例えば、自分を表現するには自分で表現したほうがいいという
当たり前のような話がある。

と、書いたのは、実は自分を表現するのは、
他人が表現してくれたほうが、仮に表現力が高く、
自分をその人がよく知ってくれているならそうしたほうがいい。
ということもいえそうだ。

まてまて、と。
そもそも自分より他人が自分のことを知っているのか?
と思われそうだ。確かにその通り。

人は自分のことは自分が誰よりも詳しいと思う。
それは自分をそのように思うことで、自我同一性みたいな、
自分が自分だということを意識できているからだろう。
実際に、誕生日という知識を自分以外は知らないことが多い。
しかし、その誕生日を知っているからといって、あなたがあなたである
証明は永久にされない。

どちらかといえば、これは「氏名」に関する概念といえばいいが、
自分だと思っている性質はほぼ同質の人がいた場合、
端的にいって「キャラがかぶった」りするはずだ。
その場合、自分が観ている他人が、自分に見えることもあるかもしれない。
変な話だが、全て起こりうるだろう。

だからこそ、自分が自分で自分のことをするのは、
当たり前だと思う。というところから、一歩外れてみてもいい。
やりすぎると、自分のことが出来ない人というレッテルを貼られる可能性が高いが、
まあ、それはその人のやり方次第であるということができそうだ。

人がもし代わりにできる表現で、かつ伝わるなら
その表現にはのってみてもいいのでは?と思っている。
そんな気分だ。