ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

2011年03月

自分プロデュース術

古本屋にてゲット。

面白い。

・自分のことをいっているようなコピー
これは、PFドラッカーあたりもいってたような気がするが、
そういうコピーだけでなく、事柄、サービスというのをあてていくといいのではないかと思った。

何をいっているかというと、ここでは、歌の歌詞、サザンオールスターズだったり
Mr Childrenだったりの歌詞。それは皆が聞いて皆が「ああ、自分のことだ」と思うわけだ。

これは他のビジネスでもサービスでも活動でも何にでも言えそうだ。
自分のことをいってるようなことを提供する。それは別にごまかしているわけでも、
卑下になって媚を売っているわけでもない。そこらへんが分からない人には分からないかもしれない。

・やっている感とやっちゃっている感
やっている感の解釈が大分違うが、後者は成果がない、何もやってないのに、という状態だ。
やっている感は、実際にやってないのにやっている感があるというような
ある種やっちゃっている感とも似ているが、ここではポジティブな意味で「やっている」ことを
捉えている。この指摘もなるほどと思える。


・成功する人は言い訳をしない
これはその通りで、確かに言い訳をしたら話が始まらない。
全て失敗を受け入れて進むというところだろう。

おちまさとというと、テレビ番組放送作家、プロデューサーみたいなイメージか
または知らない人が多いかもしれない。
が、著者の考えは非常に参考になった。ぜひオススメ。

 「自分プロデュース」術―どうしても、すぐ変わりたい人へ (PHP文庫)「自分プロデュース」術―どうしても、すぐ変わりたい人へ (PHP文庫)
著者:おち まさと
PHP研究所(2004-09)
販売元:Amazon.co.jp
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金がないなら知恵をしぼれ!ビジネス着想100本ノック

実際には100本とあるが、60本程度しかないので、
100本の真偽は不明。

そんなことより、この本は着想というところで、
アイデアがどこから生まれるかについて、
著者の見聞きしたトピックをどんどん投げてくる。

バットマーク、ボールドとなった文章フレーズに対して、
あなたならどう考えるか。
それを著者がタイトルでいう「金がないなら知恵をしぼれ」である。
まさに知恵出しはお金は不要だからだ。

こういった良書はもっとあっていいが、
大事なことはこういったアイデア、知恵だしを常にやること。
これがなかなか難しい。
しかし、落とし込めば必ず可能。落し込みとは自分が動けるように
システム化してしまうことだ。

アイデアを出して欲しい人はきついが、
アイデアを出したい人は本をかってぜひ自分で考えて欲しい一冊。

金がないなら知恵をしぼれ!ビジネス着想100本ノック金がないなら知恵をしぼれ!ビジネス着想100本ノック
著者:岡崎太郎
梧桐書院(2010-05-19)
販売元:Amazon.co.jp
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問題解決のためのファンクショナル・アプローチ入門

視点が面白い。

色々なサービスや事柄を機能という点で見るわけだ。
カフェが分かりやすい。

カフェはお茶を飲む、休憩する以外に、
人と話をする、仕事をする、読書する、おいしいケーキを食べに行く・・・
など色々な目的がある。今では勉強すると怒られるところもあるだろうけど、
まあ長居しすぎるとね。ただ、長居してくれる客がついていることには
もっと目を向けたほうがいいかなと思ったり。おっとこれは余談。

そういった機能からみていくと、色々な課題解決が出来るという話。

個人的には、メタ化視点を強化してくれる、
デザインの意味(カップの横についてる取っては熱くても持てる用に)とかも
色々応用が出来る。

そんな視点。

問題解決のためのファンクショナル・アプローチ入門問題解決のためのファンクショナル・アプローチ入門
著者:横田 尚哉
ディスカヴァー・トゥエンティワン(2010-08-11)
販売元:Amazon.co.jp
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20歳の時に知っておきたかったこと

スタンフォード大学の集中講義。

読んでから大分経ってしまったのでパラパラと。

この本は、学生にビジネスとは何かを教えるための
プログラムというか、講師の視点が素晴らしい。起業家を育てるという視点。

象徴的なものは最初に出てくる、手持ちのわずかのお金で
それをどこまで増やせるかをチームで考える話。

これは実際にもっとやっていいと思うし、自分もやってみたいなと思ったりする。

こういったビジネス感覚を研ぎ澄ますようなこと、学ぶことは
もっともっとやっていかないといけないと思った。

20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義
著者:ティナ・シーリグ
阪急コミュニケーションズ(2010-03-10)
販売元:Amazon.co.jp
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もう少しで大分固まる

