まず1つめ。

華氏451度にあったと思われる。
「コップと水の話」だ。
そっから考える。
コップに水が注がれると、確かに水はコップの形になる。
水はその状態を持たない。液体とかの形体は変わるけど、
変われど、状態は保たない。もちろん、人間の肉体も変わっているのだろうけど。

状態があるというのは、ただその瞬間という結果でしかない。
ギリシャ哲学者に、全ては水だという人がいた。いや違うか。
川の水に足を入れてみる。すると、その足に触れた水は
一度も同じ水ではないというわけだ。

音楽は水だという、上原ひろみもいる。
彼女の言いたいことはおそらく、音楽をライブで弾こうがなんだろうが、
その都度違うということだろう。そういう意味で音楽もまた同じものでもない。

文字も同じだろう。言葉もそうだ。会話もそうである。
同じものはない。それだから、同じものではないから全部大事かといえば
そうではないかもしれない。

状態は結果の連続といえる。結果は結果でしかない。
状態などない。全ては結果でしかない。

結果ばかりを追い求めるのは、やや窮屈だ。
でも、どうだろう。一瞬一瞬が結果だ。その連続といえば、
全て結果と解釈できる。逆に、自分が死ぬまでは結果は出ない、
だからこそ、結果とは死ぬことだともいえる。
だから、全ては過程だともいえる。

重要なのは、水は水でしかないが、
そこに器という考えを入れると、水は器の形になるってところだ。
だから、考えは持った方がいい。自分らしさみたいな言葉は
嫌でもそういうものはもったほうがいい。
すると、現象という水も、世界という見えないものも、
人の心も、そして言葉も、水のように受け入れて取り入れることができるんだ。


もう1つ。
いくらご飯の幸せから、幸せだーというのは、最もであると。
僕にとって、この幸せいくらご飯説は、
鉄火巻きである。鉄火が好きだ。まぐろよりも好きかもしれない。
トロはあまり好きではない。
鉄火食べれれば幸せだ。寿司屋では金のかからない人間である。
だから、僕と飯を食べる人は寿司屋では積極的におごるべきだ。

余裕とは、そういう笑い的なことであったり、
自分をどう思われてもいいという卑屈ではない寛容の態度であったり、
1を聞いて3を返すことであったりするのだと思う。

幸せご飯もその1つだろう。
1つでもその感覚を持っている人間はやはり幸せなのだ。
そういう幸せな人は、やはり幸せを与えろとはいわない。
ただ、自分だけで終わらすのは「もったいない」のだと思う。
もったいないとは「捨てるから」、「使えるのに」だからかもしれないが、
そうではない。
根本的に「人間の力」に使いたい言葉だ。というかそう使う。

さて、自分の力を出し切ってない人へ。
やはり、その力はもったいない。

もっともっと力使って色々しませふ。