のではない。
幸せとか、満足感とかというのは、
あと、夢とかも、遠くにあると思っていたりしやすいが、
実は目の前の、むしろ、「やあ」というくらいの距離に
あるような気がする。まさに青い鳥。
書いてないと思うけど、
映画「ザ・ビーチ」は、理想の楽園の維持のために、
結局「大麻」を売るとか、何かしてお金をえて、
農作物を作っていたかは不明で、米を買うというシーンはあったし、
それで生計をたてていた。
そういうところで、サメにくわれた人が、
一人はすぐに死んで、もう一人はなかなか死なない。
なかなか死なないというのは、その楽園に住む多くの若者の
心理をそう映像が言っているからだ。
彼は満足な治療も受けられないまま(医者は当然楽園にはいない)、
テントの中に放置される・・・。
非常にセンセーショナルだが、「いじめ」というのは
例えばそういうものかなとか、ふっと浮かぶ。
問題は、足を負傷した彼が、楽園のボスに
「島の場所は言うな、だから治療で村にいってもいいが、
その場合はもう戻れない。
つまり、楽園にいたいなら、このまま治療せずにいろ」ということを
言われ、彼は楽園を選んだ。
傷のこともあり、船に乗せて街へは出れないというのもあるだろう。
しかし、彼が悪いというのではなく、彼は「楽園」を選んだのだ。
美しいビーチでの生活を。
これをみていて思うのは、そもそも僕の考える刺激的な毎日とは、
日々同じことをしているというわけではない。
楽園と呼ばれようが同じようなことを(彼らはビーチで色々な遊びをしているが、当然同じメンバーなので、好き嫌いもあるわけだ。人間だから)していて、単に別の生活デザインをしているようにしかみえない。
という意味で羨ましいと思うことはない。むしろ、そう映像は裏でいわせたいとすら思ったのだが。
この映画は結局、何人か死ぬが、ほとんどのものは帰る。
それは、楽園という幻想(実際には大麻畑を管理する地元民に管理されているから)を知った若者の選択だったのだろう。
しかも、運がいいのは、そういう幻想を知ったときは、
大抵はやり直しがきかないことが多いのだと思うが、
一応はやり直しがきくだろう。
で、理想とか幸せとかは、多分、現状維持とか、生活にあるとか、
そういう哲学っぽいことではなく、
多分、どれだけ感じられるかの総和みたいなものでしかないかなと感じる。
質もあるけど量もあり。
自分はこういうことがあって、こういうことを感じたって、
人に話せたり笑えたりする。多分そういうのが「幸せ」であるというか、
なんかそんな気がしてくる。
そこには、時間がなくて何かしたいことができないという人生とか、
生き方とか考え方とかと、一線を画しているようにすらおもえる。
やることがあるのに時間がないというのは論理的にきこえるが、
ある種詭弁でもある。時間があるなら、やりたいことがやれるという
ことになりそうだからなのだが、実際にそうはならないのが常だ。
だから、ないなりにやるみたいな姿勢にならないと、ダメなんだろうと。
なんかふっと思う。
いつまでも先延ばしに出来ることがあるなら、
それはきっと「一生やらない」ことなんだろうとかも面白い考えだ。
幸せとか、満足感とかというのは、
あと、夢とかも、遠くにあると思っていたりしやすいが、
実は目の前の、むしろ、「やあ」というくらいの距離に
あるような気がする。まさに青い鳥。
書いてないと思うけど、
映画「ザ・ビーチ」は、理想の楽園の維持のために、
結局「大麻」を売るとか、何かしてお金をえて、
農作物を作っていたかは不明で、米を買うというシーンはあったし、
それで生計をたてていた。
そういうところで、サメにくわれた人が、
一人はすぐに死んで、もう一人はなかなか死なない。
なかなか死なないというのは、その楽園に住む多くの若者の
心理をそう映像が言っているからだ。
彼は満足な治療も受けられないまま(医者は当然楽園にはいない)、
テントの中に放置される・・・。
非常にセンセーショナルだが、「いじめ」というのは
例えばそういうものかなとか、ふっと浮かぶ。
問題は、足を負傷した彼が、楽園のボスに
「島の場所は言うな、だから治療で村にいってもいいが、
その場合はもう戻れない。
つまり、楽園にいたいなら、このまま治療せずにいろ」ということを
言われ、彼は楽園を選んだ。
傷のこともあり、船に乗せて街へは出れないというのもあるだろう。
しかし、彼が悪いというのではなく、彼は「楽園」を選んだのだ。
美しいビーチでの生活を。
これをみていて思うのは、そもそも僕の考える刺激的な毎日とは、
日々同じことをしているというわけではない。
楽園と呼ばれようが同じようなことを(彼らはビーチで色々な遊びをしているが、当然同じメンバーなので、好き嫌いもあるわけだ。人間だから)していて、単に別の生活デザインをしているようにしかみえない。
という意味で羨ましいと思うことはない。むしろ、そう映像は裏でいわせたいとすら思ったのだが。
この映画は結局、何人か死ぬが、ほとんどのものは帰る。
それは、楽園という幻想(実際には大麻畑を管理する地元民に管理されているから)を知った若者の選択だったのだろう。
しかも、運がいいのは、そういう幻想を知ったときは、
大抵はやり直しがきかないことが多いのだと思うが、
一応はやり直しがきくだろう。
で、理想とか幸せとかは、多分、現状維持とか、生活にあるとか、
そういう哲学っぽいことではなく、
多分、どれだけ感じられるかの総和みたいなものでしかないかなと感じる。
質もあるけど量もあり。
自分はこういうことがあって、こういうことを感じたって、
人に話せたり笑えたりする。多分そういうのが「幸せ」であるというか、
なんかそんな気がしてくる。
そこには、時間がなくて何かしたいことができないという人生とか、
生き方とか考え方とかと、一線を画しているようにすらおもえる。
やることがあるのに時間がないというのは論理的にきこえるが、
ある種詭弁でもある。時間があるなら、やりたいことがやれるという
ことになりそうだからなのだが、実際にそうはならないのが常だ。
だから、ないなりにやるみたいな姿勢にならないと、ダメなんだろうと。
なんかふっと思う。
いつまでも先延ばしに出来ることがあるなら、
それはきっと「一生やらない」ことなんだろうとかも面白い考えだ。