考え続けているものがある。
一つのアイデアでもいいし、そういったものは頭のどこかにいれておいて
都度取り出して確認する。そういうことを今月はよくしている。

気づきとしては当たり前だが、
やはり一人でやろうとしている部分が多い。僕は一人でやる気がないんだが、
まだまだ一緒にやろうという提案が下手みたいだ。今後の大きな課題。
でも、誘ってくれる人もいる。実際に回る部分はある。が、営業的な立ち位置っていうのは、
得意か不得意かでいうと、多分得意。ただ、そのポジションが自分にぴったりという気はしない。
誰かがやってくれたほうがきっとしっくりする。または僕よりうまい人はいくらでもいる。
これは確かな感触として。

そして、ビジネスとしては、いかに自分と違う人が一つの目標に向かって
パフォーマンスを出し切るか。ただ、それだけである。
だからこそ、自分と違う人とつながる。同じ分野にいてはダメだと思う。
それはどんな分野でもいいと思うが、固まってる(悪い意味で視野が狭いという意味)なら
もっと壊していったほうがいいのではないかと思った。

そして、見えてきたものは、
きっと、固執している自分は、失敗したからどうとか、失敗と認めたくないとか、
なんかそういう小さなものでもなく、そもそも手痛い失敗を受けないような仕組みが
完成されていて、今は何をやっても凪。つまりは経験値がどんどんストックされて、
一気にどーんと出るタイミングかもしれないと思っている。
それか、まだまだ経験値が足りないかのどちらかだ。経験値は常に足りないし、
失敗だらけなので増えていくだけしかないので、あまり意味はない。
経験すればよくなるという問題ではないからだ。

つまり、経験が足りないから経験しても、結局そこでの課題は経験値がある上での課題。
その課題は明日が今日となるような感覚であまり意味があるものではない。
もちろん、経験を構築していったほうが良いように聞こえるかもしれないが、
それは僕が経験をして良いと思ってそれが役立つと思うかだけの話。

 

シューカツ!

久しぶりの本読みメモ。

石田衣良の作品。
結構最近のもの。一気に読めるタイミングで読んでしまった。
文庫は最近だが、単行本は2008年ちょっと古いかな。

フレーズとして、著者が主人公である水越千春に語らせているか、
または先輩OBやOGに語らせているような気がしてならない。
それは良い意味でだ。

マスコミ業界というシューカツの象徴。
つまりそれは、一連の流れがシステム化されているということ。
そして、選考に残れない(という考えもどうかと思うが)人はどんどん
手札がなくなっていく恐怖。その恐怖は何度も書かれ、
新卒というゴールデンチケットがなくなることで、仕事につけなくて、
社会の居場所がないというところまでいく。その不安だ。

しかし、そういった「シューカツ」システム自体に「誰だこんなモノを作ったのは」と
シューカツチームの良弘が言ってた気がする。

また、「シューカツを終えてもざわざわした葛藤とか、仕事に対するもやもやとか、
そういったものが全てクリアになるわけではなく、それを抱えていく」といったような
言葉も誰かが言ってる。非常に的をいているなあと思う。

おそらく著者は、シューカツ生にエールという部分もあるし、
また仕事を決める上で楽しんで、色々考えて欲しいとも読み取れるし、
また、最近の学生のシューカツを題材として書くと面白いと思ったなど
色々ありそう。

個人的には、宗田理のぼくらの七日間戦争的な、ちょっと皆で集まって
わいわいやってやろうぜ的な雰囲気が非常に好き。
中身は違うんだけどね。

シューカツ! (文春文庫)シューカツ! (文春文庫)
著者:石田 衣良
文藝春秋(2011-03-10)
販売元:Amazon.co.jp
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僕ならもっとできるから。

自信だ。
でも、キミなら出来るし、君ならもっと出来るという言葉も
同様にあると思う。
人は人を認めるとき、実は人より成長しているといっていい。
また同様に、自分が背伸びしないからこそ、認められることが
一杯あるみたい。
だから、僕も、あなたも、君も、皆も、
皆ならもっと出来るといえる。

世界で頑張る

世界的に動くというのがぴったりくる。
やどかりみたいに、やはり住まいが合わないなら、
動くべきだろう。適した貝を目指そう。
実はそういった、「理想郷」みたいなものはないかもしれない。
が、とはいえ、そもそもないから、どうなんだろうというのもある。
生きるのには小さなサイズで生きるのがいいかもしれないが、
人間の心はそれに縛られない、つまり目の前に縛られない色々なものが
たくさんあると思う。
だから、希望というもので人は頑張れることがよくある。

