友人からのメールで。

サメは動き続けないと死んでしまう・・・のは
正確かどうかは分からないが、どうもそんな雰囲気。
エラが未発達なので、口を半開きで開けて、口のなかから
エラにぶちこんで、酸素くれくれってやって呼吸する。
らしい。

あと、浮き袋がないので、動かんと沈んでいく。
らしい。

だから、サメは動き続けるーっていうのが定説っぽいです。
まあまあ、それはいいとして、サメの比喩がぐっときました。

僕は動き続けないと死ぬみたいな、そんな「アグレッシブ」な
野郎ではないと思っていたのですが、
どうもそうでもないようですね、多分。
実際にそういう面があるのは事実。

例えば、刺激を10欲しいとしたら、今6しかないぞっていうなら、
なんとか残り4を補充しようとします。
で、その補充体勢といいますか、モードは、
別に自分がへこんでいたり、やばいとか、ピンチとか、
そういう時でも、結構やっているようです。

つまり、
「どんな状況下でも、動き続ける」
ということが、
友人から「サメは泳ぎ続けないと死んじゃうのだ」
という言葉を引き出した・・・といえるでしょう。

なんかカッコイイ。
働きマンはそんな雰囲気ありますね。まあ人によって違いますけど。


だからといって、それを人に強要するってのは、
かなりシンドイですし、自分が、あと人にも辛いでしょう。
ということを最近思ったりします。
ちなみに、ここに「有能感」はおそらく1mmしかありません。
実感として、僕は自分が「優れている」という感覚よりも、
ちょっと「踏ん張っているだけ」かなという感覚が勝っています。

あと、松井と比較したら殺されそうですが、
僕も松井と同じく、天才肌とか天才ってタイプじゃないです。
冗談で「天才」とはいいますが、絶対冗談です。

本気で天才と思っている、思い込んでいるタイプの人間は、
「天才だがまだ見えてこない」か「ただの勘違い」しか
ないと思います。僕は今までそういう意味で「天才」といっていて、
「まだ見えてこない」タイプには出会ったことはありません(笑)

だから、「努力」するのだといいたいということも
あまりないですね。
というよりも、コミュニケーションというところで、
お互いに高め合える人ってのが大分見えてきました。

いくつか分かっているレベルでまとめると、
1.年齢は関係ない
まず、よくある年齢についてですが、そりゃ、4歳と40歳だったら、
「高めあう」ってことはなんか話として成り立ちにくいとは
思いますが、子と祖父とかなら普通にありそうです。
まあ、高めるって何をって話もあるのですけどね。
ただ、僕が思うのは、「考え方」を取り込める人とか、
消化しやすい、消化できる人(それが全部じゃなくてもいい)なら
年齢は関係なく、高めあえるんじゃないかと思います。

2.連絡頻度は心理的なものでしかない
例えば100人の知り合いがいて、5人くらいとよく密に連絡を取ると。
その場合のその5人が連絡頻度が高いことになりますね。
でも、実際には、常に5人と取り続けられるかというと、
おそらく誰かと疎遠になったり、逆に新たな出会いで親しくなることも
あるかと思います。
その場合に、じゃあ前の5人とか、前の連絡頻度高かった人は
どうなるかというと、確かに連絡頻度は低くなって、
疎遠になるけれど、おそらく、1でいっているような、
考え方とかが大きく変わらなければ、あまり関係がないとすら思います。

もちろん、そういう疎遠を気にする人とか、
うまく考え方とかを消化できないとか、興味がもう全くないとか、
そういうのだとダメですけど、
常に連絡を取り続けてなんて、まあ気の遠くなるような話です。

だから、例えばブログを使って近況を見てくれとかいうとか。
でも、これでも見たい人は見る、見ない人は疎遠だとかで、
見ない人もいるんじゃないかと。

そういう意味でいえば、連絡できるときは、コンタクトをとって
いけばいいんでしょうけど、そうじゃない場合、つまり
疎遠になったときに、相手に印象付けが出来ているかが
問われるような気がしまう。

