肩がかるうううううく触っただけで大激怒。
全くそんなお方とは一緒にいたくないものだ。

ま、それはいいとして。

役不足ではなく、力不足を疑う。
それは自身についてへの問いとしてだ。
「本当にお前はやってるか?」
という問いが突き刺さる。

そしてその問いは、
「目の前の仕事」「目の前の仕事ではないもの」
は軽くスルーされている。

そしてもっと先の、でもぎりぎり見えそうな、
決して夢想ではないものに対しての問いとなる。

空転する。
全く駄目ではなく、全く無駄である。

本質的に、かすっていない。
全て抜本的に、間違っているといっていい。
そんなものはない?っていうかもしれない。
それは最もで、逆にもっともすぎて、最もつまらない意見で、
そしてかすったとしても、「現状維持」でしかない。

そういう意味で、無駄な意見。それは「そんなものはないんじゃない」という
一種のなぐさめ・・・に集約される言葉たち。

怒れ怒れ。

僕は自分に怒れといってるくらい、
なんでもないようなことが後から怒りに転化しているくらい、
怒ることは損だと思っている。

が、正直なところ、怒るくらいなら、
別のところを探した方がいいと思う。
そう、僕は一方で、主君という住みかを探し、
他方で、自分が主君になろうとしているのだ。

だから、一方では怒り、他方では笑うか、諦めている。

自分の限界を知りたいという「精神改造論」みたいなことは
思わない。
ただ「常に」、いや、感覚として、
「俺はこんな程度だったか」という問いが出てくる。

この問いは、誰かに言われるわけがない。
全て自分だ。

自分の中で発生してくる。
「お前はそんなのだったか」

そしてその傲慢といわせない力が、お前にはあるか。

結局そこだ。
もちろん、傲慢なわけがない。傲慢でありたいとは思わないし、
傲慢だったら、今のようにやっていられないからだ。

誰がよりよく知っているのだろう。
誰がよりよく生きているのだろう。

そんなことは全て関係ない。
自分がどう思うか。自分が何を感じるかだ。

そこで勝負するしかないし、そういう意味では、
全てかすりもしていない。


コーヒー屋でくそばあさんに、順番を抜かされた。
順番を抜かすという罪悪感が、いやこちらが悪いと思ってしまうくらいの
抜きっぷりだった。

そんなばあさん、年金暮らしでアイスコーヒーかよ。
このやろう、あんたのために、俺は年金納めてんじゃねーぞ。
かっこいい紳士と淑女のためにやってんだぞ。
くそったれ!

全てがくそったれでしたとさ。