いつからか知らないけど言葉にすごく敏感になるようになった。
別にあらゆる言葉に「何か」をこめんといかんというわけじゃない。
ただ、自分は気をつけているポーズをとるのもナンセンスだが、
まあ、それもどうでもいいわ。

1.5人称という言葉がある。うまい言葉を作るものだ。
要は、自分であるか相手かぼやけてるってことだ。主語がね。
日本語の1人称省略でも、2人称省略でもなく、1.5人称(笑)

僕もたまーにつかっている気がするが、多用すると、
おそらく混乱する。主語を逆に使うと、会話がガチガチになる。
まあ、それはそれで一興。

?したよね。というのが、相手の行動への確認ではなく、
自分の行動の確認であるという場合がある。こういうやつだ。
関西弁で、?したやんか。というのがあるが、
あれの違和感が慣れで取れてきているものの、100%崩れない。
おそらく移住せねばダメだろう(笑)
といってるものの、相手のことを「自分」といってたやつが、
うざかったので、その言葉は使わないことにしてると大分前に書いたが、
まあ多分使ってないだろう。オーケーオーケー。

最近ダチとかなり問題になった言葉をいくつかあげておく。
問題となったというのは説明するのは面倒だが(おぃ
あえていうなら、「意味を取り違え共通理解できてない部分が多い!」ものになる。
それは、「実験」「責任」「絶対」「絵の説明手法」くらいかな。
って、多いな。

まず、実験って言葉は僕は肯定的に使っていたが、ダチはそうではないようだ。
責任は、一般常識を語られた。まあ、そういう意味では僕がオカシイだけなのだが。
絶対については、かなり難しいことになる。僕の考えでは、
絶対などない。だから一神教を信じることはできても、それが
絶対だとは思わんだろう。まあ日本人っぽい考え方かもしれん。

絵の説明手法とは、これも結構くる。
例えば、自分の土俵やらに何かを持ち込むことは「善」とはいわないが、
かなりやりやすいし、楽しめる方法だ。
でも、その瞬間、「表現の問題」でもかなりガーガーいったような(笑)
すくえない部分が出てくる。それは考慮すべきだろう。というか
頭の片隅に意識しておくってレベルだけど。
言葉にしたとたん消えるものがある。消えたものを補って話すと、
じゃあ言葉自体の意味が逆に薄れる。全く。かなりややこしいところだ。

絵でも同様だ。
別にクリエーターに文句をつけるわけではないし、その話ではないが。
むしろ、創造して、新しく価値を付け加えるものだと思ってる。
が、しかし、その表現で切り取った残りはポロポロ落ちているのかもしれない。
必ずすくえない、というわけじゃないが、逆に全部すくっているのかと、そう問うわけだ。

自分の表現したいものを100%表すことが多分無理なように、
おそらくスクエテナイというところだ。