お世辞にも人に言えるほどではないが、
一つだけこつがあるような気がした。

例えば、自分に置き換えてもらいたい。
Aさんは「仕事ないので困ってます。仕事下さい」
といってきた。
あなたはどうする?

仕事があれば振るかもしれない。
でも、仕事というのは、色々あるわけで、
何をAさんが出来るか、そして実際に出来るかは本人の言うことと、
実際のそれは雲泥の差があることがある。
つまりは、信頼関係であり、またその人がどういう人かを知らないと
頼めないのではないかと思う。

もちろん、難易度低で、誰でもできるような仕事なら、
そういうところで適当にやっちゃえるかもしれない。
が、そういう仕事は価値が低いので、当然あまり報酬は高くないかもしれない。
どちらにせよ、Aさんがどういう人かが分からないと振れないだろう。

もし、逆に誰でもいいからうまい仕事があるという儲かる話みたいなのだと、
これは注意する必要がある。大抵はネットワークビジネスだったり、
何か怪しいものが多い。もちろん、代理店として何かを売るのも同様のケースが多い。
自分がうまくいっているのを人に振る人がいるとしよう。
その場合、なぜ自分なのかは疑ってかかっても疑いすぎなことはない。
なぜなら、本当にあなたのことを考えいるなら、その仕事をきちっと説明して、
具体的でかつ、分かりやすくいってくれるだろう。
で、なければ、怪しさがある。気を付けた方がいいだろう。

さて、Bさんは
「今こういうことをしています。またこういうことができますが、こういったものが足りません。
もし、何かあればご紹介下さい」
といってきた。

信頼レベルはどちらも変わらないという条件で、
そして、色々話を聞いていくと・・というのも変わらない。
要するに時間はかかるだろう。
でも、「私は仕事がないから、下さい」というのは、
直球だが、その人に「仕事」を与える理由、意味、意義、何かがいるのだと思う。

義理や人情だけで仕事が回るわけではない。
そのために、実績やこういう期待やできそうだという何か(極端なところでいえば、
挨拶ができるか、何を考えているか、情報があるか、アンテナの感度は、
人とうまくコミュニケーション撮れるか・・など)がある。
そこはその人が何をみているか分からないが、
まともな人なら、仕事をするときに色々な確認と、また手続き、そして
どういう絵をイメージするかを探るだろう。まともならばの話だ。

それらが出来ない人、またはしない人は疑ってもいい。
それは仕事があるからどうということではないのだ。
ここらへん、卑屈になっても仕方がないところだ、心したいところだ。

AさんもBさんも、ほとんど能力が同じかもしれない。
スキルや実績、年齢や生まれも似ているかもしれない。

でも、極論は、多分こうだと思う。
自分が相手を知っていること、その人=仕事、だと考えるなら、
何かそこから生み出せるかが、その人に感じられるかどうかということ。
多分、相手が何も失わずに相手に何か求めるだとか、
あまりフェアでないもの、正確にいえばフェア感がないものはすぐうまくいかなくなるだろう。

相手を知らないから仕事ができないというより、
仕事そのものを相手をしってやるかどうかというスタンスの有無だと思う。
もっと極論すれば、相手を知らずしてやっているところで、良い仕事は出来ない。
ここでいう良い仕事は、長くお付き合いができて、かつ色々な人に価値を与えるような、
仕事のことだ。これは、とても大きな話では決して無い。

小さなことで、小さな仕事でそれができなければ、
大きな仕事でもできない。小さな仕事でそれができれば、
実は大きな仕事でもそれをできる可能性が高いといっていいだろう。

