっとなあ。考え方としてあまり好きじゃない。
ロバート・寄与先、あ、キヨサキではないけど、父親が税理士だったか、そういう
ラットレースから逃れろとはいってないけど、そういう風になるよねーってことで、
いわゆるビジネスオーナー的なものを目指すのもありだよね、という結構柔らかめに
受け取っているが、実際はどうだろうか分からないが、そういうのがあった。

ラットレース=レールだと思うのだけど、多分ね、でもレールそのものがあると思っていて、
それは実はラットレース(ここでは全く同じようなクソ退屈な毎日(笑))だということになりそう。
そんなの面白くもないわけで。

じゃあ、それだから、レールから抜けたという意識は・・・どうなんだろうか?
そもそも、それは当たり前で、何かしてやったぞ的な、「人と違う人生」である的な
感覚は「誤っている」といえそうだ。誤っているとは、認知がおかしいというだけで、
おかしさは異常という意味ではないが、そういうことには気付かないのかもしれない。

どうやって生きるかと、どうやって現実を見るかはほとんど同じことをいっている。
世界は面白いと思えば、そのように生きるし、つまらんつまらんよ!つまんねーという人は
そういう風に生きる。シンプルで分かりやすいね。

上目線満載のアドバイスをしておけば、
欠けているのは、面白いとか、信頼とか、そういう仲間やパートナーという人だろう。
少しでもそういう人が周りにいれば、ラットレースだとか、レールだとかの思考なんて、
くそみたいに小さいことだって気付いたのだろうから。


次もあるブログから。
本好きの本通な気取り方が鼻につく、というような話。
ほとんど分からないが、そのように感じることが、おそらく書き手の表れじゃないかと
メタ的に思ったりする。
僕は本好きだが、本通を気取ることはない。そう思われているかもしれないが、そんなのはスルーだっ!
上目線ということを最近意識しているが(自分がではなく、言葉として)、本を読む人が
本を読まない人に、本を読めというのは、上目線かどうか。非常にムズイ。
そもそも、読書みたいなことって、言われてやることかいな、と(子どもではないならね)
思ってしまうからだ。

娯楽で捉えてしまうのは、ちょっとだけ誤りで、例えば、映画・音楽・読書というのは、
並列要素で並んでいるのはややおかしいということはいっておきたい。
別に「娯楽」の読書もあるわけなので、よけい分かりづらくなりやすい。

読書自体は表現でも、楽しみでもなく、実際は学びに近い。
おっと、映画も音楽も学べることはある。でもどちらかというと、音楽なんてとくにそうだけど、
インスピレーション的な、パトス的な話で、要は直観だ。感覚だ、の話だ。
映画もストーリーとか技術とか、内容とかで色々いえても、それは学びというよりも、
表現がまず先に走る気がする。各表現の発達により、学びにいった・・・と考えたい。

読書はそうではなく、学びがまず先にくる気がする。
そう捉えにくい、もしくはそう考えてない人は、おそらく、本を読む=娯楽=暇つぶし程度の
認識でしかないだろう。別にケンカは売ってない。

で、読書の必要性だが、ここが難しいところだが、
別にストイックに修行ではないが、といって、読書自体は孤独な作業という認識は
多分、非常に分かりやすく、かつ、適切なたとえ・・・だと思う。
実際に、読書時間は自分と本しかないわけだから。哲学的っぽいがそうでもない。

必要性とは、学びたいかどうか、くらいでしかない。
学びに貪欲でないと、広がることはない、ということは誰も言ってないけど、
そういうように思う。

で、上目線とか本通(ほんつう、ね)の話は、
おそらく、そういう発言をする人の問題だと捉える。
要は、僕が話している本好きの人で、本通を気取る人は、皆無だ。
本通っていう感覚が恥ずかしい。要は「自分は知っている」ということなのだろうが、
そもそも前提が「自分は知らないのだ」と、ソクラテスばりの無知の知を展開してこそ、
学びというファーストステップは始まるんじゃないかと。
そのように感じている。

うーん、いいね。