チャリダーがまた再演。本当は、再熱とかかくかもしれんが、
こういうダジャレ風なものに懲りだすと何かトラウマティック(笑)な
ことを思い出すので、ここでストップ。

走れ走れ。チャリを走れ。(ちなみに、チャリは、TYARIです。CHARIとかは論外(えぇ

マキバオーじゃないですけど、やっぱ走らなければいかんのです。
そして、その足で、僕が見つけた自由空間と、
制限空間という二つの矛盾は、同一のチャリ上での
思索というものでしかなかった。

解説すると(しなくていいけど)
一人のチャリダー(自転車に乗る人、そこから旅人化する人風)が
自転車のサドルにまたがって、ペダルを漕ぎ出すとき、
そこに、チャリにのっているという「制限」が発生する。
自転車に乗らなければ制限はないのだ。歩きでも、車でも。
しかし、そのチャリに乗ることで、風を感じる自由、
思想する自由、ペダルを漕ぐところまでいける自由、
という多くの自由を得る。

制約があると自由がある、のではなく、
制限の中で、創造性が働くという条件で、自由というものが生成される。

これを間違えると、
制限のみ与えればいいとか、制限さえすれば、勝手になんとか
工夫するとか(一理あるが、これで潰れることは普通にある)、
そうではないのだ。

制限というフィールドを明確にどこからどこまでと、
言った方がいい人間と、そうではない人間が大体いる。明確に分かれるわけじゃあない。
明確の人に不明確はストレスで、不明確ちゃんは明確君がストレスなの。

ある程度社会ってフィールド、とくに労働ってところで、
契約とか約束とかは、守るってことが、「お互いの利益」という
ゲーム理論風(ではないっぽいけど)に考えると、
そういうふうにルール作っていくことに収束していく。
(憲法9条が、そういうルールかどうかは不明だが。関係ない)

チャリの自由を知ったものは、味をしめたものは、
きっとチャリに乗らなくても、その自由の味を知っている。

だから、その自由が得られないところにちょっとした、
苛立ちのようなものを感じてしまうかもしれない(あ、なんかこれ
春樹風かもしれん。多分違うけど)

自由と書いてるけど、もちろん制限あってから自由がくるイメージだ。

で、問題は、その味はチャリ以外で得られるかどうか、
または制約と自由はどこまでチャリ以外で成立しているか、なんだけど、
どうやら、意外にそういう、制限があって自由があるって、
のはなくて、むしろ、制限がない=自由みたいな考えが
有力な気がする。そんなことはないのにね。

チャリで走る、漕ぐ、諦める、休む、食べるという
基本動作を学んだものは、何事も粘り強く、やっていけるのだろうと
これは「チャリダー」の賛美ではなく、自分のことを
客観視しているだけだ。

だから、チャリで旅する人間は・・・芯が強いと
総じて、今まで会ったチャリダーもそうだと思うが、
そういえる。

だから、チャリはオススメ。
多分、「普通」に「自転車」に「乗る」という感覚ではない、
何かがあるわけで。

まあ、これ単に好きなんだけどって話で終わりそうカモカモ。