ニート世代劇作家。

ふむ。
よく分からんけど。

どっかの記事かなんかで、あ、これじゃないけど、
今の人は、他人の前で別々の顔を見せてそれで成り立っているようだ。
とかあって、今の人が若いかどうかわからないけど、多分そうだろう。

でも、誰にでも同じ顔って方がおかしいなーと。まいるさんも言ってたような気が。

そもそも、「自分」といってるこの存在が・・・と、最後まで言おうか。
「自分」といってたり、僕といってる僕自身の意見、言葉なんだろうが、
全て自分のものとはいえないし、そもそもそうじゃない。
おそらく、100ある自分の意見のうち、99は他人から学び盗みとったものだといってもいい。
しかし、残り1でもあれば自分だといっていいと思う。

自分らしくというのはどういうことか。
それを自然に振舞える、つまり気の置けない人がいれば自分はそこにいるだけでいい。
そういう状態であると思っている。

別々の顔ねえ。とふと思う。

さて、この劇作家の話もそうだ。
ニート世代という言葉が引っかかるが、それはニートなんてくそくらえだと
思っているからであるのは別に冗談でもない、本気だったりするが、
その劇作家について、色々並べている。

表現とは、そもそも深い部分であるので、もちろん分かる、感じる、良いと思うとか、
そういう部分で人によって違うけれど、
表面的な表現とは、全く表現者の中では意味がない。
そんなのは「誰にでも」できるからだ。
だから、この演劇つまらんわというのは、ある意味で「表現が薄っぺらい」だけかもしれないが、合わなかったという単純なセンスの問題もでてくるということになる。

だから、創作物の評価、表現の評価は難しい。
ただ多くの人を動かすものというのはある。それに共通しているのはおそらく、
やはりといっていいが、心でしかない。
そういう意味で、精一杯「つまらん!」というのはすごく健全な批判精神であると
僕は思っていて、逆にそれをやられたら非常に辛いが非常にありがたいとすら思っている。

なぜなら、人は一生に気付けることは少なく、もし知らなかったら
一生「月極駐車場」を「げっきょく駐車場」と読んでいたりするからだ。
これは笑い話でもいいが、ある考え方、独創的な考え方でもいいし、典型的な考え方でもいい、そういうものも色々あるが、そういう自分の思考が試されることなく、
野放しで、何も言われなかったら?
そう、おそらくそれは恐ろしいゆがんだ意見となっていくんだろうと思う。
おっと、歪んだとは自己主張の強いとか、偏見のあるとかそういう意味ではなくて、
理想的ではない、非現実的な意見ってことかな。
まあ揉まれてない意見ってことね。

それを考えると恐ろしい。
やはり、成長が上というなら、上を向いて生きたいし、
楽しみが成長なら、成長していきたいし、
文章が表現なら、表現していきていきたいと思う今である。