自分を出すとは一体なんだろうか。
これは難しい。

自分はこういう人間ですよといっても、
全く共感されないこともあるし、また大きく共感されることもある。
面白いのは、大きな共感者ほど一緒に動ける可能性が
低いケースがある。なぜなら、個々で動くからだ。
お互いの協力とは、協力というワードが出てきてから動くのではなく、
一つその前にクッションがあってそれで動くスピードみたいな・・・
うまくいえないのだけど、1時間話して同じ絵がみえたら大体いけるとかね。

表現をすることで、共感を求めるのかどうかは分からない。
ただ、どうしても伝えたいことみたいなものがあって、
それに向けて人は歩んでいるのかもしれない。多分そういう人、でない人も
一杯いるだろうけどね。

金がないことを恥ずかしいというのは分からないでもない。
でも、金がない、という人を恥ずかしいやつだな、恥ずかしい人だなと、
思う人のほうが僕は恥ずかしい人間だと思う。

人のつながりが大事だという人で、お金がなくて苦労している人みたいな人って
なかなか出会えない。なぜなら、人はある程度対外的にお金については
語らないものだし、結構サバサバしてないと胆力というか、自分を客観視出来ない。

でも、お金について悩むというか、なんていうか、
考えない人生も「ない」わけで、どのステージでどう振舞うか、適性をかましていくか、
それは対社会といってもいいし、対自分、対相手、対パートナーでもいいし、
とりあえず、簡単にいえば、 「必要なとき」を設定するのほうが自分は楽だなと思う。
必要に迫られるというのもそれに含められるけど。

失礼ですがの後の続く発言は、そのままカウンターを食らうことが多い。
失礼を承知で得るものを覚悟するか、またはそこから自分がカウンターを食らうのを
覚悟して望むべし。

課題をひとつずつクリアしていく、地道さと、
壮大とはいわなくても、将来の、未来の絵を描く、そしてそれを人に伝えることが
できないと出来ない仕事は結構ある。というか、それが出来ない人は多い。
だからチャンスであるといっていい。

ひとつずつトライしていくという地味さが、意外に企画とかプロデュースという言葉から
連想されないから、地味な仕事ともっといったほうがよくて、
そのイメージがどうこうでなく、伝わらないのはいくつか損をしている可能性もある。
思いつくかどうかという二元論ではない。確実にそこには科学的要素と、
再現性というものがある。