自分の想いを言葉にのせて
届ける

それってものすごく 幸せなことなんじゃないかと
そのようなことを 綾香が歌っているのだけど

そのとーりじゃないかと。

で、それはいいとして、
じゃあ、そういうのって「いつ」できるようになるかというと、
明確な境界というか判定値が出てこない。

ほら、定性か定量かって二者択一か両方か、みたいな、
いやいや、質と量=全ての属性みたいなのは
実際にあるんだけど、ほんとうにそうか?っていったら、
結構弱いような。

40歳くらいで何かもう上限といいますか、
下限みたいなものもみえてきて、
こうやって生きていこうってなって、それで終わりなのも、
一興だけど、自分としてはそういうのは選択しない。
たとえそうなっても、必ず挑戦という自分の中で使う言葉を
さび付かせることはない。ただ、それだけだ。

想いを届けていく、というのは、
実際に何かしらの反応があるだとか、そういうことがないと
ダメかというと、そうでもないだろう。
また、そうであっても、一体それがなんだというのだと
いうこともできる。

結局、姿勢の問題にしかならい。精神論ではなく。
例えば、何でも疑いたい姿勢の人は、どうあっても疑う。
これは素直じゃないというのに限りなく近いが、まあそうだろう。
逆に何でも受け入れる人は何でも受け入れるだろう。
それも逆にいえば批判はできる。

どう転んでも批判される。どう転んでも評価される。
そういう前提条件が「姿勢」だと思ったりする。

だから、結局自分というところに戻ってくるのじゃないか。
だからデカルトは考える自分はその存在を疑いようがない、みたいな
ことをいったんじゃないか、と思うわけですね。

色々問題がおきたら、トカゲの尻尾きりみたいにするのもいいけど、
それって結局、再生が前提なわけで。

どん底にいたら、再生とかそういうことじゃなくて、
尻尾きりを本当にし続けて、最後は死ぬような気がする。
死ぬってのは、強制的に死ぬのだから、殺されるってことだから、
死ぬっていう言い方はおかしいのだけど。