ボールにメッセージを渡す、届ける、含ませる、託す、入れる。

猿足をやってて仲間から言われた。
良い表現だと思われる。

いわば心のキャッチボールである。三塁手か一塁手かの生還っていう
国語の教科書に出てきたあれもそんな話だったか。

言葉は結局表現の一部でしかないなら、他の表現はどないなっとんの?
ということにある日気づいた、青年RMは表現だなと思われるものは、
どんどん足を運ぶようにしたのだ。
それで、今の僕がここにいる。

朝の通勤時、お勤めをしている人は、やはりサラリーマンを演じている気が
して時々笑いたくなる。これは、「19歳の地図」とほぼ似ている。
鬱屈していないが妙に笑えることがある。

あまり好まない人に何か言われたときに、
「分かりました」といっておいて、
心の中では
「いや、やりたくないです。というか、何で俺がやるんだよ!」
と悪態をついて、そしてそういったらどうなるかと、
まるで「世にも奇妙な物語」なのだが、
やはり、はらたいら氏の死去は大きい。びば、クイズダービーである。

関係ないな。

でも、そうやって悪態をつくところで、結局、演じているなとすら思う。
演じているというとわざとやっているというにおいがするが、
そうではない。そういうものをやりたいからそれを演じるという含みが
ここにはある。

だから、クリーニング屋の主人はクリーニングを糧にするのだ。
漫画喫茶のオーナーもそれに然り。居酒屋の店主もそれだ。店員も同じようなものだ。
また、スーパーのおばちゃんも同じだろう。多分。
カラオケ屋のオーナーも同じだろう。

仕事とは即ち表現だ。でも、表現といえるレベルといえるかは、
よくよく考えて欲しいところだ。何事も心が入っているかどうかで、
心が含まれる行為は何かしら違うのだ。

コントロールされた感性、即ち理性的な感性というものがあれば、
それが「演じる」というニュアンスで受け取っている人は多いと思われる。
でも、それは違うな。多分そんな芝居はクソつまらない。

感性を出していく、それが演じることであり、生きることだ。
だから、熱さがない人間は、パワーがなく、また魅力もない。
最も、その熱さは人によって異なるが、
間違えると、というか間違える人間ほど、面白いのだが、
関係する人間にとっては、トラウマだ(笑)
今も覚えているよ。あんたの言葉は忘れないからな。
呪いでもなく、恨みでもなく、その言葉を覚えていることで、
僕はまた強くなれる。というか、強くなってしまうのだ。

感性を出したら、出し続けることは難しいので、それが冷めたときの
動きをどう感性と結びつけていくかになる。
ここはなかなか難しいが、結構面白いところでもある。

ゲームも仕事も遊びも全部コミュニケーションだ。
というか、人間が関わらないものがないというか、
やはり、猿足は面白いね。