よく分からないが、最近「短気」から「長気」になったというような
ことを言っている自分がいる。

怒るということのベクトルが変わったのだけど、
例えばタイミングとか、状況とか、その意味とか、何で怒るのかとか、
そういうことが「怒る技術」というテクニック的なことも含みつつ、
何で今まですぐに怒ってきたんだろうなあと回顧。

多分、別に無駄に怒ってきた過去があるとか、
何やってんだーと怒鳴って意味ないじゃんとか、
そういうことじゃないんだ。決して。

でも、それとリンクさせて考えると、
怒る意味のない人もいて、これは決してのその人を見下すとかではないのだけど、
怒っても意味ないなーというアキラメを感じさせてしまうと、
もう怒る気になれないし、怒らない。

期待=怒りでもあって、怒らないってことは
逆に何も期待されてないというか、注意の対象でもないというか。
だから虐待とかの「虐待対象」という愛みたいな錯覚は、
分かるような気がする。意味合いが。

怒られないより、怒られていた方がましだとか、
そういうことはないけど、でも「言われているうちがいいよね」っていうのは、こないだダチと話してたときに、ぽろっと、
「辞められちゃ困るな」的に、辞めるのを止めてくれるときに辞めるべきという考え方をしてて、「あーそりゃそれもあるよなあ」と思った。


もっと考えてみよう。
そもそも、自分の怒りというのは、表現というものが
うまくできなかったという葛藤みたいな怒りだったのだろうと思っていて、
それは外部に発する怒りではなく(世の中なんてくそくらえだー的なものが、
学生時分に比べると大分なくなってきていて、でもそれはアキラメとか、
現実をしったとか、妥協とかではなく、むしろやり方を変えていくとか、
形にしていく重要性を知ったから、分かったから、学んだから、だから
絶対そこで止めちゃいけないんだって、そういうことを思っているんだけど)
内部に発する、自分への怒りみたいなものかな。

自分に怒っているから、周りに「全然だめだよ」なんていっても、
通じるわけはなくて、なんで「こうしてこうしないんだ」って。
そういうことを言いたかった気がする。ずっと、そうだったかもしれないし、
そうではないかもしれない。

そういう反省も踏まえて、カタリベカフェやってますって言い出してから、
自分をこのカタリベカフェで表現しているぜって感覚ではないけど、
あーこれはやっぱ自分がやっているんだなーって主観が芽生えてきて、
それは楽しいって思う感覚とは別にあってね、
そこでこういうのはどうだーこれはどうだーって挑戦を、
社会に投げかける構造、仕組みになっているか分からないんだけど、
ある程度はそういうことが出来ているような気がする。多分気がするから
少しは出来ているんだろう。

表現という意味では、何か訴えるとかは難しくても、
こういうことを考えてやってるんだっていうすごくアバウトだけど、
やっているんだぜっていうのは、必要だという自信があって。
これは常にあったというか、絶対的なものに近い。
なんでそういうことがいえるかっていえば、もう決まっているのだけど、
そういう自信みたいなものとか、必要性とか、そういう核があるってところで
やってる人は強くて、逆にそれは外からみてもすぐ分かってしまうので、
隠しようがないところ。
それを見た人で、何かを感じてくれて、それで影響を与えるまではいかなくても、「ああ、そういやあんなやついたなー」とか「そういう人が世の中にいるよね」っていう認知、認識、把握、理解、知っている、そういうのがあるんだって、現実の世界でやってるんだって、そういうのがあれば
いいと思ってやってきたんだ。

実際にそれはかなり僕の中でできていて、
完成はしていないのだけど、そういう仕組みというか、それが出来つつある。
これは非常に大きなことで、挑戦とかチャレンジとか、やってやるぜっていうそういう感覚で溢れているのだけど、多分、そういうのって、
もう説明できないんだろうなあ。「なんか進んでるよね」っていう言葉でしか、表せないんだろうけど、言葉にできないものが常に大きいので、
いい感じといえばいい感じになる。


