人というものは笑いに生きるものだ。
そして笑えればオールオッケーとする。
これを笑い教とする。

というのも冗談であるが、おそらく
「?である」と語られるそれ(つまり文章のことで、別に会話でもいいのだが)に弱い人も多いかもしれない。

というか、無理だ。
新聞記事風に、いかにも本当らしく語られたら、
それが真実かどうかは見抜けないっす。

でも、主眼はそこではない。
笑いであって、人をだますためにいうのは嘘であり、
冗談とは笑いが狙いだ。という意味で、笑いにならない、
冗談は唯の嘘になるといっても過言ではない。

笑いとは、生活必需品ではないが、
大切なものだ。笑わない人間ほど怖いものはない。
僕は笑顔がないといわれる回数が多いのだが、
それは心底ショックでありつつも事実かもしれないのである。
(なんか土屋氏っぽくなってきたカモ)

冗談とか笑いがない生活はなんだか油の切れた自転車のチェーンであり、
ガーガー音を立てながら走るケッタマシンは不愉快でもあり、
そして危険でもあろう。

一日で笑わないことがないのはやや苦痛である。
だからこそ自分が笑えることをするか、考えるか・・・
そしてそれが昇華されると、笑えることを作り出し
人に言うのかもしれない。

お笑いブームはもう去ったのかしらないが、
ブームではダメなのだ。パフォームとして確立しているから、
それが生業となるのだ。

という意味で、自分に問うわけだ。
お前は本当に自分の力を出し切っているのかと。

答えは・・・・天才クイズ風にいえば、NOOOである!

ラジオのあるDJが言った。
「自分って何だろってことは考えちゃいかん。
きりがなくなるから。」

彼の考えはある意味正しいが、それはあまり意味のない正しさだ。
最も正しさ自体意味がないが。

きりがないという次元を超えて、自分の存在意義、アイデンティティ、
自分とは何か、レゾンデートルだっけ?などは、
言葉を変え、状況を変え、環境を変え、人を通じて、ニュースになって、
必ずやってくるものだ。

そのときどう捉えるかでしかない。

という意味で、あらゆる人は考えているともいえるし、
そのときにもういいや、といえばそれまででもある。

冗談が分かるとは、頭が固いとか、真面目であるとか、
そういうのは関係ないと思ったりするが、
果たしてどうなのか、分からぬ。
やはり、フィーリングの問題か。

怒らぬ人とは、どうなのか。
すぐあらゆる物事にカッとなった青二才がいたが、
今では非常に落ち着いている。物事に怒ることは大事だが、
その大小を間違えてはならない。
小事にとらわれて大事を見失ってはいけない。

ちなみに、笑いとは結構な技術というか、仕込がいると思われる。
意外に笑わせるというのは、難しいということだ。

顔芸か、繰り返しつぶやきか、状況物語風か、
ナレーター風か、客観的事実把握か、物まねか。
ネタの鮮度と斬新さもある。

かなり創作的なものだ。
だが、言葉がそこで重要な役割を果たしているのは間違いない。
そこで言葉が面白くなるわけだ。

さあ、笑って楽しく生きてみるとしようか。うはは!