例えばこうだ。

目の前の人を助けない、いや、助けられないというのが
実際の心情に近いんだろうけど。
でも、結果的に助けていないことになる。
でも、何かしたい、でも、やらない。最初からやらないってのもある。
どちらにしろ、そういう葛藤みたいなのものって、
とても人間らしい。業といえばいいのかしらん。

前投資、先投資として、常にインプットをしていかないと、
アウトプットは枯れる。アウトプットベースのインプットはいいけれど、
それはインプットをできるという話。
目の前のことでアウトプットだけしていると、
速攻枯れる。枯れたら枯れたでインプットすればいい。
が、実はそれらを連続的、継続的に行っていくには、
常にインプットが必要となるわけだ。

で、これらはインプットとか・・・そんな横文字で終わるのではなく、
思考とか哲学とか、そういうものに関わっている。
だから、読書ってのは、例えばだけど、考えるし、深まるし、
とても良いものだと思っている。それを本ばかりよんで・・・って
人はいるけど、それは本ばかり読んでいるだけだから意味がないような。

学生のインプットレベルそしてアウトプットレベルは知れている。
別にナメているのではないが、事実と思う。
で、そこで年配者、大人と戦うのではなく、工夫として出来ないことをやるとか、
それがどういうレベル具合かで決まってくる。
そして、学生の本業はインプットベースが多いので、アウトプットをしていきたいなら、
もちっとどうやってやるかを考える(インプットでもアウトプットでもない)必要がある。
哲学とはアウトプットと書いたが、インプットでもあるし・・。

できないのは、単純にインプットがないからか、
目の前のことをきちっとやってない、つまり怠惰かどっちか。
で、インプット足りない時はインプットをやるために耐える作業になる。
が、耐えるのでなく、楽しむという視点を入れていくと面白くなる。
 
最終的に、シンプルなところに落ち着く。
複雑さは圧縮できないが、シンプルさは圧縮できる。
だから、展開・解凍もできる。複雑さはそれができない。
複雑さとは、人間の成長のことだ。仕組みとは、単純+ハードルというところで、
障壁を作るだけで、シンプルさが常に残っているはず。

客観視が好きなのではない。単に、地図を持たずに旅に出るようなもの・・
というか、持っていなくても旅はできるだろうが。
絶対視=客観視みたいな考えの人はいそうだが、それは違う。
絶対は常にない。主観も客観もある。同じことを全く違うように述べる人がいる。
そういうことが出来る人が、メタ化。つまり階層を一個上にして考えることができる。
具体的な例をまとめて、抽象化しないと、その概念は常に説明が出来ない。
具体例で説明ができても、要約ができないことはあまりないが。
 
失敗だと逆がいえる。
同じ失敗を繰り返すのは、メタ化だったり客観視が出きていないということでもある。
 
自分の立場を利用して、強要するのは嫌いだ。
人間の器が小さく、相手にするまでもないけれど。

ばれないからいいとか、そういう小さなことを裏でやっていると、
必ずボロがでる。というか、レベルが低いことしかできない。
それで継続できるから、さらにレベルが低いままを維持する。
本人は「うまくいった」と思うが、周りは「低レベルなものを維持」しているなと見る。
小さなことこそがそれが100%出てくる。
分かりやすいのは、「モノ」の扱い方。
例えばペンを乱暴に扱う人は、乱暴に扱うから「どうだ」ということはないが、
それの印象を相手から考えるとかまでのレベルにいってない。
で、そういったことを「やっても注意されない」からシツケの問題でもあるが、
別にそれがどうということではない。

むしろ、そういったペンの扱い方という1つのことから、
モノ・・・しいては、他のモノ、人の関わりまで乱雑ではないかということが
容易に、それは瞬間的に想像される。
だから、そういった蓄積がたまっていくことになり、評価となる。

よって、小さなことをばれないからといってやってると
必ず後から何かがくるということだ。覚悟したほうがいいと思う。
やってなきゃ逆だ。むしろどんどん蓄積され、人から感謝される人生になる。

非常にシンプルすぎると思うけど。
これは信じる信じないって次元の話ではないと考えている。

 
仕事を作ればやりたい人は多いはずだから、単純な労働力は
まだまだたくさんある。ただ、日本は高い。世界に比べるとだけど。
定期的とか、頻度とか色々な問題はあるし、技能とか。でも、
色々ある中で、なぜその仕事があって、どうしてそれで食えるか、
また持続できるかとか、色々あることを考えることは大事だろう。