面倒臭さとだるさとやる気なさは、
裏返せば面倒くさいと思わないことがあるってことで、だるくないってことがあって、
さらにやる気が勝手に出てくるものがある、裏返しということか。

それを他人が見つけようが、自分で見つけようが、
そもそも目の前のものを否定できるのは、別の何かがあるからと
自分で思っていることがなきゃできん。それが否定できてしまうものだとしても、思うことに意味がある。

ってことは、どうなんだ。

あれはやりたくない、これはやりたくないといって、
選択肢を狭めるって方法もある。でも、これは気持ちが腐っていきそうなのでパス。
好きなものを見つけてっていうのも違う。

そもそも、そこは非常にシンプルだが、シンプルだからこそ難しい。

自分でこれでお金に代えられる、そう等価交換の法則!を見つけるというか、
考え抜いて導き出す必要がある。
普通そこまで苦労してというか、やろうという人はいない。だって分からないし、
そもそもニーズあるべきものに対しての仕事があるというところに飛び込んだ方が、
早いわけだ。

だから、仕事を創るよりも、仕事をこなすほうが非常に楽だ。
責任という点でも、仕事をこなすほうが、最後は「俺の仕事じゃない」といって逃げ切れる。
もちろんそうしない人もいるし、そういわない人もいる。
でも、ここは極論で考えるところだ。極論は現実的ではないのではなく、
現実がそもそも現実たるべき根拠などないわけで、現実的であるかどうかは、
実現可能性の話にそのまま置き換えられる。1%も可能性があればやるべきだ。
宝くじみたいにどうしようもないところではない。自分が関わるということで、
可能性は上げられる方向にある。決して下がることはない。

自分が加わることで可能性を低めることもあるって?そんな腐った考えは捨ててしまおう。

等価交換できるような、つまりお金と仕事で、仕事がお金に見合うもの、
正確には「お金を払ってもいいというようなこと」というべきか、それを提供、
正確には、誰かにそういうものがあると誰でもいいから示すこと、
ができれば、それは仕事で報酬がもらえるということにはならないか?
非常にシンプルだ。敷居は低い。誰でもいいから、まず一人に示す。
そして、自分がこういうことはできるんだと、やろうとしているしやれるというのが、
何かあればいい。それを結ぶだけだ。

ここまでわかってれば・・・できるんじゃないのかねえと、
自画自賛。ありがとう(?)