H2Oではない。まあ時代が違うのだが。許せ、先達よ(笑)

今、はまっているというか、読書の楽しみで、
読みながら飲み物のんでリラックスして
ページをぱらぱらやって、眠いときに「口をあけて」がーがーがーと
寝る(がーがーがーは擬態語であり、イビキなどの擬音語ではないの注意!)のが最高にいい。

クソ暑いので、5分歩くごとに、喫茶店に入らねば
体が持たない。熱中症で死ぬ人が出てくるのは分かる。
それくらいの暑さだからこそ、寝て汗をかいてシャワーを浴びて
ということをすると、なんか幸せを感じる。ああ、安い幸せ万歳。

友人の悩みではないが、考えとか、まあ話し合える人々はいい方で、
話し合えないというか、自分のコミュニケーションのなさを疑え!であるが、
皆色々考えてるのだなあと思ってしまう。
抽象化すればすごく楽になるのにというが、
男はこの考え方分かるかなと思ったりするが、
女性はどうも苦手らしい。あ、ジェンダーだ。わーい♪

具体例の連続は抽象に近づくと個人的に思うが、
別にそうではなくても、そうならば、美術運動であった「具体」だっけ?
の理解をしろよとか、叫びたくなる。多分、僕の言いたいことの
真なるものは、上っ面はどうでもいいよということなのだけど。

抽象的なものが上っ面だって?
そりゃその物言いが上っ面だよ、明智君。
そもそも、抽象なんぞ、具体の経験がなくして出てこないのだよ。
あ、これ帰結でしたっけ。演繹でしたっけ。いつも忘れるわ。

ある種の持論、ナンデモいいのだけど、そういうのがあると、
まあ「自分哲学」ってやつですか、すごく楽なんだろうなと。
楽というのは、迷いにくい。
迷路に入って、地図があるかないかの違い。
それか、「すいません。出口どこですか?」って聞けるか聞けないかの違い。

自分にはそれがあると思っている。自分哲学が。
それは人に語って「へへん。いいだろう」というようなレベルでも、
というか、そういう意図はない。が、このブログの狙いはそれでもある。
きっと、参考になれば、参考にできるところをすればいいとすら
思っているのはここでは棚においておこう。

それがない世界を創造してみる。
一体どっちをどう転んでどうすればいいのだ。
これって結局、「経験不足」でしかなくて、経験不足は、
経験によってしか解消できない。
まるで、仕事の意味は仕事をすることでしか分からない的な、
自己目的化っぽいものがある。あ、この自己目的化、悪い意味で言ってないので。

で、話は変わる。
本を読んでいると、昔のことを思い出すことがある。
で、自分のやさしさの原点ではないかもしれないが、
(ちなみに、僕の性格がやさしいのではなく、やさしいという部分があったら、
それの話であって、僕はやさしい人間ですよというPRでは決してない!はず)
不条理というか、まあ「因縁」でもないが、「言いがかり」で
脅されるという経験があった。詳しくは書かないし、書くつもりもないが、
結局、僕だけじゃないだろうが、なんかそういう経験が、
人を傷つけない方向に持っていくのだろうと思ったりする。

一緒にするとダメなんだろうけど、被爆者は原爆に対しては絶対に反対だろう。
原爆OKなんていうと、逆に人間性を疑われる。
ちなみに、被爆者が原爆に対して何かいうことを疎んじる人も
必ずいると思う。これは、マイノリティーの矛盾という点で、非常に面白いが、別に笑う話じゃない。人間の深さでもあるが、単なる難しさでしかないかもしれない。

僕は、人を傷つけることが絶対にダメだとは言わない。
戸塚ヨットスクールなどの、ちょっと派手なことをしている学校があって、
ちなみに、これは皮肉である、そうやって子どもの養育、育てることに、
何かあきらめ、もしくは自分ではどうにもならないと感じて、
学校に任せる親の心理が分からなくもない。
が、それはどこまで理解できるかというと、やはり分からない。

分からないという感覚を今まで非常に「遠く」においてきて、
むしろこれは逆に「分かる」という感覚をも同時においてきたの結果でしかないのだが、分からないものは分からないのだ。たとえ何といわれようが。

人を傷つけることがダメだとは絶対に言わないのは、
いくつかのレアケースがあるからだ。
それは相手を引き止めたいときに、相手の腕を思いっきり引っ張るとか(笑)
酔っ払いがうざったいから、ビンタをかますときなどとであるが、
まあ、それは冗談として、
傷つけるのにも、物理的か精神的かがある。

物理的にも、精神的にも、人を傷つけることに対して
非常に僕は敏感だったと思う。そして、それを誇張、いや強調する、
いや違うな、それを感度よく感じてしまう人は、僕に対して「繊細だ」と
表現したのだと思う。繊細とは弱い心ではなく、タフさがないという意味であるが、逆にいうと、細かやな、女性らしいといっても言いすぎではない、
そういう意味合いだろう。やさしさにもいくつか種類があるように、
気遣い的なものと、間接的な遠まわしなものでは全然感じるものが違ってくるだろう。

敏感だったからこそ、僕はその敏感さゆえに、自分を保護というか、
護っていたような気がする。逆に、僕に対して理解を求める人が、
いや、僕を理解しようとする人がシンジラレナイという気持ちがあった。
でも、それはある種の偏屈でしかなく、受け入れているようで、非常に受け入れてないという感じが、今ではする。
多分、これは僕が僕でしか分からないお話だろう。そして、僕の言葉が
僕と対話するだけのものでしかないだろう。

