ま、楽に。(何がさ

知識馬鹿と呼ばれる人がいる。
これは、知識をひけらかすとか自慢するだけで、中身がない人のこと。
どっちかというと、専門的なことをやるとそういう方向になりがち。
自分もその要素がないとはいえないから、気をつけたいっと。

「本好き」とか「本読み好き」というと、その印象は、
「本ばかり読んでいる」ということになる気がする。
少なくとも「活動的な」印象を与えないのが、まずい。
おっと、別に「活動的な」印象を与えないことがまずいわけではないのだけど、
良いイメージにはならない気がしている。

少なくとも自分が「本好き」っていう人に対して、妙な同族意識(笑)を抱かないし、
抱きたくないという変なところが、僕にはある。あ、どうでもいいな、これ。

本好きだと、本の世界に入り浸っていて、現実を知らないのではないか。
本と会話していて、人間と話せるのかどうか。やばいんじゃないか。
本読んでいて、頭が活字で固まってないか。やばいんだろう。

とか思われそうであるので、ある種「本好き」とはカミングアウトであるとすら思える。
というのは、考えすぎだろうか。僕はそうは思ってない・・・と。

活字離れだから、活字好きになると、活字馬鹿になる。
どうすりゃいいのさって感じになるが・・・。まあここはバランス、程度、周りに良き人がいたかどうか、とかで色々変わりそうなところ。というわけで、大した問題じゃない。

だからこそ、僕は知識馬鹿や本読み馬鹿という人をイメージしたり、「あ、やべ」とか思ったりして、反面てーちゃあにしてきた。んだ。それが戦略か作戦かは知らないが。

で、僕の理想というか、こうでありたいという本読みスタイルがあって、
それは「印象深い」ところを自分で徹底的に消化し、その消化を人に話してさらに磨いて、
その本の面白さ、本の楽しさ、しいてはその本を読みたいなと思わせる事、そういうことを水面下で狙っている(笑)

自己満足という言葉は少々誤解を招きやすいが、でも自己満足でない他者満足ってあるんだろうかと思う。多分ない。
もちろん自己満足が全て他者満足じゃないんだろうけどね。

現実に活かすだけが全てではないけれど、普通食べ物でいえば、
食べたものがやはり消化、吸収され、排出されるように、
本も、活字を頭で食べて、それを消化して、吸収して、いらんもんは忘れるというような
感覚にしている。1日3食、食べる人は多いだろうが、それくらいの習慣に本読みが定着している。

活字中毒と呼ばれようが、あまりにも活字から離れていると「発狂」しそうになるくらい本は好きだ。

古典から過去の先達、賢者と対話できる面であったり、
自分には遠い存在だが、この人すげーと思える人と本を通して理解し合えるところとか、
小説で想像力を喚起させ、そして現実にフィードバックできる話とか。

斉藤孝氏の「読書力」という本の中で、
本読みしなくてもいいとか、本読み好きがいってはいけないんだ。なめんなよ、ってなくらい強い口調で書かれているところがある。
これにはゾクっとするものがあった。そうなのだ。僕もそのくらい真剣に本を大切にしたいし、
本を消化したいし、本の素晴らしさを広めたいとやはり本気で思っている。

その1つの試みである私設図書館構想。
次に学校の図書館のパラダイム転換構想(えーそんなのあるのかよ。)

日本は本を読む人が多いらしいと何かデータみたいなものがあるらしいが、
そんなのはどうでもいいんだと思う。実際に本って読んでも死にはしないし、
馬鹿にはならないし、頭使ってどんどん「人」に触れて、人のはかなさを感じたり、
楽しさや馬鹿さを感じることもできる。

要は「使いよう」なのだが、本ってそういうツールだとはまず思われにくい。
本好きや文学者、そういった本に携わる人間は、こういうところをきっちり、
自己流なり、自分なりの定義で理解しているし、見ていると思う。というか、そうに違いない(笑)

だからこそ、「本」が1つの消費財?的な商品とは思えないんだと思う。多分ね。
だからこそ、本が好き。本好きなんだと思う。

でも同時に、「本ばかり」読むのは僕は嫌だと思う。
やはり人間嫌いとはいえ、人間が好きであり、本好きであるとはいえ、
本読む気がしないことはあるからである。これぞ人間って感じで楽しい。

ここまでっと。

これは「本読み馬鹿から本好きへ」っていうタイトルがいいかなあ。
難しいなあ。ちょくちょくかいていこうっと。うふふ。