基本的に、参加者は、対価を支払っているので、そのリターンを運営に期待する。
運営側は対価をもらう代わりに何か参加者に提供することが義務付けられる。
お金は、何を買えるかという議論は尽きないだろうが、実際にお金で感謝を伝える術(すべ)を
知っている人はかっこいい。逆にそれを知らないと、お金というものの扱いが粋ではないと感じる。

よく考えれば分かるのだが、なぜオープンフィールドにしているかとか、
なんで語っているのかとか、このブログ自身も、そして僕自身もだけど、
それを考えて欲しいなんて、学校の先生じゃないのだから、言うと悲しくなるわけですな。

伝わらない人には、誤解を招いていることもあるから説明がいるというのも分かるし、
もっともなのだが、あまりにも馬鹿すぎる、いや馬鹿げている。

学生の頃、ある教授は、論文を見る人は皆馬鹿だと思えと言っていたのだが、
それは筆者の分かっているだろうから書かないよねということはなくて、
きっちり説明していく、分かってもらう、伝えるという姿勢について言っていた。

じゃあ、実際に分からない論文がないかというと、そんなのはゴマンとあるわけで、
同様に論文に限らず多くの本にも分からないものは、本だけではなく、全事象といってもいい、
いっぱいあるわけだ。

運営というのも同じだ。伝わらないものがあるのは、靴の上から足をかくような、
苛立ちがでてくるのだが、あせってもしょうがない。
ただ、伝わらないだけならここまで苛立たないのだが、勝手に解釈しているというのは
人それぞれ思うところがあるのだからいいとして、それを事実のようにしていうのはどうかと。
その証拠に、僕の目の前にいた人間はいないのである。
事実かどうか言ったかどうかの水掛けは好きだけど、あまり生産性がなく、無駄な気がする。
やはり、どういう考えか確認するということでしか意味がない。

だが、自分で言うということをなぜできないんだろう。
僕はやくざさんでも、何も人を傷つけるような弱い人間でもないのだけど、
器が小さいと思っているのかしらん。
それとも、酒のツマミレベルの話で、話すこともないとも思ってるのかしらん。

おそらく後者だろう。
誰が何を言おうと本当に考える人は行動をするのだ。
行動が全てではなく、自然の行為という意味でだ。

人間関係とか、微妙な空気とか、人間の悪いところから良いところまで含めて、
人が好きである。宗教家とか宗教は歴史の浅いものと、偏見が含まれるているっぽいのは
嫌いだけど、人は好きである。

というようなことを書いているブログは残念ながら僕は見たことがない。
考えとネタで面白いことを言っている人はいるが、それはそういう面白さで終わってしまう。
伝わったものが広がるというような、波及的?なネタ(センセーショナルとか話題になるとかそういうものではなく)
は単に個人のつぶやきというレベルではないし、
このブログもそんなものを目指してはいない。

そのうち伝わるものがあるかもしれない。このブログを見ている人に、という話ではなく。
ただそれも時間の問題だ(文字通り時間の問題)。
人は飽きたりするのだ。飽きずに分かろうとしている人のみが残るだろう。

文章のある表現とか、言葉の使い方がどうだのといって、
つつく人もいるが、その指摘は大事なことは多い。
だが、それはどこを目指しているかを明確にしなければ、無駄な指摘だろう。
高いものを目指しているという人には厳しくいってもいいのである。多分。
低いものを目指す人は、適当にしていればいいのである。多分。

なんにせよ、人の顔が見えないところは怖いものだ。
飲みにけーしょんは数少ないコミュニケーション手段なような気もしてくる。