僕のポリシーというかかなり頑丈で、固いものがある。それは

人に支援などできない

というものだ。

先に断っておくと、NGO、NPO、ボランティアで社会や世界を良い方向にしている方は文句なしに素敵だと思う。

でもそれはスタイルの1つだ。

僕は人に何か、言葉は難しいけどとりあえず、援助とか、支援とか、サポートとかそういうことができない。というかしたくない。

同情という言葉は嫌いだ。共感ならいい。でも共感も一歩間違えると変な気がする。

自分の感情と100%一致などありえない。もちろん普通はそんな100%一致なんて意味で使わない。だから「分かるよ、その気持ち」という言葉はあまり使わない。たまに使っちゃう。いやん。

例えば、支援ではないが、カウンセラーというのはどちらかといえばその手の職業だ。僕はこのカウンセラーほど胡散臭いものはないと思う。

おっと、先に(後になってる)いっておくが、カウンセラー的な仕事をしている人、別に病から救うわけじゃないけど、そういう人は素敵だと思う。ただ僕はそうなりたいとは思わない。

よく「素敵」という人をみて、「そうなりたい」「あんなふうになりたい」という人がいるけど、僕は120%思わない。強い断定。


面白いことに、精神科医や心理カウンセラーの優れた人?の著書は必ず「僕らなんて大したことはしてない。ただ相手の話を聞くだけです」というように謙虚だ。謙虚すぎて涙がでるくらいだ。

尊敬もする。ただ僕は職業的にそうじゃないとカウンセラーなどつとまらないとも思う。
尊敬に値するが別にとりあげるほどではなくて(失礼な言い方だが、あえて)そうではないと無理じゃんとも思う。

そうじゃない先生のところへ話などしたくないだろうし。患者的視野からみる。

ひねくれものなのだろう。そういってしまえばそれまでだ。僕は人に援助や支援などできないと思っている。不登校の子に対して「学校へいくこと」を狙ったとしたら、どうすればいいか。

おそらく、「その子が行きたい」というまで何もしないのだろうし、むしろその手法しかない。自分から「行ってみたら」とはいえないのだ。非常に精神的につらい。それがカウンセラーだ。

本当?まあ、そんな感じじゃないかなと思う。どうでもいいことかもしれない。

哀れみをかけるのが嫌いだ。ダメならダメといってほしいし、自分もそうする。それが自分から発するのが先なのか、相手から発するのが先なのかそれは知らない。でもスッキリする。

間接的な日本の表現やオブラートに包んだ表現が嫌いなわけじゃない。むしろ大スキだ。

要は肝心なところでスパっといわないと、はりとばしたくなるってこと。おそらく不登校の子に、「なんでおめえ学校いかねえだ。死ね」とか言いそうだ。まあ半分冗談だが、半分本気かもしれない。それくらい危険な生き物。ザ・自分。


こういう考えの人もいるだろう。それは、「まあ支援なんてできないよ。でもこのままじゃだめなんじゃない?そう。だから少しでも良くなるように、自分が出来ることをしてる」
素敵な考えだ。僕もこの考えは好きだ。
でも、何かひっかかる。超個人主義というのは、おそらく集団協調主義になる気がする。

楽の楽は苦。苦の苦は楽。裏の裏は表。協調の協調は個人主義。個人の個人は協調。


ある本にこんなことが書かれていた。なんの本だったんだろうか。
「自分が生きていて良いことはプラス。悪いことはマイナス。そうやって得点をつけてふりかえってみた。すると、今はマイナスになった。だから死ぬ」そうやって死んだそうな。
死者を笑いたくはないが、「可能性」という言葉の意味を知らなかったのだろう。世の中分からないものだという、可能性。悲しいかな。

希望の光が見えない。だから生きている意味がない。まあそういわれればそうかもしれない。というよりも、青年はそういうことを、社会の不可解なところを考えたり、自分の人生を考えたりする時期だし、そうだと思う。自分を肯定する力が無かったのか・・・。それとも中途半端な自己中か、それか中途半端な協調君になってしまったのか。

前も書いたかもしれないけど、「伝説の教師」というドラマで、松本氏が演じる教師の言葉が好きだ。別に松本氏は好きってわけじゃないのだけど。
「中途半端な正義は一番の悪」

なぜか納得できる。

10代が起こした殺人事件の動機は理解できないし、したくないが、まあ狂人は狂人にしか分からない理由もある。神秘主義(違う

中途半端に生きるかといって生きている人はいい。でも結果的にそうなってしまった人は不幸だ。不幸?まあそうじゃないかもしれないけど、不幸じゃないのかなあと思う(控えめに)。

いつも何か「させられて」生きている。もうそんな人生やめませんか?

これぞ究極の個人主義。個人主義布教ブログを目指す(笑)