垂直と水平。
タスクを並べていくと、自分だけでやっていても足りないものがある。
まだまだ節約して、つまり自分が動いて費用を出さないようにしているが、
そういった考えも捨てる時が来るだろう。
というか、捨てないと、いつまでたってもステージは上がらない。
ステージを上がること、すなわち善とかそういうことではない。
単純にそうしたいからであり、影響力とインパクトを重視するので、
そっちを尖らせる必要がある。平均化は不要。
例えば、こういったサービスはないんですか?
というニーズは聞くが、それに全て答える必要はない。
それは、別でやって下さい。またはやって欲しい。という回答が現在正しい。
やり方として、色々な方法があるが、
結果的に、つまり意図するしないに関わらずそうなってしまうことはよくある。
それは不思議で、かつ科学的に説明しづらいが、それに導かれる、例えば
北極星的な、磁場的な何かが働いているかもしれない。
だからこそ、結果的に、そうなっていること、そうなってしまったことを
大きく意識するかどうかに関わらず、受け入れる。
受け入れていくことで次が見える。
そんな気分がある。要は大胆にかつ慎重にみたいな心境。
垂直に掘る人間は多いが、というよりも、
意識しないと横にいくよりも、人間は縦に掘る人間ではないかと
思ったりしていて、例えば、哲学を勉強する人が、先人のことを知ろうとするのは
当たり前だが、そうではない現代社会という横を見る軸、最近のニュースに対して
フックをかけるのはなんだか「意識」とか「練習」とか、トレーニング的なものを
しないと出来ないような気がする。あくまでも直観。
自然に落下するように、重力のように、人は縦にほる、興味を磨くならば、
横にという動きは、重力に反する。だから、辛いのかもしれない。
心地良いことをやっていれば、実はそれはそれでいいのだと思う。
でも、ぬるま湯に浸かってしまったら、そこから脱出するのはなかなか難しい。
自分はぬるま湯につかるならば、水風呂に入るか、熱い風呂に入り、
自分の状態をチェックしたいと思っている。
分かりづらいかもしれないが、自分の状態を知りたいと思っている。
世の中は広い。
知らない考え、面白い、刺激的な本、人、アイデア、もの、サービス、
知恵、知識、情報、おいしい食べ物、理解できなさそうなものからありとあらゆるものがあって、
全ては多分味わえない。というか、出会えない。
限られた人生だからこそ、何にリソースを割いて、
何をして、どう生きたいかってことを考えることはなんどもしていて、
そして今もしているのだけど、
やはり、どこか自分が得意だったり、好きだったりということを、
うまいところ、社会に適応していけるようなそういう人生を
歩んでいこうと心に決めたことがある。
それはうまくいえないけど、かっこよくいえば決意だし、
かっこわるくいえば、自分を鼓舞する自分がんばれコールだろう。
結果的に、自分の満足を目指すよりも、やはり多くの人に満足とか、
幸せとか、いわゆるベネフィット的なものを提供すること。
それが自分の使命というと気張ってみえるが、使命といわずに、
まあ、やってみたいことといったら、うまいところ着地するだろうと思う。
くすぶっているという、いわゆるうまく着火、点火してないときは、
やはりうまくいかない感が強くて、ある程度の実績があっても、
なかなか満足度が低いのではないかと思う。
それは単なる主観、いや考え、見方であって、
ある人からみれば羨ましいと思えるのかもしれない。
他人の芝は青く見えるということだろう。