常に最前線に立ち、砲弾を浴びるようなことをしなければならないか?
いや、そんなことはない。

現場主義とは結局主義でしかない。主義とは思想か考え方ということでしかない。それを受け入れ、または知り、消化し、実践するのは、やはり
それを受け入れ、知る、そういう人次第でしかない。

僕の考えは偉大であるとか、そういうことはまずない。
自分の考えているところは、別の人が少なくとも100人は考えている。
いや、普通にいえば、1万人くらいは考えている。

でも、差別化理論、個性理論?によれば、
つまりは、個性とか自分ってアイデンテテの話になるだろう。
そこでは、自分とはやはり他人とは違う。同じ部分も、もちろんあるんだ。

だから、1万人に共通する「考え」があっても、
そこに自分の考えを投入する。そこで1000人くらいにはなる。
これは、小説家になりたい人が実際に小説を書く人みたいな前書いたような話と同じだ。ある本の引用でもあるが。

さらに、小説を書くとは、何も400字では終わらないだろう。
それだけだとショートショートくらいでしかない。
小説とはもっと長いものだ。
って意味で書きとおす人はどれくらいいるか?
1000人いたら、100人くらいではないか?

実際に考えを「ある考え」にぶちかますってことは、それと同義ではないかと。
100人のうち、その小説を人に見てもらおうという人、
自分でそこで満足しない人はどれだけいるか?
それは、自分だけでは「趣味」で終わりたくない人だろう。
10人いればいいのではないか?

最後にこうなる。
10人のうち、「これだめだね」といわれて、
やっぱ自分に才能がないと諦めるのか。

あとはもう、諦めないことくらいの領域だ。
あとは運もある。
自分とほぼ同じ人間がいたりしたら、その人が自分の代わり?になるかもしれない。でも、それは結果でしかない。

もちろん、才能というのもある。
でも、才能とかセンスってのはほぼ同じで、
元々素質があるってのはヤヤ違う。
なぜか?そういいたくないだけであるが、
そもそも、何もやらずにそれだけでやってける、
つまり、食えるということだが、そういう人などいない。

それを「才能がある」といって一言で片付けなくても、
そうしてしまっているきらいはある。
だから僕はそういう「才能がある」という言葉は嫌いで、
もちろん言われれば嬉しいが、それは使いたくない。

もちろん、実力だとかセンスとか、才能もそうだけど、
あるからってのもある。
それを努力のすごさとか、意外性だとか、斬新さとか、色々あるだろう。

百歩譲ろうが何をしようが、それだけそのまま、自然で、という才能などは
ありえないということになる。
だから何か「これいけるかもしれん」と思ったら、
くどい?くらい、好きだから、それを磨くべきだ。
それは石ころを磨けばダイヤモンドになるという「お話」ではない。

なぜそれを言い切れるか?
実際には、世の中は石ころが多いのかもしれない。
でも、それを磨くことはできる。ダイヤモンドになるかは、
おそらく「石」がダイヤモンドになるわけじゃない。
ダイヤモンドだと元々は「石」だったものが、
同じ「石」なのに、そう見えることに意味がある。

それは、自分の見方だけって話もあるし、
ある種の信念(これは新興宗教などでもそれを絶対正しいと思う人間で、
さらに人に強硬に勧める人とベクトルが違うだけで、同じ気がする。
だから新興宗教の勧誘がいいなんて一言も言わないが)での話にもなる。

自分がどうしたいかが大切だという。
僕も自分次第だとも思う。

でも、肝心なのはそれは「人の意見を聞かない」ではない。
ここは勘違いしやすいところだ。もちろん、そうなることもある。

自分の意見を言うあまり、人の意見を聞かないこともある。
意見を聞くあまり、意見をいえないこともある。

どうなろうが、自分は自分でしかない。
他人ではないのだ。他人な自分などありえない。文字通りありえないのだ。

何が大切か。
逆に大切なものなどないかもしれない。
大切だと思っているものも実はどうでもいいかもしれない。

楽しむというのは、大変だから楽しむというのでもない。
純粋に楽しいは楽しいでいい。理由はあまりいらない。
人に軽く話すきっかけ、きっかけでしかない。それでいいのだと思う。

生き方が人自身にあるなら、
僕も僕自身で生きる。それはそれですごく面白くはないか。
すごく面白いことだと思う。
ここには、冷たさなどない。冷たいと思う人は、
人間の熱さを知らないと。言い切ってしまって、僕はスルーする(おぉ