以前から、自分の独り言は、
その頭のメモであり、いわゆるコンピュータでいう「メモリ」であって、
それは一度起動したら記憶されているけど、
もう一度再起動したら消えている・・・くらいのイメージ。

だから、メモ的であって、そこからどうアウトプットしていくか、
それが大事だと思っていた。
そして今もそう思う。自分へのログである。
よくブログとして公開する意味はないとかもあるけど、
まあ、そもそも積極的に公開しない時点で、
人に知られることもないので同一。

あと、今まで何度となく、同じような哲学というか、
独り言について、ネット経由でやり取りした人も多い。
でも、何かある種の属性、性質があって、
会えないけども、面白いみたいなものがあった。
で、別にそういう人がダメとか、自分もその類だけど、
どうかということすら感じることが薄くなった。

つまり、どういうことかといえば、
乱暴にいえば、一緒に関わって何か残すとか、
アウトプットという形にしないと、どうにもなというところ。
これは少しおかしいのだけど、そもそも、何かネットのやりとりにおいて
何か残す目的はなく、単純にコミュニケーションするという、
それはとくに「人」の「関係性」において、すごく絞られていた話だったと思う。
それが盛り上がるし、こういう人はいるけど、こう考えたらいいとか。

多様性って言葉もある。
が、正直、多様性なんてかなり怪しい言葉だ。
僕自身、偏見がミスジャッジか、防衛か、分からないし、
一生分からない。つまり、そういうものだという認識がある。
これを冷めているとか、ロジカルだとか思う人もいるけど、
そういう気分ではない。むしろ、どうしようもないけど、
諦めずに思考停止せずになんとかしたいなーってところで、
留めているといったほうが正確。もちろん、答えはないけど。
それを気持ち悪がる人もいそうだ。僕は全く気持ち悪くない。

さて、本題。

一周したかどうかはおいておいて、
やっぱ「こうじゃなくちゃね」という、自分らしさの定義、
いや定義しなくてもいい「これが自分らしい」で終わり、そこで
文章は終わる。それ以降の追求は自分次第で、そう言い切れることが
大事かなと思っていて。その人らしさなんて伝わることはほとんどない?
こともなくて、大いに伝わるものだと思っている。

ベクトルがどこかで変わった気分ではない。
すごく自然体で、気持ちが落ち着いている。嵐の前の静けさとか
良い表現。一気に何かまた来るという感じ。
これは、半年に一回くらい来る感じで、去年も同じような気分が、
夏ごろにあったかと。6月くらいがそうなりやすいというか。確かだけど。

自分を追い込んだり、どんどん削っていって、最終的に残るものは
なんだろうと考えるのが好きで、
彫刻家例えば、チェーンソーアートでもいいけど、どんどん削って作られる、
ようにみえるけど、実は、既に出来上がっているものを具現化する、
のでは全く視点が異なる。ただの木の塊にそれが見えるだろうか?
見えない。僕も見えない。設計図かいて、こうでしょう?
でも、実際にそれを見ても作れないはず。スキルは磨かれる。

でも、それをいとも簡単にやっている人いる。彫刻家だ。
それってなんだろう。プロセスが分かっても真似できない強さ。
それを自分もやりたいなと思っていたら、言葉があった。

言葉というのは抽象的な意味でも、具体的な意味でも、
言葉は言葉である、というところ。
ツールでもいい、道具でも、コミュニケーション、作文、国語、
表現、小説、新聞なんでもいい。コピーライター。キャッチ、広告でもいい。

言葉というものを好んで食べてきた。食べるというと
意味が分からない人のためにいえば、言葉を調べて自分で、
こう使ってみるとか消化する作業。とても好きだ。
例えば、最近使えない言葉として「有り体に」って言葉がある。
この言葉を使うと自分は使えないなーみたいな、妙な居心地の悪さがある。
ただそれだけだけど、使っている人はどうかは知らない。
あと「頭がいい」という言葉も微妙すぎて使えない。
分かる人は分かると思うが、そこは割愛。

自分は場を創るとか、創るとか、何か0から1とか
そういうものに興味があって、あと編集するとかね。
でも、そういうものって、実は、ひとつのアイデアで全部解決できるというか、
そもそも課題はなにかってことからいくとしよう。
一つずつ冷静にいこう。

まず、僕の課題としては、正確にいえば、僕が課題と思っていることは、
何をすれば、自分ではなく、周りの人が面白くなるだろうか、
という意識だ。これは大した意味はない。そう思ってしまうから。
例えば、なぜ人々は自分がやりたいことをやらないのか、ずっと不思議に思っていて、
そう考えていると、やりたいことをやってない人が歯がゆくて仕方ないという気分も
あったし、今もある。が、どうも、思考とか考え方でそう思えない。

