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第4回レビュアーのためのワークショプ
http://reviewer-workshop.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_d7b1.html


近いうちに、レビューがあるでしょうが、ひとまず先に展開。

今回のWS(ワークショップ)で得たというか、問いがいくつかあり。
問いとしては、「演じる」とか「表現する」って言葉を、
自分に限りなく近しいもの、それは自分の肉体を構成する繊維であったり、
水や血であったりするかもしれないが、そういうものに
落としこむ必要があるのではないかということ。

例えば、「演じる」を「演る」と書いて、「やる」というのは、
ものすごく格好いいと思う。実際にそのような話はなかったが。
ここで僕が何かを書くこと=「やる」ことなのかなと、ふと感じる。

i do it.
といって、文意が通じるかは謎だが、
つまり、you can do itが意味する、doは常に変化する・・・動詞の
言い換えになるか、同時にdoはなんでもするみたいな意味に
とってもいいのだろう。多分。
そういうdoをもっと人が持っていれば、いや持っていたら、
ものすごく社会は豊かになるというか、
例えば、隣の騒音が五月蠅くて殺人事件とかは起こらないかもしれないし、
まあそんなのとは全然関係ないのかもしれないが、
起こらなさそうな気はする。

もちろん、dodoいっても、好き嫌いがなくなるわけじゃないから
世の中は難しいのだけどね。


自分が好きなところへ落としこんでいく作業を、
どういう言葉で世の人は表現しているかわからないから、
自分探しとかいってみたり、やりたいことが分からないとか
いっている人もいるかもしれない。

しかし、純粋でいいのだけど、面白いことをやる・・・という
姿勢はおそらく人を「素直」にさせる効果がある。
それは、演じることにおいて、真摯にぶつかって、
(ここには計算高い戦略があるかどうかはどうでもいいことだ)
そうやっていくのは面白い。

今回のWSでは、演じる側、つまり役者と、
観る側、つまりお客と、
作家、つまり主催者の3者の構成で、展開された。
この視点はややオーソドックスなのだが、試みとしてはあまりない。
少なくとも僕は初めてだ。
ちなみに、僕の周りで演劇を観るのが好きな人は、
実際にほとんどいないのは、補足しておこう。
それくらい「小演劇」という世界はマイナーだといえばいいのだが、
別にこれに悪意はない。メジャーはつまらんということもない。
さらに脱線すれば、本を読むということ、いや本を買って、
作家を追って読む・・・こともマイナーだという認識はある。
要は、本をコンスタントに数万部売り続けることはかなり難しい。
著者は、その本を刷って、人気があるなりしていくと、
時代が経っても刷れるから、そのメリットは大きい。
が、時代が経つとは自分の食わねばならないから、新作などが
期待される。これは「作家」という文字通り、書いて食べる人の
ことにいえるのだけど。

3者の視点は、三角形によく例えられがちだが、
これは実は幻か、もっといえば嘘のような気がしてきた。
これは問いであって、そのような場とかいうことではない。
いわゆる、役者と客は対等かどうか。
そんなことはありえない気がしてきた。
とはいえ、芝居の代金=役者の価値とも全く思えない。
といって、消費するように、代金2500円の価値があるかどうかというのは、
やや貧しい気がする。なんていうか、2500円の価値にあうかどうか、
というのは一つのものさしでいいのだけど、それだけで、
劇を見るってなんか寂しいというだけの話。

だから、役者はどこぞの方角から、舞台なり、演じることを目的として
やる場合は演じる稽古を行う。ちなみに、「稽古」って
普通に日常語で出てくることがない、意外に特殊な気がする。
訓練って言葉が近い。が、稽古と訓練は違うんだろう。
リハーサルと稽古は近そうで違うか。あ、どうでもいいな、これは。

そして客もどこぞの方角から舞台を見る。もちろん方角ってのは、
客の見る椅子の位置とかじゃなくて、立場の話です。

3者の関係についてどういうこともないのだけど、
ただ、対等ではない、ということだけが残っている。
もちろん、対等ではないから、なんだということなのだけど、
やはり、勝負というか、共通の場である、舞台で
勝負するのが「対等」なんじゃないかと思ったりする。

それは今回のWSがダメとかイイとかの話ではなく、
役者と客の関係においてだ。
僕はそういう意味で、きっちり距離をとりたい・・・人間になるかもしれない。
それは、役者に近しいほど、別の観点で芝居を見れるってのが
メリットでもあるが、それは単純に楽しめないというデメリットもある。
これらは別に芝居を観ることだけに話は限らない。
より知る、より突っ込むとは結局そういうことなのだ。
こういう気付きと再確認は、意外に多い。


場としての空気は、非常に心地よかった。
意外に「場づくり」は難しい。それは、役者も含めて
その場に参加する参加者の関係性を、「参加するまで」が
掴みづらいことが多いからだ。
簡単にいえば、場は作るのではなく、できるものだという
考えがある人は、場を作ることは出来ないだろう。
ここでいう「できる」とは、勝手にできるみたいな考え方。
それは一理あるが、やや弱い。ある程度コントロールするというのが
ある。しかし、コントロールとは、場をコントロールするということではなく、
場を作るのにどこまでコントロールするかを考えていくことでしかない。


レビューという表現手法を入れた人々でもいいし、
ブロガーでもいい。そういう人々がどこに着地するのかは
ものすごく興味がある。僕もまたその一人かもしれないが、
少なくとも文章で人を動かすということは
僕の頭の中にない。文章は2つしかないと考えるからだ。
それは、面白いか面白くないか(笑)


人には必ずその人の固有の面白さがある。
それが分かればその人の魅力だと思うだけだ。
それが分からなければその人の魅力に気付かないだけだ。

芝居を観ていると、「お話」がいくつもあって、
非常にありきたりな話でも、そうじゃなくても、
一つの話、物語パターンとして、現実とは違っていても、
現実の人間が書いているのだから、現実へ還元できる
落としどころを考えてしまう。
それは、非常に社会批判とかそういうことが好きというよりも、
非現実な話でのリアルと現実な話のリアルとでは、
結局リアルさを表現する上では、どちらも手法としてはありで、
別に現実の話をしたら現実っぽい、つまりリアルさが増すかというと
そうでもないところに奥深さがある。

貪欲に、観て、書いて、時には歌い、詩を書き、
また時には踊り、演じ、時には、語り、時には企画し、
豊かに自身を構成していくこと。

その学びは、きっとどこかではなく、今ここにある。