学生時分にいってた言葉がある。
そう。「環境は自分で作るものだ」って。
周りがクソだと思ったら、自分から変えるか、そこから逃げて別の場所で動くか。
大抵どちらかだ。僕は前者はあまりにもパワーがいるので、逃げてしまう臆病者だが(笑)

社会人になると、完全にそれが自分に振りかかる…ってことかな。
要は、自分の境遇を嘆いても、「で、それが?」となる。まあ変えられないこともあるだろうけど。
何でも自分でやらなきゃいけない。そりゃ無理なものもあるけど。基本はそういうことらしい。

仕事が出来れば、おそらく先に生まれたとかそういうのは関係ないようだ。
年齢が上…というだけでは、ハンデではない・・・。

全力でライバルを潰し、最後に笑うのは私。
そういう考え方と、同時に、
「皆平等に生きていこう」とまさしくキレイなことを思ってしまう。うん、これは嘘じゃないな。

結局、矛盾している。

これもまた学生時分にあった・・・。
矛盾は悪いことだーみたいなことを言ってたし、人につっこんだりもした気がする。
現状がそうなら、こうあるべきじゃないかって、矛盾をあばくというかそういうのがあった。
若かった…(笑)

おそらく、こうだ。
自分が矛盾しているがために、人の矛盾を撲滅したいというような・・・。
いわば心理学を学ぶ人が、自分の悩みを解決したいがために・・・カウンセラーになりたいというような・・・。
ヘンテコなものがあったと思う。
あー、そりゃ自分の悩みを解決するために、心理学学ぼうが自由さ。
だけど、私は苦しんだから分かるのっていうのは、ちょっと危険だと思ったり。

そりゃ、共感できるからそういうことするのは・・・いいさ。
でも、そもそもカウンセラーになるって、そういう共感部分だけじゃ・・・厳しいかなと思うわけさ。
冷静さも大事だし、常にクライアントがいるよりも、クールに割り切った方が、いや割り切らないとやっていけない。
これは、仕事が楽しいと思っていても、同じことがいえると思う。
ある種の割り切りがどこで必要だと、そう思う。というか、そうなっちょるわい。


自分に勝つために生きる。よく分かりづらいが、こういうシンプルなルールで生きるというのもありかもしれない。
毎日が楽しい状態にもっていくために、僕は努力しているかもしれない。そうじゃないかもしれない。
とにかく、人と会って行くことを…大学の終わり頃から意識し始めたと思う。

昨日読んだ本(本屋はサイコー!)に、今の若い人は、いろいろな人と話すコミュニケーション能力がないと
さらっと書かれてた。バイトの面接で…という文脈でだ。
圧倒的に経験不足という、前書いたかな。高橋歩という人が、AERAのさらっとした記事にコメントがあったので
印象深い。

要は、簡単なことだ。高校くらいになって、イロイロな人と話しているか…とか。
大学入って、大学の友達、サークル、バイトくらいで固執というか、環境を固定すると、
多分、年輩の人とかって話す機会がない。バイトの接客で話すというのもあるけど、ボランティアで活動してというのもあるけど、
それは、経験量的に少ないような気がする。

意識の問題といえば終わりだけど、接客はバイトのために、お金のために、小遣い稼ぎのためだし、
ボランティアは少し違うかもしれないけど。

今もたまに戸惑うけれど、いつの日か忘れたけど、人と話すのは楽しいと確信できたことがある。
出会いっていいなとそう純粋に思ったことがある。それは忘れてないけれど、いつかは忘れた。
そう感じてから、色々な人の話を聞くこと、話すこと、相手の応答を確かめたり、自分との共通点を探ったり、
冗談をぶちかましてどれだけ効くかをみたり、今後も連絡を取りあえる仲だとは思わなかった人が実は…だったり、
口調は穏やかではないけど、優しい人とか、本当に色々な人がいるなあと思えた。

おそらくこういう感覚は、コミュニケーション能力が高いという人には共通してあるものじゃないかと睨む。
と、自分がコミュニケーション能力が高いとは思わないが、低いとは思わない。

コミュニケーションとは、べらべらしゃべる・・・ことじゃない。
意図が通じるかということで、伝えようすることだ。伝わらなければコミュニケーションじゃないかもしれないけど。
話が上手いというのは、コミュニケーションのアドバンテージ?の1つであって、コミュニケーションじゃない。
よく話す人は嫌いではないが、それで人の話を聞かないという人はかなり心苦しいわけだ。


周りに大した人間がいないなら、大した人間を見つければいい。
というよりも、見つけるために動かなきゃいけない・・・と思う。
そういうことをしないで、環境や境遇についてうだうだいうことも一瞬はあっても、
やはりそんなこといっててもしょうがないと。そう思えるのが健康的だと思う。