社会再構築から世界再構築と変化。
まるで、チェ・ゲバラみたいだ。(違

「天才プログラマ」になりたかったら
「天才プログラマ」だと思えばいい。
それで問題(天才プログラマではない)は解決する。

で、次にすぐに問題が発生する。
「ただ天才だと思っているだけだろう?」と、
おそらく人に言われるからだ。
しかし、上の「天才プログラマ」という認識を
自分の中で秘めていて、口にしなければ済むことだ。事実。

しかし、人はなかなか「謙虚」ではない。
だから、「天才プログラマ」だと思ったら、
「天才プログラマ」だと思うとか、言ってしまうのだろう。
そうじゃなきゃ、上のようなシチュエーションは僕の頭に出てこない(笑)

分かった分かったよ。
「天才プログラマ」だと思っていることを人にいって・・・
じゃあ、その問題は?

そう、問題は、「天才」だと「人」(自分ではない)が
思うくらいの天才っぷりかということだ。

結局、どんなことになろうが、人が「天才」と思うかどうかだ。

実際に天才とは、
「ふっとんでいる」感満載だ。
それは、「通常」というレールに乗っていてはアウト。
もちろん、裸で、外を歩けということではないので、注意。
それが分かれば、後は「他の人がやらなさそうな」ことで、
自分がやりこめるところを追求すれば、
ほとんどの人は「天才」になれるような気がする。

ただ、天才は「多い」と「経済的」(これは人が天才だねという
認知も含む)に価値がない。
少ない方がいい。

例えば、天才だといって挙げることの名前のリストを
削っていけば、天才は相対的に価値が高まる。

この考えは、あらゆるノーベル賞とかに対して
アンチ的に聞こえると思うが、別にあまり深い意味はない(笑)


で、本題。

世界を再構築するのも、社会を再構築するのも、事実上不可能。
それは、自身の脳内のインプット、観察事項の話でしかない。
しかし、人はそのような生き物だ。
例えば、人が壁一枚向こうで死んでいても、分からないものだ。
その壁がなくなるか、もしくは壁をこえて観ない限りは。

そのような生き物が、住んでいる。
これは人間否定ではない。むしろ、肯定だ。

例えば、分かりやすい例をあげると
「ありがとう」といわなきゃ、感謝の思いは伝わらないとかってのは、
結構あることだ。「ありがとう」といわずにありがとうを伝えるためには、
「踊る」「ジャンプする」「逃げる」などがあるが(土屋賢二風)
それをやって変態扱いされても僕は知らない。

構築された社会で、人は生きていく。
もちろん、これから新しい国が作られる。
新しい社会が創られる。新しい集まりが創られる。

そういうところへは、どんどん足をつっこんでいって、
どんどんかき回して、ヘトヘトになったほうがいいなと。

自戒をこめて、思ったりしない。

えーするんじゃないのかよ!