ということは、本質的ではない、コミュニケーションがあるということだ。
例えば、社交辞令。

が、この社交辞令悪いとは思わない。むしろ、潤滑油的に使うのが、
大人で、かっこいい。むしろ、使えない方がカッコワルイ。
なんて思ったりすることがあるくらいだ。

例えば、誘いたくない人も誘うとか。
これは嘘ではない。誘うというアクションは大切だ。
なんていうか、偽善でもない。自分に正直であれ。社交な辞令だ。
不快になるならやめればいいというところだ。

本質的コミュニケーションとは何か。
簡単にはいえないが、素でいえるとか、相手が信頼できていて、
こういうこといっても大丈夫、自分の弱いところいっても、
大丈夫だってそういう感覚かしら。

昔、多分このブログにも書いただろう、
コミュニケーションが深くなってくると、それって
ある限られた人数、本当に数人しか、できなくて、
それ以外はありえんとか思ってたりした。
が、それは間違いだった。母ちゃんごめんよ(笑)
そうではなくて、それはどんどん増える。ただ正比例で増えるだけ。
質とか、量とか関係ないのだ。

蓄積されたものは、それがとくに自分の脳内にあるものなら、
それだけすごく強みになる。また人との関係はそれだけ
強固になる。ただそれだけ。

まさかこんな人はいないだろうか。
お前は多くの語れる人間がいていいな。俺にはいないよとか。
私にはそんな人はいないよとか。お前が運がいいとか。
周りに恵まれているとか。

ふざけんじゃねええええええ。

腐るほど、合わない人間とあって、つまらない会話があって、
ダメな経験があって、泣くまでもいかなくても、挫折とか、
失敗とか、うまくいかないとか、んなこといくらでもあるわ、ぼけが!

他人の芝の青いところだけみやがって。
他人の芝は青く見えるだけで実際に青いかどうか分からんではないか。
また、本当に芝かどうかすら怪しい。実は蜃気楼かもしれない。
もしかしたら、それは本当は自分の庭かもしれないぞ。

他人のいいところばっかみて、自分はそうではなく、
自分は他人ではないといって、嘆く人は結局そこまでだ。
誰もそうなれとか、そういう性格であれとか、
誰も言ってないじゃん。誰も窮屈に、ダメだなーって思える人生を
送れなんていってないじゃん。

本当に誰も言ってないんだよ。
なのに、そうなんで思うんだろう。不思議なのはこっちのほうでい!

騙されるな。
自分が苦しいオンリーではないってことを。
じゃあ自分が苦しいってやつはどうするかって?
他人が・・・という視点を捨てることかな。
自分がどう思うか。そういうところに話は結局戻ってくる。

自分がどうしたいか。それに率直になれ。