AquaTimez「決意の朝に」の歌詞にある言葉である。
全くだ。寝ないように仕事をする「決意」をするまでである。

夢という言葉に、上手いも下手もない。そこを、ついてきた言葉だ。
おそらく意味的には、不器用に生きるとか、立派で大層ではないようなこととか、そういうことを意味しているとにらむ。
肯定表現では、等身大、自分に正直、LetItBeとか、ありのまま、ありていに、
受け入れるとか。そんなところかなあ。

優等生の夢(優等生が見る夢ではなく、優等生的な夢、なにそれ?)ではなく、下級生、落第生までいかなくても、及第レベルの夢(ほう)で
そいつを貫くことの方が難しい。いや、違うな。
難しさは究極的に、同時に易しさもだけど、比較はできぬ。

ということは、自分の磁界(なんだそりゃ)で、吸着してくる、
「難易度」を考慮することしかできない。
イッツ・ア・スモール・ワールドであるが、仕方ないことである。
冥王星が矮星だろうが、小さな世界であることは否定できぬ。


サラリーマン意識をどこまで殺せるかが課題だった。
サラリーマンが悪いわけではないが、単にスタイルとポーズとプライドと、
想いと、生き方の問題(って多いな!)でしかない。
大多数はやはり大多数のものと認知されるのだ。認知の錯覚といってもいい。

流行とはまさにそんなものだ。
オリコン1位に価値がないのではなく、1位だから「良い」と信じる心に価値がない(おー

音楽で勝負している人にとっては、ワンチャンスで人に聞いてくれる良いランキングでしかない。また、そういうところで人の目を引く、話題になるというのも良いことである。

が、ここで譲ってはならぬのは、自分のセンスとか、感覚で選ぶというところだ。おそらく、そういうところで何かを選んでいる人は、
きっとオリコンは参考程度にしかならないのだろう。これは自然にそうなる。
だから、オリコンが良い悪いという話は非常に意味がなくなってしまうま。

自分が選んだという錯覚という理解もある。
オリジナルなものというのは全くその要素が消えない。
その人にとってオリジナルに感じる!ものでも、ある人には、
オリジナルではないと思うこともあるのだ。
でも、少なくとも、オリジナルであろうとなかろうが、創られたものは形としてあるのだ。

最大公約数的なものを選ぶ人生もまた人生送りバント的な人生も、
決して否定されるものではない。ただそうしたいかどうかなのだ。
そのシンプルさは、逆に苦言でしかないとか、壁にしか思えないとか、
そういう理解もされてしまうだろう。
最大公約数は、本当に約数の最大であるのだろうかと。
まずは疑いたいところである。

全てを疑うのだ。自分の夢から、自分から、人、目の前を歩く犬から、
平和ななき声の猫から、ペットボトルの水から、全てを。

こうして、へたくそな夢は後から見た人にとって、
重要参考物になると自負している。