最近思うのは、この怒りというところで、
なんでそうしないんだよーっていう怒りが、そんなのは、
直接いっても伝わらないから、形にして結果だしていくしかなくて、
そこで地味にでも、やっていくしかないんだぞって。
そういう意味で年数がかかるって、自分がやりたいことでもなんでも、
時間がかかるっていうのが分かってきた。

その時間がかかるにしても、形にしていくっていうのも、
全部なんだけど、全部自分がやってみないと分からなくて、
だからって全部のことを体験しなきゃダメっていうことではないんだけど、
自分が考えていることをそのまま考えっぱなしで、放っておいたら、
やっぱそのままでしょうという当たり前のこととか。
失敗しなきゃ分からないとか。成功の連続とかまずなくて、
失敗してんだよなあって。人に迷惑かけていることもあるけど、
まあそりゃそんなもんだあーって、そうやって自分に都合のよい風に
考えるくらいで丁度いいよなあって思ったり。

そんなんじゃつまんねーよ、お前の生き方つまんねーよ、
なんでそんなのが楽しいんだって、そういうお節介じゃないけど、
色々語れた人もいるけど、そうじゃない人もいて、
メッセージなんてものはすげー届けられないんだなあって。
自分の表現したいものがあって、それがあるメッセージというものに
変えられるなら、それも一緒で、届けるのはすごく難しいなあって。
深いところの理解でもなく、そういうのって直観で分かるレベルで、
分からないものはやっぱ分からないってレベルで。そういうものだ。

そうやって分かった気になっている自分がいて、
分かったつもりでいっている自分がいて、だから偉そうにっていう
突っ込みは常にあるんだけど、そういう控えめな、謙虚な、
自制的なものは、ぶっちゃけどうでもよいような気がして、
じゃああんたは何を形にできたんだって。

形が全てじゃないさ。でも、言わなきゃ分からないのも確かだ。
行動が全てじゃないぜ。でも、動かなきゃわかんねーよ。
どこでその頭の中の妄想というものを、実践するんだよって。
死後の世界か?それで死んで終わりかよーって。
考えてるっていってるけど、それ考えてねーよ。
考えるなんて、別に思考のパターンとか、そういう手法の問題ではなくて、
どうやってそれをやっていくかっていうところで、
戦略とかなんて必死になってなんかパクってこれば色々あるじゃないか・・・。
そんな戦略とか大したことなくて、じゃその知識をどう自分の頭で考えて
活かすかって。
考えないと将来なり、未来も分からないし、だからっていって、
それだけやってりゃいいわけじゃなくて。


わかんねーならわかんねーといえ。
我慢してるなら我慢してるといえ。
やりたいならやれ。好きなものはやれよ。

自分のやりたいこと我慢して、それで生きているのってなんなんだよ。
自分ってそんなつまんねー存在なのかって、
そういうことは考えたら、「普通」やらねーのか。やりたいことやらねーのか。

何が不安なんだ。殺される不安があるのか?
そんなの日本なら「あんま」ないじゃないかあ。
それ以外の不安なら、生命に関する不安以外なら、なんとかなりそーじゃないか。
ホームレスのおっちゃんだって活き活きとしてはないかもしれないけど、
生きてるし、その生活を美化するつもりは毛頭ないけど、生きてるんだ。
コンビニのフリーターっぽい店員でも生きてるんだ。
血を流すことがなきゃ人間の命の大切さがわかんねーなんて、
そんなナンセンスなことやってんじゃなくて。

自分ができない理由なんか挙げてる場合かよ。
いつやるんだ。いつなんだよ。時間切れってのもあるぜ。

自分に対してもっと怒れよ。
人のこといってる場合じゃないんじゃないか。
そこまで考えていってるのかよ。
なんだその薄っぺらいものは、つまんねーつまんねー。


うおおお。ほえろ!