馬鹿バッカということばが自分の中で流行っていた時期がある。
バカとは考えない人の意でごじゃる、ここでは。

誤解を招きそうだが恐れずに言おう。
ゴーマンをかますわけじゃない。安心したまへ(笑)

そもそも、人は最良の道を自分なりに考えて生きている…考えがある。
いくらアホにもバカにも見える人にもということだ。
でも、それって本当かどうかは分からない。本人しか分からないんだろうなあ。やっぱり。

いいんだ。別に僕がそれを語る人間ではないと思ったらそれでいいんだ。
でも、やっぱそれは悔しいじゃない。
自分という人間が「それほど」=語る対象ではない人間として思われたこと、だとしたらさ。

まあいいや。
その人が考えているかどうかって結局のところどうでもよくて、
考えている成果というか、自分なりにやってるんだというものを見せて欲しいというか。
別に僕は人にそういうものを望んでいるだけじゃないんだ。自分もそう生きたいから
そういう人間を欲するのみ。非常に自然なことだと思っている。うむ。いいぞ。

それで、自分のことを考えてます!すっげー考えてます。
で、それは自分にとっては最良といかなくても、ベターなもんでございまして、
こういうことでございますと、聞くわけだ。でも、その考えが「考えが足りないかも」とか、
「こういう考え方どうだろう」と、ある種耐えられる人じゃないと持たない。

こうやって考えてくると「話が合う」人間がすごく限られてくる気がする。
家の家訓は「自分で考えたように生きなさい」(今作ったというのは内緒だよ)であって、
「考えずに生きなさい」でも「人に惑わされて生きなさい」でもないわけだ。

結果的に僕は友人というものが少ない気がする。
友人の過多については、多分だけど、多くの若人が悩むだろう。
僕にとっては、量を増やす意味が分からない。そういう人ならそれでいい。
やっぱ色々な友人が欲しいと思えばそれでいいんだと思う。というか、思うようになった。

どちらでも正解とかそういう話ではなくて、自分がどう思うかが、という話。
もちろん、自分が全て正しいとか、そういうことと間違えて理解しちゃ困るわけでございますが。

質か。友人の質が大事かといえば、それもまた微妙な話になってくる。
なぜか。言葉の意味合いもあるが、知人や知り合いを多く持つのは悪くないと僕は思う。
しかし、語らえる友人はそう簡単には増えない気がする。
まあ、それもどうでもいいといえばどうでもいいけれど。

人を見下して、お前はバカなんだと僕は思ったことはないが、
なんでもっと考えないのかなと思うことは多々ある。

働き出して思うことは、多分色々あるが、やはり人だなーと思う。人。
会社とは、社長でもなく、リーダーでもなく、ビジョンでもなく、売上の数値でもなく、
福利厚生もでなく、給与でもなく…人だ。

僕はこういう選択をする人間であーるといっておいてから、
まあ給料が安いより高い方がいいよねえとは思ったりするが、でも人だなあと。

冷静に考えてみよう。なんで人、人いうか。
人って簡単に「成長」させられない。なぜなら「意識」が必須条件だ。
しかもその意識は、生卵が目玉焼きになるようにではなく、すぐに「言って」変わるものでもないし、生まれるものでもない。

こういう点を考慮した経営者が一体どれくらいいるか分からないが、
もしこれを考えている経営者がいれば人の成長はものすごく早い会社だと言えちゃうかな。

人を見れば分かる。その人から、その人の属する会社までが。
もちろん、何人か見ても分からないかもしれないけど、そこは問題じゃない。
そこは理屈とかはスルーして、自分の感性と直観、要はインスピレーションに相談して
決めるべきかなと。

勤めた会社にしばらくいたいという人もいるでしょう。
もう辞めたいという人もいるでしょう。
こっそり転職をしようともくろんでいる人もいるでしょう。

色々な人がいるでしょう。

でも、やはり声を発しないと届かないわけですし、
その声を誰に届けるかもありますが、どちらも自分次第ですわな。
そいつをしないと、おそらく誰も分かってくれないという状況になりますな。

まさに、臆病な自尊心、尊大な羞恥心というのは、これのことですな(おぉ

人を見下したらやはり、その程度の人間なんでございましょう。
見下されたらその人もその程度なんでしょう。

そんな小さな世界で生きる必要はなく、もっとフィールドは大きい。
それだけはどんなに枯れても記憶しておかないと、終わりかもしれませんね。