潜水夫?かな、の絵が印象的ですね。
あれ最初何の絵か分からんかった。さすが己(笑)

で、インスピレーションに来たからいっただけあって、
得るものが多かったです。

前衛的な考えというものが、雑誌「前衛」とかとは別だと思いますが、
どういうものか分からんですが、やっぱ表現するってのはいいですね。

「円」で有名だそうですが、僕は全く知らず。
デカイキャンバスに、丸をかいて、それが作品なんですよ?
理屈じゃないでしょう。もう。理屈じゃないのに、感覚なのに、
それを言葉で説明せねばならない。という矛盾。
だから、あらゆる表現物の「解説」は、つまらんのですよ。
だって、その解説はその人の真実でしかないから。

もちろん解説がないと全く分からんのもあるので、僕はあったほうがいいと思いますし、
そもそも解説を読む側の問題であるので、解説の存在はどうでもいいわけです。
問題なのは「解説」読んで、「そういう風に感じ」なきゃいけないと思うことです。
それはつまらんですね。「解説」ってそもそも、広げるためにあるだけで、
狭めるためにあるわきゃーないんすよ、このやろー(おぉ


薪とか大八車とか書いた絵があるんですが、それが気になって
今週は寝れません(ほう
絵が二つ並べてあって、左が「現実的」で、右は「観念的」というのです。
存在感の話で、ああ解説というか説明が添えてあるんですけど、
左は「存在感がある」けど、右は「何かポツンと浮いたような」存在だというのです。

絵の前で5?10分くらい見てみましたが、ダメでした。
分からん。このやろー(笑)

そういわれればそうだけど。
説明のポイントとして「空間」の使い方にあると書かれています。
つまり、僕の1ミクロンしかない頭で考えるとこうなります。
「空間、つまり空白領域をあまり取っていない左の絵は、現実的に感じるが、
空間を多くとっている右の絵は現実感がない」

となるのですが、おーそんなこといえるんだーと妙に変な納得はしてしまいました。
それが分からんのは芸術的センスがないのかとか、そういう問題なのかという問いで、
もっといえば、「これが分からん」のはどういうことだと、
分からんわからんーと頭の内部は結構な温度で熱くなってきて、
「うーん」とうなりながら、鑑賞する人を演じてたわけです(そうなのかよ。

もしその絵が「あーあれね」とわかって、かつ、「感じたこと」があれば
コメントあれば嬉しいですね。うむうむ。

他には抽象画という、線とか図形っぽいものの絵が結構ありました。
作品とか、作品Aとかそういう作品はやばいっす。全く分からん。
何を表現したいかという次元を通りこして、これで「表現」できるのかと、
というか「これ分かる人マジでいるの?」というのはすごく愚かな問いで、
そもそも「分かるやつは来い」みたいなオーラが出てきて、
「くそ、まけるもんか」とは思うんですが「ダメだ。わからねー」と白旗を揚げた自分がいます。無念。不覚。

見ていてあることを思いつきました。
表現するということにといて、手段は「絵」「音楽」「文章」・・・・など腐るほどあります。
だから、表現したい人は自分がやりたいもの、面白そうなもの、楽しめるもので
やりゃーえーんですわ。これはいいとして、次に必要なのが、
「独自の視点」かなーと。これは結果的に差別化なんですが、
「絵」でも「抽象画」「具体画」で違いますし、絵を描く道具でも違いますし、
描き方というのもあった気が、手法もありますしね、あー分からんけど、一杯ある!ので、
さらにそういうのに「独自の視点という考え」をぶちこむわけです。

そうなると、絶対同じものは存在しないといえそうです。すげー。

だから、そいつを僕は文章にしてみたいなーと。
大きな手段として「文章」ですが、でもその手法レベルのところで、
「会話のように書く」とか、「日記風に書く」とか、色々あるじゃないですかね。
改行使いまくるとか、文章文字数を決めるとかね。うーん、一杯ありますね。
で、そこに自分の考えを乗っけてくわけですわ。

そうなると、あーら不思議。同じ文章など生まれないですねえ。

心の中でこの考えに到達したときには、目から鱗というか、
「俺はまだまだ上へいけるぜ」という下克上的な考え(え、それ何よ)が
僕を満たしてくれました。
というわけで、800円安いなあ・・・。と勝手に入館料を価値換算しているのでありましたっと。

まだあります。
絵の表すものが、吉原氏は変わっていくのが分かります。
分かるというか、変わってるんですねえ。
抽象画というのも、「円」に結果的に?たどり着いたのも、それは
こういうことをしてみようというトライちゃんがあったからだと、先達の生き方を解釈できそうです。
その中で、やはり変わるものだし、変わっていくものだなーと。
でも、肝心なのは「世界」というところでは同一なんですわ。
吉原治良という人が表現したいものはそりゃ時期によって違っていたと思います。
悲しさとかを追求してそれを表現し続けたといっても、違いは細部であるはずですしね。
で、嬉しさでもなんでも、具現でもなんでも表現していくわけですが、
そこで吉原治良という「世界観」が壊れるのは、まあまずないわけです。
世界観が壊れるってことは、ほぼ人格が変わるってことと同様で、
それは病的じゃない限り、あと宗教的な洗礼!じゃない限り、普通はありえないなあと。
そういう意味で、「世界」は変わらないと。

だから、なのか、分かりませんが、
「世界」を提示できたら滅茶苦茶面白いと思いました。
そう、小説でいえば、一冊に世界を埋め込むってやつです。
世界なんて大げさな言葉を使わなくても、
例えばある絵をみて「感覚」で感じるものがあるとする、なんでもいいんですわ。
「何これ」でも、「これあれかな」とかで。
それってもう「言語」を通してない時点で「脳に直接アタックしている」ので、
もしそれで「これすげー」って思ったものがあったら、それって滅茶苦茶すごい、
表現をしてるんじゃないかって思うんですよ。


うーん。とりあえず、行ってよかったなーと。
だから美術展って行くの止められんですわ。
まさか、美術でこんな発見できるなんて思ってもいなかったですしってのが大きいですね。
自分が楽しめる領域に持ちこむ。それにつきますよねえ。

ちなみに僕は美術の授業は嫌いでした(笑)
人間って分からんねー。

あと、「スイゾクカン」っていう絵本も描かれてたみたいです。
なかなか渋くていいなーと。ほしい(笑)