現在地はどこだ?
目標と野望、希望や夢は?
なぜそれをした?

そういったことをどうでもいいやーといって
スルーしておいて、さて考える。

僕は何をやっているのだろうか。
自分自身の力のなさにイラツキすら覚えるが、
しかし、だからといってあんぐりと口を開けているのも
なんだかなと思っている。葛藤180度みたいなところか。

強引でも色々な切り口、入口を広げる努力みたいなことを
地味でもいいしやっていかないとダメみたいだ。
というか、そういうことをせずして何かうまいところやろうとしてる人もいるが、
楽するポイントを間違っている気がする。
もちろん、そういう人とは何かやることはないけれど。


具体化できる能力の差異は、経験値にあるが、それは大きくはそうであって、
全てではない。見聞きしたものしかイメージできないという理由で、
想像をいきなりできることはない。
が、経験に頼る創造は創造ではないともいえるわけで、
つまり、具体化が経験のなさでできないのは、創造を拒否する理由にはならない
ということになるが、これは伝わるのだろうか。

とかげのしっぽ切りみたいなリスクヘッジというか、
色々やっていって、色々失敗しても、色々成功する点があるから、
結構さくさくいっていいんじゃないかと思ったり。

仕事化する技術みたいなものって、
見えないからこそ、営業とかじゃなくて、色々知りたい人はいるだろうって
それは分かるなあ。自分も知りたいものだし。どういうレベルであれ。
だからこそ、きちっと形にしていけるように動いていく。

働き方みたいなことを考えるのが仕事になることはないだろう。
でも、それに関して色々試して考えて、その結果を伝えることができる。
そして、そのように生きている人、つまり自分なのだが、
それを伝えることで何か影響を与えることができる、かもしれないということに
気づいた。ということは?
もっとやらなきゃいけないし、やりたいのだ。待っている人がいるとはいえないが、
待っている人がいるのかもしれないなと。
 
仕事の作り方みたいなイメージで、
その仕事の小ささというか、大きさ?は何でもいいのだろうと思っている。
それをどう取ってくるか、どう作るか。アイデア次第といえば、広義のアイデアで、
アイデアがないといえば狭義のそれになる。
実は、そういったところは丁寧にもっと話したいが、なかなかうまく
説明できない部分が多いからいえないのだ。

霧は晴れるのを待つものいい。動くと危険だし。
でも、晴れている別の土地に行ってもいいのではないかと
思ったりしている。ステージは誰が選ぶか?人生は誰が選ぶか?
自分だろうと。人の人生ではない。僕の人生だ。

コンセプトがあればどうとかでなく、
揺ぎ無い軸。コンセプト。コア。その強さを知る。
それがないと逆に何をやってもできないだろう。本当に何をやってもダメだろう。
逆に、コアがあれば失敗をいくらしても次がさらに磨かれていくだろう。
その重大さ、重さ、強さ。同時に弱さでもある。
 
イメージ、絵が描けている、抽象化された、チャレンジなどという言葉は
麻薬のように甘いかというと、そうではない。
何かというと、それは言葉、いやそもそもそれを目指すのが自分とか、
存在ならば、存在から社会に対して影響を与えられるといっていい。
麻薬とは、依存ということだ。その言葉によって、何もできてないことを
説明する言い訳装置ということではないということだ。
だからこそ、目に見える形にして、人に伝えていきたいと思うのだ。

実力が足りないことを痛感し、
そこから復活というよりも、もっとできるし、
まだ全然できてねーとか思ったところで、やっとゴアゴアしてた
なんかモタっとしたものが消えた。ありがたいところ。ようやく吹っ切っていけるー。