仕組化

一人あたりの作業コストを減らしつつ、
かつその狙うべき効果は最大にする。
それが仕組化の最も目指すべきところか、と考える。
何を役割として担うのがいいか。
企画、デザイン、営業、事務、裏方、ミーティング、電話番。
色々あるが、自分が仕組化をしたときに、その仕組に従って、
何も考えずに回る。
イチイチ考えたい人には、不向きなものかもしれないが、
そういった仕組化はやっていかないと人は色々なことを
同時に色々できないんだろうと思ったりする。
小さな力で回っていけば、それはそれで大きな可能性を産む。
もちろん、ルーチンでただやっているだけでは、
全く意味がない。思考がそこに入ってこそ、はじめて、
仕組みの価値が生まれてくる。
小さな個々の動きが、チリツモで最大化する瞬間に、
仕組化に対して敬意を払うことになるかもしれない。

学びの場を創ること

海外というフィールドそのものを、
学びの場にするという発想は面白い。
一つの事柄とか、イベントを色々な形で応用する。
それで複数の可能性を産む。
そんなことの繰り返し。
でも、分かることばっかりでもやはり面白くない。
想定外を楽しめるか。予想外を楽しめるか。
または、そういうものを込みで人生を楽しんでいるか。
常にそれが問われていて、そして一気に問われるとき、
それに対して大きな声で言い切る。
それが励ましであり、希望であり、可能性みたいだ。

時間を合わせること

例えば会議などは、時間を合わせて参加者が集まる。
時間をあわせることで、共有体験がリアルタイムですすむ。
というよりも、単に会話をしていることで共有が出来る。
時間を共に過ごすことなく、共有が出来るかどうか。
言葉の誤解は多い。一つ伝わっても他は伝わらないかもしれない。
共有をして、意識を植え付けるという方法もある。
でも、共有は自主的にしかできなくて、強制や強要なら出来る。
共有しましょうといったときに、
共有したくないなら、共有は出来ない。
お互いに出来ないのだから、共有が出来るということは
それだけでなかなか価値のあることだと思う。

自信を崩壊させる

自信があったことで、実際にやってみると、
うまくいかない。なんでうまくいかないんだろう?
ヒントはあれど、実際にそれをうまくやるには、
自分で何が問題かを見付け出して、そこをクリアできるように、
自分が動いて習得するしかない。
自分なら出来る。あなたなら出来る。
自分の自信という枠が何度も壊れても、また創る。
自信という枠を再構築する。
そこから新しい自信とか、自分が生まれるかもしれない。
成長とは、一つの枠をこわして、新しい枠をつくることかもしれないし、
または、あえて自信を壊すことかもしれない。
何も出来てないとか、出来ると思ったけど出来ないということを
感じる時は大いに成長している証拠。

気を使う人

僕がではなく、そうやって色々な人に気を使う人のことだ。
気を使ってしまうので、何かと人の行動が気になる。
もちろん、自分の意志でやっているのだが、
人の中で優先順位をつけることが難しくなる。
気を使う人が良いところは、
気を使わない人が見えない部分も丁寧に対応できるところだ。
だから大事。
でも、気を使う人はそれなりにストレスを受けているような気がする。
受けているというか、ストレスをもらってそれで役割を果たすみたいな、
ちょっとした自己犠牲的な心がある。
美しいかどうかはおいておいて、
僕はとても真似ができないが、そういった人の考え方や
気を使うことで、見える部分があるということは、
大事にするということでとりあえずOK。

