とりあえず観てこい!
知ることは罪なのか。
知らないことは罪なのか。
いわゆる「二次差別」というのは「差別」の連鎖を生むもので、
あるわけで。映像では、伝染るからアッチイケというものですな。
また、被爆者だと語ること、言うことで得なことは
何もないという現実。最もですね。国が手当て出してくれるのは、
運動した結果・・・であり、その前に人が死んでいく。
水俣病と一緒にするのはあれですが、似た感じでしょう。
こういった問題は。
丁寧に捉えれば、結局、被爆者のカタリは、
誰に届いて、どう響けばいいか。
何も知らないのが幸せというのが、例えばあるわけです。
それは、被爆者は被爆したいから被爆したわけ・・・では
決してないわけです。むしろ、そんなことせずに生きて生きたい。
当たり前ですね。
被爆者の中にも色々いるはずですが、
例えば、口を閉ざし何も言わない人は多いかなと思ってます。
おそらく事実でしょうが、戦勝国であるアメリカ(アメリカが勝った戦争が、60年前にあったんですよ)は、被爆地の写真など映像もでしょうが、
25年間公表禁止にしたそうです。
ちなみに、DAYSという写真展で見た、記者の写真の前書きにも
同じようなことがかかれてました。
戦勝国からすれば、それを公表していいことはないからですね。
当たり前といえば当たり前ですが。
ただ処分というか、そういう動きもあったかもしれません。
ここらへんは注意すべきです。アメリカは別にアメリカンドリームな
国(アメリカンドリームもそもそも疑うべきですが)ではないですね。
おっと、アメリカはいいところあります。学ぶべきことは多い。
でも、それは棚上げでしょう。
ただ、この映像のいいところ、注目すべきは、
原爆を直接触った技術者が映像でインタビューしていることです。
この対比は、今まで見たことがないので、新鮮でした。
アメリカの技術者は、言われるまでやったというのが主張です。
これも当たり前ですね。
被爆者として、あの「はだしのゲン」の著者の人もでてきますが、
原爆が落ちた、人が死にまくっている、うらむもなにも、
どう生きていくかで必死だった。そもそも家族が死んでいることが
普通なわけですからね。
冒頭は、1945年8月6日って何があったか知っているという
軽いインタビューから始まります。
彼ら、おそらく20以下の若者ですが、が知らなくて不快な顔を
するのも何か違うような気がしました。
とはいえ、知らないまま生きていくのもどうなのかと問いたくなる。
非常に難しい。
知ることは罪か、知らないことが罪なのか。
僕の直観としては、まず知って、見て、で、どう思うかでしかなくて、
本当にキレイに善悪が、勝ち負けが決まるなんて、
スポーツの世界ですら、ないような気がするというか、事実はそう。
だから、知ったほうがいいなと思うわけです。
被爆者の方は、結局生きている意味を問う中で、
差別され、体も健康ではなく(被爆したものは残っていて、
あらゆる病気かは分かりませんが、病気の発生要因になるはず)、
生きていって、何かいいことがあるのか、という
そういう問いになるのかなと、自分としては感じるわけです。
だから、自殺を選ぶと。死んでいくというのは、
直接原爆で死んだ人は、14万人。そしてその後、被爆原因で
16万人以上が死んだと出てきます。恐ろしい数字です。
10万人といえば、町が一つ軽く消えます。
全ての建物、人間、動いているものが、消えるわけです。
アメリカの技術者は言います。
我々はパンドラの箱を開けてしまったんだ。
だから、どうしようもないが。
人は生きている中で、自分の主観環境と主観感覚で
生きる道を選び、生きるを楽しむんじゃないかと
妙なことを思いました。
それは、自分の知覚したものをどう消化するか。
消化しきれないなら、どうするか。
動いていくしかない。
僕にとっては、原爆は非体験のものだ。
カタリを聞いて、観て、それがなんだと、笑う人もいるかもしれない。
ただただ「それ」をしっているなら
「そんなこと」は言わない、という話が説得力がある。
それとは、原爆で、そんなこととは戦争で。
原爆じゃなくても、滅茶苦茶の人数が戦死しているわけで、
しかも空襲もかなりの数があるわけです。
そういう諸々のことを知りもせず、
戦争OKみたいな人がいることが一番怖いということを感じます。
ここで一つの問いがあるわけです。
知って生きるか、知らないで生きるか。
前者は楽ではなく、後者は楽な傾向があると思われます。
ただ、後者を選ぶ人は、こういうでしょう。
こんなはずじゃなかったんだと。
というわけで、馬鹿者(=若者)は観てきなさい。
これは、冗談ではなく、命令です。
