人間は記録っちゅーもんが好きだと思う。
オリンピックは常に記録を破れるかどうかの1点に尽きる。
といって、選手の自己ベストを尽くしたかどうかを無視する私。いやん。

音楽もそうだ。CDなんちゅーもんも、記録。

HDDにバックアップした上にさらに幾重にもして、保護するバックアップ。
これも記録。

紙に書いておくメモも記録。

記録と記憶。曲。(謎

僕の歩いている一歩が別のヒトの一歩とシンクロ(同調の意ですな)させるのは
結構簡単なようで難しい。
「シンクロした!」と喜べるのは、やっぱ偶然の一致の要素が強いからだと思う。

こも=れ=び氏は、爪痕(つめあと)的スタイルを提示しておられた。
思うにブログが継続できるかは、スタイルの有無じゃないかとふと思う。
いいつくされた「好きにやる」だ。スタイルっていうとかっこいい。中身一緒なのに。

こういうことがあった、でも何か変だ。聞け!というスタイルとか、ね。

自分のスタイルを曲げることは、まあ「妥協」とかいったりするけど、
それに意味があるかどうか、はやっぱ自己判断の世界。the wolrd of JAPON。
どうあがいても、自己と他者は違う。その共通点に麻薬のような、依存性を感ずる。
しかし、共通点だけみていては単なる依存者同士になる。
だから差異、異質な点を見たい。そうすると、ピリっとスパイスがきいて、バランスとれると思う。

「あえて?する」というのは、不本意だが何かをやるということも含まれるかも。
人が不快になることを「あえて」やる場合もあるんだろうと思う。
でも、そこに自分が大いなる愛(笑)でやったらいいんではないか。
で、それで嫌われたらそれも一興なり。

脱線。

こも=れ=び的スタイルに対抗し、こちらのブログはどうするか。
そうスタイルを言葉で表現。

あるアニメの中でこんな(ような)言葉がある。知らなくてもしっていてもどっちでもいい。
「雨の中傘を差さずに踊る自由があってもいい。それが自由というものだ。」

前なんかの本で、狼か犬に人間が食われる(鳥に食ってもらうやつもあるしねえ。葬式で)って
なんて人間は自由なんだってあった。
それと似ている気がする。多分ね。

それくらい人間なんぞちっぽけなのに、いつしか勘違いしてしまったらしい。
まあ、それも一興なのか。とにかく、自分が「正義」だとおもったことも、
結局「世に評価」されてしまう。自分一人の社会、なんてあり得ないあり得ない?ってことになりそう。むが。

自由とは束縛の中にあるという言葉も良く聞く。
そう。その通りだと思う。

自分がまだぺーぺー(未熟者の意)のころに、
「自由ってなんでも好きなことやれること」って思っていた。
でもそれは、違うんだって思った。
もちろん、希望とか夢とか否定するんじゃない。

そうじゃなくて、その意の自由は、いわゆる規制がないなんでもやれる社会だ。
人々が暗黙にあった掟を明文化(文章にすること)したら、それは法律となったとさ。
それは世界史のギリシャあたりを攻めれば分かる。単純だ。
そうしないと、「支配層」が存在していたら(現に貴族がそうだったわけで)その支配層のやりたい放題になっちゃう。
だから明文化。

法律を窮屈とか、そういう声もわかる。が、ほとんどの人は「そこで完結」してる。
なぜ一歩踏み込んで調べてみるとか、しないのかと思う。おっとイチローは別(笑)
だって好き嫌いだもん。法律は好き嫌いじゃない。

レールの向こうに人がいたら、石がみえたら、危ないとおもって、ブレーキ踏むっしょ。
え?踏まない?それは、社会を無視、即ち人間を無視、即ち自分を無視しているってことに
なりませんか?
え?ならないって。むう、表にでろい(笑)

って、わけで、出かけてきます(笑)