生きるために働く

働くことに美しさとかそういったものがあってもいいけれど、
実際にはそういったものはほぼない。
単純に、淡々と、何も考えずに、作業する。
それを仕事だといった大人は責任があるかもしれないが、
そういったことを本当に仕事だと思っている大人もいるし、
またお金=仕事だと完全に割り切っている(そう意識している時点で
割りきっていないのだが)人もいる。
美しさなんてない中で、なんで自分はその仕事をしているのか。
または、なんで自分は生きて、呼吸をして、会話をして、食べて、
そして酒を飲んだりしているのか。そういったことについて、
哲学をする、つまり、考えることと向きあうこと。
それに他ならなくなっていく。これはもうどうしようもないことだ。
これらを考えずに生きられる人はいるのかもしれないが、
大体の人は考えていそうだ。そして、考えた結果、
答えが出るとかそういうことはあまりない。
しかし、自分の中で頭が整理されてスッキリするとか。
そういう効用はありそうだ。というか、逆にそれくらいしかない。
そこで、人生のゴールがある程度決まれば後は楽だ。
それによって、全力で取り組めばいい。
間違っている、またはちょっと違うなと感じたら修正すればいい。
何にせよ、生きることは色々な意味で色々なことがある。
ぼーと生きることはできそうだが、ぼーとしているだけで、
実は色々な作業を仕事も当然だがやっていることに気づいてないだけとなる。
気づけばそれは大きな引っかかりになるかもしれない。
だから、あえて考えない思考も分からないでもないが、
でも実際はそういったちょっと怖いとか不安とかに立ち向かってみる、
ちょっとした勇気、そんなものが必要になっていくのではないか。
ということを思った。

自分を出す場で、出せない人

自分を今出すべきなのに、それが出せない人がいる。
自分もそれを含むが全てではない。
信頼?とは、一方通行ではない。
が、最初のタイミングは人によって異なる。
何をもって信頼とお互いになりうるか。これは難しい。
実際にどうするかは、
戦略といったものが必要となっていくが、
しかし、戦略をいきなり立てるとか、
こうやってこうやって・・・というような将棋やゲームのような
シミュレートをすることを自分でやるのは、結構しんどい。
というよりも、そもそもそういった作業に慣れてないということが
言えそう。人によってその力がはっきりとしている気がする。
例えば、何かやるといっても、本当にそれをやって終わる人もいれば、
実際にその次を考えていくことができれば、
全く意味が異なってくる。例えばそれが終わった瞬間は同じようにみえても、
実はすでに大きな差ができている。

学びに年齢は関係ない

齢は60を超えても、
その人が学びたいという欲求があるというか、
学びたいという想いがあれば、
その人は学ぶ。
学ぶことは学生のうちだけだ。なんてのは戯言であり、
むしろ、大人になってからの長い期間があって、
そこで学ぶ事のほうが多い。
学んでいる人は変化している。
気づく人は変わる。
硬直した頭で何かをやろうと思っても、
頭で考えてしまい、出来ることは少ない。
自分の頭の硬さを嘆く前に、
やはり動いてみて何が起きるかを見てみたい。
そういう好奇心が最後に自分を奮い立たせるみたいだ。

知の創造的摩擦

そんなものがあるか分からないが、創発って言葉は、
知がぶつかりあって、創造的なものに昇華する。
そんな行為ではないかなと思ったりしている。
もちろん、全てそうなるとは思ってないが、
そのようになる
例えば、僕が出す知を誰かがキャッチして、
その人がさらに高めていくということが、
実際に可能だ。それをどんどんやっていくと、
毎日が面白くてしょうがない。
そうやってお互いを切磋琢磨できると、
お互いでお互いをみて、自分も見つめることができる。
そんな関係は理想だと思っていたわけではなく、
今、実際にあって、非常に楽しい毎日をおくっている。

俺を使え

台所のスポンジのように徹底的に使われる。
そのような使えるスポンジになりたいが、
まだまだそんな領域になってないみたいだ。
自分をスポンジと思わずに、
ちょっとたわしだったり、使いづらいものと
思ってしまっているのかも。
どちらにせよ、使われるスポンジだけど、
使用者を選んでいるのは否めない。
そういう矛盾が楽しいと思ったりする。

無意識下の就活

面白い視点。とはいえ、簡単にいえば、
無意識でそうなっているという指摘であって、
本人の自覚はないので、客観的な意見としては何でも言えそう。
要するに、就活する学生で、意識して行動しているところは
あまり変わりはないが(まあこれが正確ではないだけの可能性も高いが)
実際には、社会人と話すとかの方法とかやり方が異なってくる。
それが無意識レベルで出てくるという話。
無意識といえば、意識してないのだから、認識出来ることはないが、
行動に現れる部分は誰にでも出てくる。だから無意識でそれが出来れば、
それを無意識の行動と呼ぶわけだ。
まあ、そんな気づき。
そういう「無意識」で何かやるというのは多いかな。

代役という手法

例えば、自分を表現するには自分で表現したほうがいいという
当たり前のような話がある。

と、書いたのは、実は自分を表現するのは、
他人が表現してくれたほうが、仮に表現力が高く、
自分をその人がよく知ってくれているならそうしたほうがいい。
ということもいえそうだ。