知ることは罪なのか。
知らないことは罪なのか。
いわゆる「二次差別」というのは「差別」の連鎖を生むもので、
あるわけで。映像では、伝染るからアッチイケというものですな。
また、被爆者だと語ること、言うことで得なことは
何もないという現実。最もですね。国が手当て出してくれるのは、
運動した結果・・・であり、その前に人が死んでいく。
水俣病と一緒にするのはあれですが、似た感じでしょう。
こういった問題は。
丁寧に捉えれば、結局、被爆者のカタリは、
誰に届いて、どう響けばいいか。
何も知らないのが幸せというのが、例えばあるわけです。
それは、被爆者は被爆したいから被爆したわけ・・・では
決してないわけです。むしろ、そんなことせずに生きて生きたい。
当たり前ですね。
被爆者の中にも色々いるはずですが、
例えば、口を閉ざし何も言わない人は多いかなと思ってます。
おそらく事実でしょうが、戦勝国であるアメリカ(アメリカが勝った戦争が、60年前にあったんですよ)は、被爆地の写真など映像もでしょうが、
25年間公表禁止にしたそうです。
ちなみに、DAYSという写真展で見た、記者の写真の前書きにも
同じようなことがかかれてました。
戦勝国からすれば、それを公表していいことはないからですね。
当たり前といえば当たり前ですが。
ただ処分というか、そういう動きもあったかもしれません。
ここらへんは注意すべきです。アメリカは別にアメリカンドリームな
国(アメリカンドリームもそもそも疑うべきですが)ではないですね。
おっと、アメリカはいいところあります。学ぶべきことは多い。
でも、それは棚上げでしょう。
ただ、この映像のいいところ、注目すべきは、
原爆を直接触った技術者が映像でインタビューしていることです。
この対比は、今まで見たことがないので、新鮮でした。
アメリカの技術者は、言われるまでやったというのが主張です。
これも当たり前ですね。
被爆者として、あの「はだしのゲン」の著者の人もでてきますが、
原爆が落ちた、人が死にまくっている、うらむもなにも、
どう生きていくかで必死だった。そもそも家族が死んでいることが
普通なわけですからね。
冒頭は、1945年8月6日って何があったか知っているという
軽いインタビューから始まります。
彼ら、おそらく20以下の若者ですが、が知らなくて不快な顔を
するのも何か違うような気がしました。
とはいえ、知らないまま生きていくのもどうなのかと問いたくなる。
非常に難しい。
知ることは罪か、知らないことが罪なのか。
僕の直観としては、まず知って、見て、で、どう思うかでしかなくて、
本当にキレイに善悪が、勝ち負けが決まるなんて、
スポーツの世界ですら、ないような気がするというか、事実はそう。
だから、知ったほうがいいなと思うわけです。
被爆者の方は、結局生きている意味を問う中で、
差別され、体も健康ではなく(被爆したものは残っていて、
あらゆる病気かは分かりませんが、病気の発生要因になるはず)、
生きていって、何かいいことがあるのか、という
そういう問いになるのかなと、自分としては感じるわけです。
だから、自殺を選ぶと。死んでいくというのは、
直接原爆で死んだ人は、14万人。そしてその後、被爆原因で
16万人以上が死んだと出てきます。恐ろしい数字です。
10万人といえば、町が一つ軽く消えます。
全ての建物、人間、動いているものが、消えるわけです。
アメリカの技術者は言います。
我々はパンドラの箱を開けてしまったんだ。
だから、どうしようもないが。
人は生きている中で、自分の主観環境と主観感覚で
生きる道を選び、生きるを楽しむんじゃないかと
妙なことを思いました。
それは、自分の知覚したものをどう消化するか。
消化しきれないなら、どうするか。
動いていくしかない。
僕にとっては、原爆は非体験のものだ。
カタリを聞いて、観て、それがなんだと、笑う人もいるかもしれない。
ただただ「それ」をしっているなら
「そんなこと」は言わない、という話が説得力がある。
それとは、原爆で、そんなこととは戦争で。
原爆じゃなくても、滅茶苦茶の人数が戦死しているわけで、
しかも空襲もかなりの数があるわけです。
そういう諸々のことを知りもせず、
戦争OKみたいな人がいることが一番怖いということを感じます。
ここで一つの問いがあるわけです。
知って生きるか、知らないで生きるか。
前者は楽ではなく、後者は楽な傾向があると思われます。
ただ、後者を選ぶ人は、こういうでしょう。
こんなはずじゃなかったんだと。
というわけで、馬鹿者(=若者)は観てきなさい。
これは、冗談ではなく、命令です。