なるほど。毎日12時間近く会社にいたら、そりゃ他にする気なくなるわ。

でも、おそらく重要なのは、12時間やってる仕事が面白いということに尽きる。
そうすれば、仕事は学びになる。ので、だから別の学びも出来る。
これを勉強2乗和の法則という(嘘
いや、2つ以上のことを並行したほうが効率がいいという考え方だけ。
1つに集中が決して上手くいくというのでもないのが、世の常なり。

こっから蛇足。

「がんばっても結果がでなきゃ意味なし」というのは、言葉がおかしいと睨む。
がんばる、がんばっている、がんばろう、というのは「主観的基準からの上昇志向」(笑)であって、他人が評価できるものじゃない。ん?
Aさんを見たBさんが「がんばっているね」というのは勝手だが、
Aさんが頑張っているという証拠はない。Aさんが「頑張っている」といって初めて真実味を帯びた会話となる。
しかし、Aさんは「がんばっている」といっても、自分が頑張っているかどうかは、自分でしか決められないという問題がある。これを主観判断というが、(というか、普通だ)これが出来ない人に、「がんばる」という言葉は不適切だろう。不適当か。

ここで言えるのは、頑張るという言葉は使う力量がいるってこと。
下手なコックに料理は作らせないわけじゃないが、頑張るという言葉の意味を使える力がなければ、意味がない。それこそ、無駄だ。

どうすればいいか、提言しよう。
まず、「頑張る」の定義をする。もちろん人によって異なる。
Aさんは自分が疲れた時にでも仕事をすることを、ある時「がんばる」というなと決めたそうな。
Bさんは自分がやりたいことをもっとしたいときに「がんばる」といったそうな。
これだけでも大分違う。

Aさんは頑張るのは、否定への忍耐だが、Bさんは更なる発展という意味で使っている。

ちなみに、僕はBさん派で頑張るを使っている。

うつの人に「頑張れ」といっていけないのは、おそらくAさん派の意味で「がんばる」を取るからだろうか。

言葉の問題だが、言葉が全ての時もある。
相手に合わせるか、自分を貫くのか。非常に悩ましいことだ。

戻る。
がんばっても結果がでるでないは、誰が決めるのか。この発言は評価みたいな話だ。
がんばっているかどうか本人が決めるのであり、結果は誰からも分かるものだ。
だから、「がんばれば何でも出来る」のは、当たり前だががんばる人言った人次第である。
というか、「がんばれば何でも出来る」という人は、普通「頑張っても結果がでない」とは自分ではいわない。皮肉か、それとも言葉の有意味性か。

結果は目に見えるものなのに、頑張るというほぼ「精神的な尺度!」で測るのはおかしい。
ということで、「がんばっても結果がでない」というのは、意味のない言葉だといっていい。
だから「がんばっても結果でないな。もっとがんばらナイト」というのもおかしい。

ここで大事なのは、言葉遊びじゃなくて、
「頑張るって何か」「結局何を頑張ってやっているか」が大事であって、それを見ることだと思う。
つまりそれこそが、具体的な行動、計画、見直しといわれる、PDCAとかPDCサイクルになると睨むわけだ。

よし多分新しい「頑張る理論」が確立できたな・・・。


次。
「せどり仕入れ商品」は1つ1つが自分が仕入れたもので、愛着が湧く。
愛着までいかなくても・・・。思い入れが何かある。だからより嬉しいのだと思う。
それだけ。

次。
「我慢」とか、「石の上にも三年」とかいう。
これは慣れる大切さを忍耐と捉えるから問題になるのだと見切る。
つまり、物事は最初はなれないから分からない。でも、慣れてくると見えてくる。慣れは怖いものもあるけど。
で、慣れて見えてきて、ああこれでいけそうだというのがあればいい。
でも、そこでなければ自分で決定したほうがいい。会社なんかとくにそうか。
石の上にも三年だが、慣れを見極める、見えてくるものがあるかないかというほうが大事だと思う。
忍耐。これは大事ではない。忍耐は慣れまでの助走期間と考えるのが我流。


次。最後。
「労働集約型」というのは、労働をそれこそ集めるタイプのもの。そういう仕事。
プログラマーとかなんかその典型とされる。この言葉否定的っぽいが、あまりそうでもない気もする。
つまり、人的資源を「1人月」といったりするする業界だが、それくらい一人の力は計算される範囲でしかないということだ。力技といえばいいのか。
でも逆にいえば、人がいなきゃ何も始まらないということだ。
だから、ITバブルで人をたくさん要したんだろう。納得だ。

普通、人→機械になってきている流れがあるのに、それに逆行している。
しかも、それがIT業界なんだから、面白いな。アナログ仕事でデジタルライフみたいなコピーだ。


最初に。

タイムマネジメントとはいわなくても、やはり時間は同じしかない。誰にも。
寝てようが遊ぼうが勝手だと思う。殺しとかは止めてね。脅しも。強盗もね。
だからこそ、人が何に時間を使おうが勝手だと思う。ということは?
何をしているのか?と聞くのは一般的な質問だが、普通人は仕事や職を答える。
最も時間を費やしているもの=何、に相当するというわけだ・・・。
まあ、どうでもいいや。

ここで一つ提案。
何をしようが勝手だからこそ、Aに時間を割いた人が、Bにも割きたいが時間がないとする。
ここで、AとかBとか何でも良い。趣味のことでも、遊びでもなんでも。仕事でも。
その場合、Xさんとしよう、XさんはAに時間を割いたからこそ今のXさん、Aがあるといえる。
というか、そうに違いない。
しかし、YさんがXさんとは逆に、AではなくBに時間を割いた。

ここで問題が発生する。
「他人の芝は青く見える」らしく、XさんはYさんに
「Bいいな。」というかもしれない。

でも、これは基本的にNGだとしておこう。
人のやっていることを羨ましがるのはいいけど、ならなぜBに時間を割かなかったのか。
と考えてから言って欲しいものだ。

ある人は「色々やりたいことがあるから」という理由でこの問題を片付ける。
これは偽りという。なぜかといえば、したいならすればいいという基本的原理があるから。

言い訳ではないが、自分の判断を良しとしていないのか、満足していないのか。
その点が引っかかるわけだ。自分がしたいことをしてないないからこそ、言う可能性が95%か。
そんな人間捨てちまうぞー(過激