続きといいつつ、間があって忘れた。

とにかく、子どもどうこうの言う前に自分を見よと。
大抵馬鹿子どもは、馬鹿親だからだと思う。
多分これは覆せない。例外は本当に少数だろう。

子どもは良い教育を受けるべきだと思う。

ある友人に言わせれば、おそらく反論があるんだろうが、
「教育は与えるものじゃない」みたいなことを言われそうだから。

でも、僕は教育を押し付けたいなんてちゃんちゃら思ってない。ちゃんちゃら?

良い人と自分が思う人に話を聞いてもらうとか、
そういうことじゃないかと思うんだ(思えよ。

それがセンスを磨くことだと思う。
同時にそれが限界でもある。親の、というか人間の。

例えばお金を結構だして、「良い」教育だと思って子どもに受けさせた(表現上こうなるが、他意はなし)けど、
それは子どもにとってはあまり意味がなかったとする。
でもそれは、親のセンスがそこまでだからと言ったら?
鬼か?悪魔か?

多分そうともいえるし、そうともいえないこともある。

それでは、子どもの自主性はどこにあるのかと。そういう人が必ずいる。そこにいる(笑)

自主性なんてものは、ある程度の土台がなければダメというか、ないものだと思う。
それは「自由」が束縛も何もないものだと勘違い(これは賛否両論あるだろうけど)するのと同様に・・・。

例えば、カードゲームで遊戯王ってのがあった。
それで楽しむ子どもにとって、遊戯王で遊ぶのは自主的であると言えるだろう。好きだし楽しいから。
この場合、遊戯王がどういうゲームであり、どうやって遊ぶという前提、知識があって、
そしてそれを楽しむ方法(対戦する、強いカードを集める、コレクションする、大会に出るなど)を知っているから言えるのだと思う。

つまり、別に子どもだからといって、自主性が発揮するのは不可だとは絶対に思わない。
が、その土台がやはり狭いのだと思う。そこは事実だとにらみたい。

それを「視野が狭い」といってもいいし、20歳未満は「責任能力がない」といってもいいと僕は思う。
別に子どもを年が小さい子を馬鹿にする気はない。
こういわないと、友人が食いついてくるから。言うまで(笑)

だから子どもの視野を広めるのは、親のスキル、腕の見せ所でもある。手腕だ。
矛盾しているようだが、同時に「見放す」ことも重要だと思う。

例えば、親が子どもに立派な教師になってほしいと思うことは自由だが、
それを実現するのが子どもの自由では決してないことは言うまでもないだろう。

自分は調理師になりたいんだ。うまいメシ作りたいんだ。それで人の喜ぶ顔をみたら、それでもう満足。(そういうのは僕にとっては本を提供することかもしんないね。聞いてないって?、ああ、そうかい)


自主性が全て善とはいえないのは、当たり前田のクラッカーだ。
なぜなら、自主性が子どもに負担となる場合があるからだ。
これを都合の良い僕の解釈といってもらっても全く問題ない。
実際にそう思うことは僕自身でもあるが、同時にそう思わないこともあるからだ。

自主性。いや、強いる?
その名の下で、なんでもやらせる親もいる。なんでもというと大袈裟だろうが・・・。
色々な家庭があるといえば、それまでなんだけど。

なんでもやらなきゃいけないというのが、仮に「自主的な考え」ではなかったら、
つまり「自主的になんでもやるのが良い」というのが、教え込まれたものなら、
それはやはり問題なんだと思う。

自分でやってるから、といってそれが負担になっていて、
実際に自分でやってない人に比べて何も出来ていないように「見える」人は
僕は結構見てきた。

それは親を頼る、人に頼るというのが結構大きなところか・・。
って、この話はここで終わり、次の話へ。

ふう。