表現者として、もし生きるなら、やはり見せるべきだ。
魅せるといったほうが正確か。見せ付けるという意識でちょうどいいとは僕は思ってる。

誰もが皆表現者だとか、ここでは書いたことがあるけど、
それを意識しているかどうかで大分変わる。
何が変わるかは、その人の生き方であったりするのだけど、
別に意識しなくてもよい可能性は高い。

名古屋駅前で、ギターを鳴らしながら歌を歌ってる人がいたが、
日本人っぽくない容姿から出される歌声はとてもきれいだった。
彼は何を求めて歌うのか。それとも求めてないのか。

地下鉄の駅員は、客を車両に押し込むこともする。
それは仕事だからか、それともそうしたいからなのか。


自分の世界をどう表現するかというのは、本当に自由な領域だ。
白地のキャンパスに絵を描くのと同様。

まず自分の世界をつくって、そいつをどうかねと提案してく。
非常にシンプルだが、自己満足で終わらないパフォーマーとしての生き方
ではないかと。


大丈夫だ。
今まで生きてきたから今いるわけだ。
だからって今後も大丈夫なんて保障はない。
でも、今この瞬間大丈夫だとは確実にいえる。
デカルト的思考なりなり。


イタリアきたか。