まてまて、と。
そもそも自分より他人が自分のことを知っているのか?
と思われそうだ。確かにその通り。

人は自分のことは自分が誰よりも詳しいと思う。
それは自分をそのように思うことで、自我同一性みたいな、
自分が自分だということを意識できているからだろう。
実際に、誕生日という知識を自分以外は知らないことが多い。
しかし、その誕生日を知っているからといって、あなたがあなたである
証明は永久にされない。

どちらかといえば、これは「氏名」に関する概念といえばいいが、
自分だと思っている性質はほぼ同質の人がいた場合、
端的にいって「キャラがかぶった」りするはずだ。
その場合、自分が観ている他人が、自分に見えることもあるかもしれない。
変な話だが、全て起こりうるだろう。

だからこそ、自分が自分で自分のことをするのは、
当たり前だと思う。というところから、一歩外れてみてもいい。
やりすぎると、自分のことが出来ない人というレッテルを貼られる可能性が高いが、
まあ、それはその人のやり方次第であるということができそうだ。

人がもし代わりにできる表現で、かつ伝わるなら
その表現にはのってみてもいいのでは?と思っている。
そんな気分だ。
 

磨く磨く磨く

冷静さを磨く。
言葉を磨く。
表現を磨く。

あらゆるものを昇華させると、
きっと違う風に風景が見える。
色覚異常は、正常が何かによって異常が定義されるだけで、
多くの人が持っている=正常というよりも、
生命危機を招くくらいが異常というくらいだったら、
ほとんどは異常にならないかもしれない。

もっと自分を磨く仕事を作って、どんどんそれでやってしまえばいい。
遠慮をしている気分は無い。車間距離がつかめないだけで、
どれくらいやったらいいか、どれくらいまでやれるか、
そういったものは手探りでやってくしかないと思ったりする。
焦っても仕方ない。でも、本質を見逃さず、しっかりと自分の頭で考え、
そして判断をしていく。こういうのが自分らしいと思うし、そうやって生きたいものだと感じている。

発想をストックしてもっと広めてもいい。
そういったモチベーションはあげることはせずに、
自分の内なるインスピレーションから抑えておいても、
どんどんマグマ溜まりのように出てくるものを設定するべきだ。
そうでないと、続かないし、面白くない。
僕にとってのマグマ溜まりはアイデアだ。アイデアが溢れて、
社会が面白くなっていくイメージをぐっと明確に見ることができる。
それが一事業、一会社、一国家、一晩飯、一サプライズ、一記念日、
一プログラムでもいいなんでもいいから、アイデアが秀逸なものは
自分の中に明確にストックされる。コンセプトとか、視点というアイデアでもいい。
アート作品でも、文章でもいい。デザインでもいい。メモ帳の書きやすさもアイデアだ。

アイデアという石を拾い続けるためには、自分がやることであって、
それは他人に求めることではない。もちろんやりかたはあるけど、
それを教えるレベルでは決して無い。自分が提供することによって、
人のために役立つ。それが僕のマグマ溜まりを持続して、かつ楽しくなる。
あとは人がそれを求め続けるようにしていけば、お金は後から付いてくる。
シンプルだが、やっとここまでこれた。

これはステップ思考ではない。単に急がば回れであるし、
色々な思考やアイデア、企画、行動が一つになったものであり、
現在の整理の中で明確に見えてきた。この感じをつかみつつ、
色々なことをやっていると見えてくるものが違ってくる。
最初から本質について話せる。楽だ。無駄なトークをしてもいいが、
それは無駄だと相手に対してのマナーがあるというだけである。楽しい。 

