他人を見て、自分の経験からモノを考えるとき、腹が立つことがある。

それは、他人が「昔の自分のよう」であったり、そうやれば確実に失敗するという経験があるのに、それを他人がしているときである。

実際には、何者にも個人の行動は止められないのだと思う。
つまり、その人が変わることがなければ、何も変わらないということだ。

自分を他人に投影するのは、勝手であり、それに怒ること、腹を立てることも勝手である。
しかし、それだけで終わるとは到底思えない、
この社会、人とのつながりがすべてだ。誰ともつながっていない人を僕は見たことはない。少なくとも、見たいという気はしない。
芸能人のスキャンダルや不幸で、ニンマリする人間(そんな人いるのかね)にはなりたくないということだ。

反面教師とする。
つまり、他人が自分とは違うわけで、その他人をみて、自分への糧(かて)とすればいい。
自分へ還元するわけだ。それはある種客観視であり、冷静さでもある。

自分ならこうするのに、と人は思ってても、大概言わないものだ。
僕は言うときも言わないときもあることを自分の中で知っている。
言うときは、「言いたい時」であり、言わないときは「言わなくてもいい時」というのが多い。

意見を求められなければ意見を言えないのも少し恥ずかしいかもしれないが、
まあだからといって、意味のない意見(人の話を聞かない人とか)を声高に叫ぶのもあさましい。なんか徒然草、いや、枕草子みたいだ。はるはあけぼのー。

自分への還元をすると、スっとした良い気分になる。
しかし、それでも「どうしてそうなってしまうのだああ」と叫びたいことがある。実際に叫んでおまわりさんに捕まりそうになったこともない(フェイント

腹が立つってあまり好ましくないことだろうが、「否定」から生まれる「肯定」もあるので、
結局「感情的」にいつもなっているのは、「おかしい」けれど、感情のない人間も変なわけだなと思う。

ということで、結局「自分を正当化」して、このエントリも終わる(笑)