救いがないとか、あるとかそういう話ではない。
僕は人を傷つけている感じはしないが、人によっては傷つき、
ある人は逆に笑うのだが、そういう人々(これはそのままの意味)と付き合うことで、僕自身は、僕自身しか土台でしかないし、ベースでしかないし、
もっといえば、アイデンティティー(久しぶりに、アイデンテテ以外で記述してみた)は僕だとか、自分軸は自分だという、堂々巡りみたいなことを
言ってしまえる。もしくは断言できるようになってきた。

それは、孤高の旅人でも、フレンドリーなお兄さんでもなく、
自分という人間の存在を、この社会において、認めるという作業でしかない。
もっと簡単にいうと「俺ここにいるから4649!」というやつだ。


昔と何も変わっていないと思う。
僕は昔から「やさしく」、人には気を使うし、
逆にうざったい人間には、本当にうざったいように接するし、
最低限のマナーとか、紳士みたいなのをぶっこわして、
非常に失礼に何かするというのも非常に自分の好きなところだから、
話さない人には話さないというのが、たまに人は怒るらしい。

馬鹿である。自分ではない。それで怒る人間が、である。
自分も全く立場が変わればそのように思う。
自分という人間の魅力のなさをまず嘆け。
それから話をしようじゃないか。まあ、普通は嘆かないから話はできないのだが。

自分がすごいと思っている人間が嫌いだ。
という自分はどうかというと、どちらかというすごいと思っていて、
自己達成感と自己肯定感は軽く150%はどんなにへこんでも振り切っている。
それは開き直りであるかもしれないが、全て「小さき」ことになるからだ。
そういうと、じゃあお前にはどんな野望があるのかという声が聞こえてきそうだが、例えば、目の前のゴミを拾うことって、結構でかいような、
隣の人を愛せよだと、キリストになってしまうが、隣の何も知らない人に、穏やかに、うまく接するとかそういう方が「大きい」。

なんていうんだろう、自分がデカイ価値だと思っていることは
別に他人のそれではないってことは大いにあるということは、
結局、ある種のPRをしても、別に「大した」ものじゃないと
消化されてしまう。メディアの露出により、消費される、それと似ている。
メディアをみて人は「知った」ふりをする。
何を知ったというのだ。知ったかぶりめ、くそったれである。

反面教師という言葉が踊った時期があった。
これは結局、人には悪いところがあるとかではなく、
悪い面があったらそれはまねするなボケということであって、
結局、そうやって学べば、「自分が悪い」という価値に、「悩まされる」ことはない。なぜなら、自分はそれを真似しない。つまり、そこを学ぶことはないからだ。

受け入れるという言葉が踊ったこともある。
僕は自分を受け入れているから、他人に要求するものも、
相当でかいのかもしれないな、とまるで自分がエライ人間になったかのような
錯覚に陥ることもある。まあ、結局大したことはないのが世の常なり。
受け入れ演技なんてものもあるかもしれない。

相反する二つの概念がスキなことに気づいた。
クールな情熱とか、冷たい優しさとか、さりげない怒りとか、
うっとうしい親切とか。なんかそんな感じなもの。
僕は一方では満足できないらしい。
どちらも必要だ。そこはバランスだ、とは思うが。


また、僕は嫌なことというのを、絶対覚えておこうと思っている。
つまり、僕がある種小説に、いや事実としてある話で、
「虐待」とか「不幸な事故を起こした」とか、そういうところで、
環境が厳しい、(これは風当たりが厳しいとか、経済的に厳しいとかも含む)ならば、それを忘れることはないだろう。
実際に僕はそんな「厳しい環境」では育ってないことは明記しておく。

むしろ、外での接触である全ての「嫌なアーカイブ」があって、
それを全部覚えてる。忘れていることはあるが、全て思いだせるんだろう。きっと。
それが、僕の好きであり、やさしさの原点になるだろう。
なんであの人はそんなに嫌な人だったんだろうと。
なんであんな言葉を吐くのだろうと。
脳みそが足りないというか、人間的に全然ダメだとか、
話にならない、味噌汁で、しかも赤味噌オンリーでよろしく、顔を洗う必要があるとか、
価値観の対立とか、かっこつけんじゃねえ、そもそも、価値すら提示できてないではないかねとか、
なんて人は愚かなんだろう。自分が正しいと思っている、
(これは説明を加えると、自分が正しいを思っていることを自分でやるのはいいが、それを他人に言い出すと話はおかしくなる。ちなみに、教育とは
そのようなおかしさの連鎖というと、多分教育者は怒る(笑)
洗脳というのも同じことがいえそうだ。
で、僕が言いたいのは、馬鹿宗教は同じことを絶対言っているということ。
で、誤解ないようにいえば、教育は必要ですからね)とか。

そのたびに僕は、うわーこんな人になりたくない、
こんなやつになったら「終わり」だなとか、
そう思ったもので、それが核としてあるようだ。

もちろん、これらは「ただ嫌な記憶」を覚えているだけではなく、
自分にプラスにするために、消化し終えたから言えるし、核となっていることは付加しておこう。
ただ嫌な記憶を持っているのでは、単に忘れられないトラウマであるとか、
ひどいと病気になるし、そういうものではない。


懐かしい、感情で一杯になる。
同時に、また僕の現在位置もここにこうやって記しておこうと思う。