つまり、僕の見方だからそう見えるのであって、本人はそうではない。
少なくとも、逆で、僕が何でそうできるのか不思議だという心境だろう。

この課題は結局何かしらのアクションを自分がしないと解決しないことに気づいた。
それは、何でもいいのだけど、自分が人生捧げてもいいとか、これで死ねるなら
幸せだとか、例えば先ほどカレーに納豆を乗せて食べたけど、
これはやはり上手い。幸せを感じている。カレーと納豆で幸せっていいと思いませんか?
そういう幸せがあればいいとかそういうことじゃなくて、ただそこにある幸せって意味で。

さて、そんな課題を解決するとかは、かなりお節介になってくるが、
どうも、そういうお節介とは別で、もっとプラスというか、良い風にとらえて
考えればいいなあと思い始めた。

昔、仕事をしていて、何で将来何をするとか、こんなことをしたいとか、
考えないんだろうとか思っていて、どうもそれは教育とか、何かもあるけど、
そもそもパーソナリティーとして、その人の個性と思っていた。
そして、それもあると今でも思うと踏まえた上で、
単に「表現できてない」だけではないかと気づいた。

それは、そのままいえば、
「私は今が苦しい。何かうまくいかないことが多いし、
そしてこれからも何か面白いことがないと思ってしまう。」
なんて文章で全てが表現できてない。量の問題ではない、
表現、つまり、言葉の問題だ。

こんな文章で全てを語れると思う人はいないかもしれないが、
少なくとも、書いた時点でそこに書き手が宿るのは確かだ。
嘘を書いても嘘がそこに隠れているという意味で。もちろんばれないかもしれないが。
嘘を嘘じゃなくてという前提が小説だとも言えるわけだし。

例えば、自分は色々やりたいと思っているけど、それを言葉にできない人も多い。
それに対して「言葉にすればいいんだよ」は、多分適切ではないし、
またアドバイスも出来ない。つまり、表現力スキルがありすぎる、またはなさすぎるために、
自分を表現出来てない。だから、伝わってない。だから僕もわかってないし、誤解している。
だからこそ、上に出てきた個性って捉えちゃったんじゃないかと思った。
もちろん、全面リニューアルみたいな気分じゃない。なんというか、そう思ったということで、
自分の中立性を証明しようとしている、かなと思っている。それはどちらでもいい。

話を戻す。
だから、言葉を使うのは僕であって、あなたは話をすればいい。
僕がストーリーを創るし、またつくるって嘘が嫌なら嘘のない、あなたの言葉を
つなげること、またはあなたがピンと来る言葉をたくさんだすから、
しっくりくるね、って言葉を使えばいいのではないかと思う。
というか、それをしようとしている。

シゴトコレクターは、インタビューといってるけど、
多分「言葉」にこだわるから、きっと、主観が大事といいつつも、
出来る客観視をするだろう。また、物語を創ることも仕事になるだろう。
物語って、別に小説ではない。編集のテクニックにきこえるかもしれないが、
「飴玉をなめて、仕事にいった。風邪で喉が痛いから。」
って文章は、それなりに伝わるかもしれないけど、
「いつも食べている飴がある。その飴がコンビニに売ってなかったから、
別の飴を買った。だけど、やはり食べる気になれなかった。」
みたいに書くと、たかが飴だけど、おや?っと変化を感じる。
これを創作だといってもいいが、どうも創作って感じではない。
単に、飴をどう切り取るかでしかない。
それをここでは人の思いとかとしたら、それを切り取る、編集するのは、
僕のような編集者の数だけあるし、また客体の数だけある。客体とは人そのものだ。

分かりやすくいえば、
写真とは、風景とか対象となるもの数、または時間もあるが、それと撮る人の数だけ
作られる。生産されるというよりも、作られる、生み出されるといってほうがいいだろう。
ある種編集とは、意図があるし、またそれを伝えるための意図もあって、結構分かりづらい。
ただ、明確に言えることは、
僕が編集者と名乗ることで動きやすくなること。
また、雑誌の編集とかそういう言葉を使うイメージで伝わることはどうでもよくて、
僕は言葉ってものを愛していて、どこまでそいつとともに社会に切り込めるか、
そんなチャレンジをそろそろしないとダメなんじゃないかと思い始めた。
これは全く、自分の話。

出版もいいし、小説を書くのもいいし、言葉って武器の磨き具合はイマイチという
評価があったとしよう(笑)でも、食い下がってトライをしてしまう。
自分を表現できる人間が人を表現することが出来ない可能性もあるが、0ではない。
また、自分を表現できない人間は人を表現できないは正しいと思う。
どちらにせよ、やってみないと分からない。そういうことだ。

さて、ぐるぐる回って巡り巡ってここにたどり着いたというよりも、
実は根底でそれが流れていた、無意識に流れていた、でもそれで
闘う、勝負する、やってみたいというのがちょっと変だった、または
多分これが正解に近いけど、自分の中でしっくり来ないということだったのではないかと
今では思っている。

常に可能性のあるものに対して、
または、自分がチャレンジしているものを選んできたし、
またはそれが面白いと思って選んで道を開いてきた。

そういう意味でまた道は開かれるし、楽しいものが出来てくるだろう。
最初は誰もが下手だけど、練習すればうまくなる。
そういうものを見せてみたい。