思考を整理するみたいな時間をわりと取ると。
そして生まれるものが何かを考える。
トピックか何かだけとりあえず流しておこう。
まず企画においてある程度形成というかこう形になったらいいなというのがある。
が、実はそれをどういっても伝わりづらいこともあるし、伝わっても遅いというのがあるので、
わりと調整するが、ちゃんとやってねみたいなのが前提。マッチョではない。
仕事の価値観、仕事観、シゴト観。当然それらが形成されるか、形成されたそれによって人生が割と決まる。
というと結構極論だけど、どうだろう、人によっては仕事なんてどうでもいい人だっていると思う。
でも、他に社会にいる人と多く関わって何か出来ること、知らないというかないんじゃないかっていうのが結論。
アートでも、それは仕事的にやったほうがいいという感じはある。誤解はありそうだが。
「働きマン」の主人公松岡が言う「仕事したっていって死ぬ」みたいなバリバリな感じは嫌いではない。どうせやるならやったほうがいい。という感覚があるし、まだまだ全然やれまっせというのがあるし、まだまだ本気出してないぜ、でもいつ出すのーみたいなところがある。本気を出した、出しきったみたいなことをやらないと屈伸としての、バネがいつまでも作動しない感じがある。
世の中には情報が溢れている。例えば個人発信ツールの定番となったブログも誰もがやっていて、その信憑性というか信頼性なんて個人で担保するしかない。それって本当に個人が発信しているんだけど、なんかバラ色の世界でもなさそう。
仕事作りみたいなものをトライしていく、伊藤さんのナリワイづくりが現状僕には一番しっくり来る。それがわりとお金になっても、全然ダメでもそのトライが自分の糧になる感じがするし面白い。もちろんそれをブラック的搾取だということも可能。ここも誤解がある。というか多くの人はわかりづらくて誤解をしているだけだろうというのもあるが、それを優位に捉えることもないわけで。信じてくれみたいなことになっちゃう。または皆一回死ねばいいのにみたいな。
なんだかんだいって、僕らなのか、僕なのか、働き方、生き方だとかいって色々と話しすぎたような気がする。話し過ぎたというと偉そうなポジションなのだけど、えらくはない。ただ、もっと実践しないとバランスが悪い。座学しすぎて理屈でハンドルの握り方だけ知っているみたいな・・・。理屈で説明する意味合いはほとんどない、運転できればいいわけで。語りすぎ、話しすぎ何でもいいけど、色々口ばっかなんじゃないかという少しだけ否定していく感じがある。実際に形にしたり仕事を作れなかったら意味がないとすら思ってる。
コミュニティみたいなのを意識していた。ただ、コミュニティも消費される面もある良くも悪くも。個人的には、活用してくれる人は好きだが、集まったら集まったで何かしなくちゃみたいなのがある。当然そういうプレッシャーみたいなものは全くない。
コミュニティ生成1年で、2年目にトライ。ただ、個人リソースの限界とは、つまり色々やって色々コラボしてみたいなのは、実際にそういうコラボしてるようにみえるかもしれないが、ちょっと控える。またはやり方を変えていく。
個人的な成功、または個人的にうまくいったことはある。また失敗したということもある。ぼくらのシゴトだけではなく、色々とシゴトにおいてもシゴトづくりにおいても。トライした結果というのだから勲章でもいいだろう。ただ、やはり逃げられないのは、社会という大きなというより、もごもごと口の中にいる、なんか気になるという連中だ。連中ってのは別に特定の人を指すわけではない。社会はitなのかsheなのか分からないけど。
仕方がない話だが、僕は一人だ。一人というのはどうあがいても、誰かにはなれないし(変身願望では答えとならない)、そして誰か分身を作るのもどうも気持ち悪い(というか無理だけど)。そして、組織化して事業化してみたいなのは普通に選択肢があるが、そういう話ではない。端的にいって、個人で何かをスタートする時に、必ず一人である程度やるみたいなことがないと(たまに誰かと専門的なことを分担するからいいというのもあるが、それってやはり相当の気合(笑)が必須なので、ほぼ一緒なリソースを使うんじゃないかって)ダメなんだろうと。
結論的には、リソースを個人は限られる。それを痛感する2年であったといっていい。物事は良かったといっても、ボリューム感は低い。また悪いと言っても大した失敗でもない。ならば限られたリソースでどこまでやれるか、または何をできたら満足できるかに、そういった欲望?理想?イメージを絞り込んでいく必要があると思った。端的にいえば、やること整理してそれに特化する。それを選択と集中という言葉で表現したい。
まず選択とは、数ある実施していることなどでそれらを一つにまとめなくてもいいから、減らすこと。例えば企画イベントみたいなことは気づいたらめちゃくちゃやってた。どうりで何か時間がないわけだ。時間がないというよりも、それらを継続しなきゃという意識よりも、それをうまく個人リソースシステムに入れてたから気付きにくかった。それらの整理。