ホームレスのおっちゃんがいて、その人が家がないから、
家に来いという人はマレだろう。僕もそうだ。
同様に仕事がないから仕事を与える人もマレだろう。
その人が信頼出来る人ならばそうだが。
とはいえ、仕事は待っていて降ってくるものではない。雨ではないのだ。
気候が変われば何かが起きるわけではないのだ。
そこを知らずして仕事が出来るなどといえる人はまずいないだろう。
逆にいえば、待っていれば仕事が来るレベルになった人がそういうのはホンモノだ。
でも、そうではない人がそれをみて自分が出来ると判断するのは、
少々判断をまったほうがいい。自分に圧倒的に自信があればそれをすればいいが、
大抵は失敗する。もし、失敗したときに、きちっとそこに戻って考えること、
つまり、左にいったが、実は袋小路だったら、そこでまた戻ればいいのだが、
人は迷路に入ると冷静に戻って・・・という思考が鈍くなる。
鈍いというよりも、元々なければそれができないといったほうがいいだろう。

人が困っているのを助けるのも疑ったほうがいい。
逆に自分ならどうするかを考えてもいい。
中には全く自分と違う動きをする人もいるが、それはそれで例外として、
うまい話だとか、何か怪しいなとか、違和感(何かずれている)を大事にして、
そして、自分が関われるレベルでやってしまえばいい。

怪しさがあるものに、突っ込んでも多分それが怪しくないものだったとしても、
怪しさは残るのだ。それは何でも一緒である。グレーだからどうだということではない。

仕事は恵んでもらうものではないかもしれないが、
時には頂くという謙虚に構えることも大事だ。
全て謙虚とはキレイすぎて、聖人君子ではないと思うならそういうのは
スルーして、きちっと仕事をとり、きちんと誰かに回せばいいのだ。

信頼関係が全てというよりも、それが土台になってしか回ることはないかもしれない。

長々と書いてきたが、
こつとしては、貧乏だからその貧乏を助ける人はまずいないということだ。
それは当たり前かもしれないが、貧乏ではなくても、
自分が旅先で困ったらどうするかみたいなことを考えてくれればいい。海外だとなお良いだろう。

そこで、あなたは旅人から助けてくれと言って助けるかどうかだ。
お金なのか、飯なのか。分からないが相手がこまったから助けるだろうか。
助けるとはあなたが助けられるだけのものがあって、
かつ助ける意志がある場合だ。相手が脅迫するケースは除く。

そこで、あなたは助けたいから助けるのだ。
そういう意志はなぜ起こるか?同情か、それとも自分がもしかして
困ったときに助けてくれた時、あの感じ?かもしれない。
理由はなんでもいい。あなたはその人を助けるかどうか選ぶことができる、大抵の場合は。

貧乏に戻そう。
そういう貧乏であるときに、人は優しく手を差し伸べてくれるかもしれないし、
全然スルーされてしまうかもしれない。

それはあなたが相手に、社会に、他人にしてきたことであるかもしれない。
簡単にいえば、あなたが今まで、あなたが他人にしたことは
宗教ではないが、多分戻ってくると思う。多分常に、あなたが想定した以上のことを
それは優しさか、面白さか、何か分からないけれど、
そうやっている人がいつもいるからそこで証明できる。

あなたが人を助く時があったのか、あるのか分からない。
でも、あなたが人に助けられることがあれば、
きっと、あなたは人を助ける人になるだろう。ならざるをえない。

世の中そんなシンプルさで回っていると思える。

そして、仕事の話。
仕事も、色々な人との関係でしか生まれない。
営業とは関係先を増やすということである。
相手が相当ケチ?でない限り、またコミュニケーションが不成立でない限り、
相手はあなたことを考え、あなたは相手のことを考えることになる。
それがビジネスであり、商売であり、また人に対して仕事をしていくというものになる。

僕の話に戻そう。
僕はだから、困った人があれば見過ごすことはないけど、
誰でも助けることはないし、その人の希望というか、何か考えというか、
そういうものがOK!と思えるなら、あまりお金が返ってこない心配だとか、
何か問題がとか、そういうのは気にしない。思い切って任せる。
こう考えられるのは、実はそうやってしてくれた人がいたからであって、
そうじゃなきゃこういう考えはできない。これも連鎖であり、教えてもらって、
学んだ自分がいるということになる。

だから、ありがとうといいたい。
そして、僕もまた別の人にありがとうといっていくのだと思う。

まとめると、仕事でありがとうと言われて、そしてありがとうといっていくと
良い仕事になっていくし、そういう人に成長していくだろう。