アフォリズム企画第一弾。第二段はないっす。

階段を下りている夢ではないけど、
階段を下りていた。でも、地上がちっともやってこないんだ。
最低、階数分は降りたと思う。3階からなら、3回は。
でも、地上についたと思ったら、それは地上ではなかった。
むしろ、最初のフロアに近づいたかのような感覚。

降りている階段、いや階段を下りることで、
確かに地上に下りることができる、はずだと考えている。

ミステリーでも、ホラーでも、SFでもなく、そしてちょっと現実的に、
普通は、3階まで上がったら3階から地上に降りれると思っている。
そうではなかったら?

階段を下りる行為は、確かにそれは行為として存在する。
しかし、下りるのは、3階なら15mくらいはあるのかしらないけど、
15mから下がることを階段を下りるといえばいいか。

下りているのに、実は下りていない。実は上がっているんじゃないか。
階段を上がっていることを、階段を下りているといっていないか。
そもそも、誰が階段を下りていけば地上があるなんて「裏」を取った?
そう思い込んでいるに過ぎないかもしれないのではないか。

ここに夢の要素を加えると、
そう、ループにたどり着く。

騙し絵的な、そうシュルっぽいところでもいいけれど、
階段は決して地上への道を提供してくれるわけではないと、
疑うことは決して精神的に何かおかしいわけではない、とここで断言しておく。
そもそも疑うことから始めるのは、哲学である。

階段のループ。下りても下りても地上は現れない。
一般的には上がっても上がってもゴールは見えない、というほうが
分かりやすいだろうが、今回は下りる話なのだ。

下りても下りても、永遠にループからは逃げられない。
もし、誰か権威者が僕を殺しにやってきたら、
僕は反抗するだろう。「僕は何もやっていない」というだろう。
ただ、ミサイルが上から振ってきて、あっという間に蒸発するかもしれないが。

その視点、それはどういう視点かというと、
宇宙人的(地球外からのメタ認知)とか、人類的(人類至上主義かもね)とか、どうでもいいこと的とかになるかもしれないけれど、
とにかく、そういうことを考えていると、
ループに生きていようが、どうでもよくなってくる。
本当はどうでもよくないけど、この瞬間はそうだ。

すごく人のことばっかり言っている人が
確実に存在する。そしてまたあら探し的なことばかりやっている人も
確実に存在する。確実とは、それを見たからだけである。
そういう人に出会わないことを期待するが、それは無理だろう。
やつらはやってくる。これは否定できないのだ。
そして、逆に自分も、そしてこの僕もやつらになっていることがある。
そこを自戒できるかどうか。それがやつらのままで終わるか、
終わらないかの違いかしらん。

ループとか、日々のマンネリとか、日々の楽しさと充実度とか、
未来への希望とか、そういうのがどうでもいいという人もいると思う。
ただ、それは明らかに間違っていると断言できる。
なぜなら、そこに「面白さ」がないからだ。
面白さとは何か。

簡単にいえば、心が動くことか。それは感動といったりするが、
感動とは微妙に違う。心が動くとは、ホンの少しの動きでいいのだ。
嬉しいやら悲しいとかの感情とか心打たれる感動ではなく、
単に心が動くことなんだ。身体の一部が動いたら、それだけでいいんだ。

面白さは笑える要素と、興味深いものという視点と、
何か詰まっている、ひきつけられるもの、直観をそそる、
直視できないのにしたくなる、そういったものを「面白い」と呼ぶ。

その面白さを人生に求めなければ、一体何で生きているのか。
食って寝て死ぬのか?多くを望まない、高くは望まないから、
このくらいで生きていければなんて、「分かったような」口きくなあああ!(壊

社会が厳しいんじゃない。現実が厳しいんじゃない。
単に、相対的に自身の望むものが緩すぎるるだけっすよ。
日本が豊かだとかそんなのどうでもいいから、
一瞬「豊かだ、ありがとう」といって、その後に全力で生きて欲しいんだよ。
なんでそうしないのかって、単に「怖い」からだろう。単純に。

恐怖、怖さ、不安、心配、恐れを最初に持ってきて、
やはり「多くは望まん。ただ生きるだけで」というのか。
それは意味があるのか。生きる意味ではなく、ただ生きるだけに
意味はあるのか。そこに「面白さ」はあるのか。

ないなら、ないと言ってしまえ。そこから考えてみてくれ。
あるなら、その面白さをもっと出していこうぜ。

逆に、
階段を下りていって、下りてないことに気づいて、
その繰り返しって、本当にダメかね。
ダメじゃないと思うけど、でもループからは逃げられないのさ。

これは悲観ではない。楽観であり、むしろ、希望だ。
ループという前提、それは均等ということだ。平等じゃない。
ループに気づいたら、全員がそういうループにいることを意味する。
そこからはいでることが全てじゃない。
ループ自体を利用することもできるし、ループをさらに創る
人間もいる。またループから逃げるわけじゃないが、
穴を作る人間もいる。

色々できると思わないか?
ループって、別に閉ざされた、何もない、暗闇の、
同じことの世界じゃないんだぜ。

そもそも、社会が、歴史が繰り返しであるだろう。
戦争をやめない人間は非常に愚かだ。
愚かなものに語りかける暇はない。

自分の命を守るなんていう「かっこいい」台詞、
そういうのは、本当のサバイバルで吐いてくれ。
今更、第三次世界大戦でもやるというのか。アホですか。
本当に馬鹿なんじゃないかと、アホなんじゃないかと
思ったりするが、本当にそれをやろうとしている「愚直」という
愚かさを手に入れた人間は怖い。

いい意味で、狂気は必要だ。が、それを利用する人間が
必ずいる。コントロールする人間は必ず「何か」狙っている。
それ自体は善悪はない。

「キノの旅」に、仮想戦争みたいな話がある。
それは、戦争を実際にするんではなく、映像で戦争するという
仮想世界だ。セカンドライフで戦争ができるような気もしなくはないが、
どうなんだろう。
その戦争をする国家らは、そこで戦争をすることで、解消している。
解消されるから、実際の戦争は起こらない。
非常に合理的かもしれないが、それほど戦争はやめられないということだろう。

弱きものは吠える。弱い犬ほど吠えるのだ。
僕は知っている。強く静かな人間が、今、この瞬間多く生きていることを。
それは圧倒的に「希望」になる。それは力になる。
権力でもない、知力でも、軍事力でも、ない力。

ただ「存在」するということが力になる。

生きることに意味があるかというのは、結局そこになる。
存在の強さというのは、きっと、存在というところを
疑って初めて分かる感覚なのだろう。

階段を下りる必要はないかもしれないね。