人の評価は適当だということ。
これは人に何か言われるたびに思うね。
免疫ってか、抵抗ができちゃった。
だから「お前など生きている価値がない」と言われても(言われたら悲しいけどね)、
大分効かないんじゃないでしょうか・・・。つええな、己。

なんで適当かというと、もっと言葉を選べば、
その人のメガネで(眼鏡を実際にかけているかは関係ないっすよ)、世界を見て、その世界で、人を見る。僕もそう見られる。逆に相手もそう見られるんだがね。

今まで会って来た人の僕に対する評価(好悪含めて)を1000あったら、
1000集めて整理してみよう。おそらく「全人」(笑)的なものになるよ。
ってことはどういうこと?

そう。それくらい、人によって違うってことだ。
ある人は僕を冷たいというが、確かにそれは一理ある。
でも、ある人は優しいともいう。それも一理ある。

面白いことに、一言で性格を表すとか、遊びならいいけど、
あれは無理だ。なぜ無理か?それは「言葉ではすくいきれない」からだ。

冷静に考えてみたまへ。
あの人優しいっていって、本当に優しいって思う人いるんすか?
いたら、ただの馬鹿。いや、おばかさんですよ。
自分が優しいとおもってて、別の人からそう思われてて、
やっぱりねってのはあるけど、これは最初からやさしいと思ってるのがポイント。

あんまりしゃべらないっていう人もいるし、
よくしゃべるっていう人もいる。
ねえ。これだけ書くと笑いが止まらなくなってくるんですけどね。
その適当さの証明であると。

なんで適当っていうかというと、理解というか認識を「適当」にしておきたいからなんですね。僕が。

君はこれが得意だね、っていわれて、
本当に得意かどうかって、自分で得意だと思わないと、
あんま意味ないというか、「8割スッキリ」せずに、「5割モヤモヤ」になる(なんだそりゃ

要は自分が分からんのがデフォルトなのに、
人の評価で分かったつもりになるなーってところかな。
いや、分からんものを分かったとかいうやつに気をつけろってことかな(笑)

分かってもらえないから自分だ、ということもある。
分かってもらえたから、自分だというのもある。
これ、どっちが選べって話ではないのであーる。残念ながらね。