次に集中とは、一体自分は何がしたいんだということに向き合うこと。これは格好良さそうだが、わりとストイックで、ストイック嫌いな人にはなかなか一緒に食べると消化不良になりそう。好きな人はいいけど。
結果としては、ナリワイ的に、つまりシゴト自体をどんどん作り、それをスモールビジネスレベル(例えば自分が食える定義は数字でも明確。それに見合うようなものをやるが、人を雇っても数人、または外注でアウトソース)に仕上げる。夢はでっかくもいいのだけど、現実的に言えばおそらくこのスモールビジネスでしっかりと回していくことに集中すると割といい方向にいきそうだという感触。
当然スモールであれ、ビジネスなので全くリスクがないわけではない。しかしリスクを下げ、個人でもやれることをやれば十分に行けるという感覚がある。この感覚のために、2年くらいあーでもないこーでもないということをやってきたといってもいい。というか、そうやって言い切らないとなんともやりきれない話でもある。正直。
ここで外したのは、結構、理想主義的に「社会を面白くする」という言葉が好きだし、また社会って色々な人がいていいなというのがあるし、そういう人に出会いたい。残念ながらなのか不明だが、実質、どんなフリーになろうが、仕事を「自分の生態系システム」で完結できない以上(実際はできない)、人に関わる、提供する原理があるので、当然お金をもらう仕組みだから、結果的に社会を外だと認識しても、その外と関わる必要がある。いや逆だ。もっと社会を知らなくちゃいけなくなる。
矛盾するこの自由になろうとするとより、社会を知ろうとしなきゃいけない。つまり、社会は波であり、その状態を知らないと漁師も魚を釣れない。そんな関係。ただ、集合体となると人は変わってくる。組織や集団の概念、または企業の概念は面白いけれど、色々なやり方によっては全くナンセンスなことにもなりかねない。
社会を知りたいし、より知ることもいい。個別の課題でもいいし、足を突っ込んだら見えてくる何かポイントでもいい。例えば商店街の活性化なんて出来ないというのは(成功例はなくはないが)、そもそもイオンが便利だから商店街の人も行くわけで、そして活性化したい人が外野である。または外野ではなく商店街主=個人、でリソースが限られる。もちろん、するなということではなく、なぜできないかということのある種の答えだ。それをある程度しった上でやるならいいのではないかと思う。
例えばそんなことをやろうとして「あれ?うまくいかないな」となる時、どうするか。わりと参考になるテストワードというか、自分を試す言葉がある。それは「それ大したことないね」っていわれたらムカッといらつく、舐められたとか思われるか。例えば、アイデアに関して「大したことないですね。そんなの僕でも知ってますよ」でもいい。そうなると相当負けたくない。逆に「釣りやるんですよ、すごいでしょ」って自慢されても「へー」だ。何も起きない。
そのイライラとする、負けたくねーな、というのは、アイデアでもあるし、アイデアの実現性でもあるし、どこまで形にできたかにコダワリたいので(お金よりアイデア、例えばお金が実質ないわけであるのでそもそもこう考えないとやってられないのもあるが)、そして、やはり生み出すこと、「結構考えれば何でもできるよねー」みたいな考えが好き、比較的器用=marcoな人間という話でまとめてる、ブリコラージュ色々とやる人、青魔道士的にラーニング(魔法剣士よりいいかも)、というところで抜きん出て生きていきたい。ということになる。そして、ビジネスとは分かりやすく色々なアイデアを形にしてお金が回る仕組みを作るということで、そこでやはり仕掛けると。
そして僕が今やりたいことは明確で、スモールビジネス的なものとしてある程度見せられる形になったらこうしたらナリワイできるかもねーくらいのことは話をしていきたい。当然それを目指す人もいいし、やっぱり勤めるほうが無難という横目でもいいと思う。
人生を思い切り楽しむでもいい。人生を自分の思ったように生きるでもなんでもいい。起業とか、自分でやるとかいった瞬間に、どんな小さなレベルでも、バイトでもなんでもいいから生き抜いてそして最後に一泡吹かせてみせるみたいなことをわりと真剣に考えた。今でもどうにもならない時にどうするかリストみたいなことを作ったエクセルリストが懐かしい。けど、全くそれが消えたわけでもない。今でもある。俺はそんなのやだというのも分かる。理屈としては優秀な人はバイトまたは人からより必要とされる仕事に移っていくというのがある。当然そういうことを考える。
自分が思うようにやってみろと言われて生きてきた。それがある程度の放任なのか、任せてくれたのか。親には感謝している。もしかして僕の思考は全く社会的に適合しないかもしれないし、または全く歯が立たないかもしれないし、勝負のフィールドに乗って行かないかもしれない。ただ、まだまだやり切った感はほとんどない。いよいよ準備は整った、これから出港だという感じだ。
行くべきところに行こう。