ほら、健康が病気になるとそのありがたさが分かるっていうように、
そういうのってありますよね。

3.関係が大分はっきりしていること
これはかなり重要ですが、実際には「良く分からない」ということが
結構あります。で、さらに「よくわからない」というのを、
どこまで「キープ」できるかが鍵のような気もします。
要は、言葉で何か説明することは意外にできるのですけど、
それだけではほとんど「人は動かない」のがほとんどです。
つまり、行動とか、表情とか、精神的なこととか、言葉って
そういう意味で、それらがなかったら「宙ぶらりん」なんですね。
あれば、どんな稚拙といえるような言葉、でも「きらり」と光る
ものになりますけどね。

関係というのは、関わり方とか役割とか、立場とか、
どういうことで一致しているのか、違うところがあるのか、
とかそういうことです。

中学生くらいで、遊ぶ友達と、学校から帰る友達と、
部活友達と、教室友達みたいな風に、若干分かれるというか、
常に「友達」と一緒みたいなのがなくなったというのが
僕にはあったんですけど、そういうのに似ているかも。

つまり、切り分けですね。
これを「何でも話せるの友達じゃないのか」みたいな
話になりそうですけど、なんかそれは安すぎる友達というか、
まあ語り合えるのはいいですけど、微妙に違いますね。

実際に自分の1つの面で、色々な人と関われることは、
ほぼないかと。自分のいくつかの面を、いくつかの面ずつ、
つまり、3面あれば、1面ずつだから、自乗ってことですね。3の2乗とか。

でも、その発展展開したところから、圧縮したり戻ってこれば、
自分になる。

だから、自分がぶれない。という意味で、
末端というと響きが悪いですが、ポイントポイントで、
アバウトでもいいけど、何か決めている役割なり、何かがあるって
そういうのが大事ですよね。

4.相手を考慮できること
これ前提みたいな話ですが、若干違っていて、
自分が相手を考慮したいかみたいなことです。
要は好き嫌いになるんですけど、でも、そこまで極端じゃない。
何かこの人のためにしてあげる、してもいいという思いって、
絶対にあります。逆にそうじゃない人もいる。
だから、相手を考えられるかみたいなのは意外にでかいところです。
そうじゃないと、自分自分で全く面白くないです。

こちらが高まっても相手が高まらんと、やっぱダメだと。
僕は一人で生きたいってわけじゃないんですね。

5.悪いところなどを言える
これは、「言い方」が下手な人なら、そういったほうがいいという
結構単純なこともあります。
そういうので誤解を招くってことはありますし。
相手の悪いところを発見して、「お前これはダメだよ」なんて
いったら、そりゃ言い方と相手の信頼によりますが、
僕は嫌ですね。

別に「あんたにダメダシを求めているわけじゃない」って話になる。
もちろんそれを望んだら、そうなるのですが。

だから、逆に
誰かにダメなところをいってくれ、というのは、
自己分析とかじゃなくて、相手を信頼していないと
できないんですね。それの証明ですね。

悪いところというか、批判とかも同じですね。
ただ悪いところをいう、批判するって思ったことをいうだけなんで、
誰でもできるんですけど、それってじゃあなんで?
そうういことですね。人が対象となるなら、
その考慮は必要。相手のことを思うみたいなのがないと、
ただの非難とかにしかならない。


6.コミュニケーションの上手さは関係ない
さらに思うのは、コミュニケートが上手くできないと
高められないってのがあるんですけど、これは一理あります。
でも、一理でしかない。
要は、相手がお互いにそういう「高めあう」関係を
望んでいるかという「だけ」になりそうです。

人前で話すのが好きな人もいるけど、
そうじゃない人もいる。
また、言葉が色々出てくる人もいればそうじゃない人もいる。
表現が豊かな人もいれば、そうじゃない人もいる。

話が面白い人もいればそうじゃない人もいる。
あ、これはダメかもしれないですが(笑)

言葉にしてしまうと色々なものが吹っ飛んでしまうんですけど、
コミュニケーションの上手さって、その人と向かい合えるかで
それがうまく出来ない人(ここでは対象という意味)も
やっぱり一杯いるわけです。

そこで諦めるかどうかみたいなのって常にあって、
それは理屈じゃないんですね。
そういう理屈じゃないところが大事だなあと。
理屈も大事な場面もありますけど。


以上ざっざと書いてみました。
高めあえるってのは、もうこれ色々な人に適用できます。
恋愛でも仕事でも、その人の価値観がもろに出てくると思うので、
そういう色々な人と会ったとき、または今までに知り合った人などで
一つの視点として考えることができるかもしれませんねー。

というわけで、僕は泳ぎ続けますよん。