図書館のガイド。パンフレット的だが、内容はかなり充実している。
これ一冊あれば、図書館の機能はほぼ把握でき、利用できるだろう。
ちなみに、カタリベカフェ10か条はこの冊子にあるコラムが元ネタ(笑)

まあ、高校図書館のガイドになるので、一般向けじゃないけど。

さて、活字離れとか読書離れとかいう言葉は、おそらくその言葉自体は意味がない。
この間の学校司書の本では、ご飯を食べるくらい本を読むのは必要だと、
誰かがどっかで言ってた表現だなあと思ってしまったが、書かれている。

日常に必要という意味では、寝て、飯食っていれば生きられる。
さてそれが楽しいか。生理的欲求とか、マズローさんの欲求(マズローの欲求では決してないっす)とか
色々あるけれど、どうなんでしょ。つまんなかったら、やっぱ生きてても意味がないというか、
何のために生きてるのさ、とそこで問うと思うんですがー。

そいつをどこかに眠らせておくのも一興なんですが、
そんなものはずっと眠れるわけもなく。何か違うんじゃないかという疑問とともに
ヤツラはやってくる。
そして、負のスパイラル。全てがうまくいかない。素晴らしいシナリオですな。

一人一人が違うという前提でいえば、
ある本はある人には役に立つが、ある人には全く役に立たないことは普通にある。
本読みはあくまで楽しむという感覚のものでしかない。
音楽とか絵とかと同じである。多分。

本を読まないことが悪いのではなく、思考、思索、思想、考えといったものが
しにくいのではないかと僕は思っている。活字を追うこと=考えるではなく、
活字を追って、考えなり情報を得て、それを自分の頭で考えてどう思うかというのは、
別に意見を主張しない日本人でも(笑)必要なのである。

なぜ必要かといえば、自分の頭で考えることは社会的に普通に存在するからだー。
なので、もしこの「考える」行為をせねば、生きることはできない。
正確にいうと、死ぬのを待っている生活になるのだ。全くつまらぬ人生である。

人間の文化的?行為という意味でいえば、なんで活字があるのよってことになるが、
それは情報を人と人が直接話すということからの脱皮であり、それは一種の技術の進歩でしかない。
そこから生まれたものは無数にある。言葉とは伝播できるのが素晴らしい。
新聞はもちろん、本も雑誌も全てそうだ。

本を用いて、考えるということをしない人で、
別のことから考えている人は全く問題がない。
でも、普通に考えて、何か考えるというのは、やはりほぼ確実に何か情報、活字なもの、映像でもいいけど、
そういうものから得ているのだと思う。例えば1ヶ月何も情報的刺激がなければ、変化がないため、
死にそうになるだろう。それをある意味、「のんびりした」と表現することもできるが、
そういうことをしていいのは、のんびりしていないことを経験している人のみの言葉でしかないと思われる。
ま、それはいいや。

だから、本を薦めるというか、読むのは楽しいというのである。非常にシンプルだ。

冊数とかそういうのも関係ないし、僕みたいにどれだけ自分の思考を深められるとか、
ネタ探しって意味での読書もまた一つでしかないと思うわけで。

アンテナという意味での読書も普通にある。
一つのことから見ていては盲点(盲点は本当に存在するということを僕は学生で初めて知ったが。
一応いっておくと、方目をつぶって、15cmくらい離したところで、小さな点が見えなくなる。
だから両目で補うことはできるんだったっけ。まあ、あるからいいや)があるのだ。
2つの視点は常に必要だ。それでもまだ足りない。オリジナルは、さらにそこからかぶせるという
行為が必要となるかな。

もっといってしまえば、本を楽しめないというのは、人の考え(色々な本があるが、それらの1冊で
考えが共感できないものがあるとかないとか、そういうことではなく)に対して、
受容、受け入れることができていないのではないかと、そういう疑いすらしてしまう。
おそらく社会的には逆なんだろう。そうやって色々な本を楽しめる人がレアみたいなことを
いう人がいるだろう。でも、それは全くナンセンスだ。その証拠に、僕は色々な人をみていて、
確実に本を自分のものにして生きている人を知っている。見ている。
それで十分だろう。

想定通り、自分の世界に閉じこもる読書などくそくらえであるなあと、
何か妙にそう思ったね。