先はあるかないかといえば、ある。ただ、それだけだ。

根拠がいらない発言は多い。
というか、根拠がなければ発言できないなら、
未来の言葉というのは発達しようがない。
根拠がないことをいってはいけない、そんなルールはないが、
マナーとしてはあってもいい話。
おそらくとか、多分、きっと、的な推量を示す言葉は、
確定という1の基準を満たさない。
だから、きっと大丈夫じゃないかと思うは、推量レベルが高いが、
しかし、事実ではないということよりも、それによって、
推量する興味レベルにより関心を促すことになる。
何を言いたいかというと、事実そのものより、関心を促すことに
推量は役立つのではないかという話だ。当たり前かもしれないが、
一つの気づき。
オープンになっていくことで世界はフラットになりそうだが、
振り返れば、町内会はあるし、役員のなり手不足という課題はある。
と、同時にFacebookで革命が起きている、ようにみえる。
これは、なかなか一本でまとめてこれだといいきれることではない。
色々な情報があるがために、または統一できないがために、
混乱をしたり、または判断が逆に促されることかもしれない。
大事なこととしては、情報が多くなっても大した情報が増えてない可能性もあって、
それは冷静に見ていく必要がありそうだと言える。
自分に対して興味をもつ人は決して多くないが、
興味をもって何か取り組んでいる人に興味をもつことのほうが圧倒的に多い。
そういった中で、自分がどうその人を引き出せるか。そこだけに集中したい。
お金はあとから付いてくる。きっと、お金を求める人はそれくらいのレベルにしかなれないという
パラドックスが常にある。
所属を創る、コントロールする。たくさんの場を自分が創り、自分が所属する。
そして同時に人も所属する。そういう場を確実に創る。時代は後から付いてくる。

何かやること

例えば、何かやりたいと思ったとしよう。
それはなんでもいい。うまいポテトチップスを食いたいとかでもいい。

その場合に個人に限り、自分一人で完結することなら、
自由な感じがある。ただ、これをどこかで販売したいとなると、
なかなか自由な感じはしない。色々だ。

さて、例えばお金の問題だ。
ポテトチップスを試験的に創り、それを売りたい、というなら、
価格がいくらかとか、場所はどこか、ところでそれうまいの?というところで、
そんなに費用はかからないかもしれない。

そのお金を誰が出すか。自分か、それとも?
材料費以外にも色々かかる、と思えばかかる。
かからないと思えばかからない。

そういったところで、自分の到達地点とか、
やりたいことを確認するのがいい。
結局、お金をかけずにやるというところで、試されるのは、
アイデア。

何か良いアイデアがないか?というとき、
大体良いアイデアは出ない。なぜなら、アイデアが自分のものにならないからだ。
そのアイデアを理解し、どのような背景で、どのような場面で使えるかを
相手とコミュニケーションして読み取る程度のことなしに、
言葉伝達の「何か」だけでアイデアが伝わることがない。
残念ながらこれは時間がかかるとか、他のやり方とか、言ってる時点で
大したものは生まれ得ないということになる。

色々な課題や勉強不足、経験していないなどあったが、
最終的に戻ってくるのはここだ。
つまり、ビジネスを生み出したか、ビジネスのモデルはあるか、だ。
それが出来なければあまり自分が生きている意味がないとすら感じる。
そこがやりがいがあり面白いからだ。これをやらねばならないと思う。
その点において、他のことはなかなか霞んだ興味にしかないならないが、
そこと結びつけるようにとらえると、全ての物事が白黒から一気にカラフルになり
対象が色を帯びて、画面の鮮やかでビビッドな世界が目に入って来る。
それをワクワクといい、楽しさというのだと思う。

 

見た目

パワーポイントというツールがある。
いちPCソフトだが、すでにプレゼンすることと同義の意とすらなっている。
そのパワポだが、それをすることで、内容がアレでも、つまり大したことがなくても、
立派に見えてしまう。これは、どちらかというと、パワポを使い慣れてない人だったり、
またはあまり見たことがない人などに影響が大きい。

つまり、パワポ経験値の低い人、講師側だ。
そして、見る側もPCスキルが低ければすごいことと見えるはず。
世の中にはそんな層というか、人々も一杯いる。

だからどうということはないが、
そのような見た目から与える印象も大きい。もちろん、中身は
すぐにばれてしまうから、ハッタリとしか使えないという面もある。ハリボテの場合に限るけど。

忘れたり、思い出せないようなことって、大したことではない。
むしろ、思い出せる本質で徹底的に磨いていくことが自分の中で
正解にたどり着けることが多いように思う。

社会とかソーシャルって言葉は何かを表しているようでありながら、
何も表してないこともある。実際に、人のためにというとき、
愛する人以外も快く助けるだろうが、やはり愛する人が一番心配だろう。

自分の判断軸つまり、主観的にいって自分はこう考えるということを
大切にすると、溢れでてくるものとか色々あるが、人は感情で動くもので、
実際に客観的データだけで動ける人は訓練されているといっていい。
だから、冷静に動けるとは訓練の賜物といっていい。
人間はそういう生き物だ。だから、感情的な人を怒ることはできないが、
とはいえ、感情的ではない人も面白くはないと思っている。

自分の中の気持ち悪さを大事にする。それは、支援という言葉が
ぴったりくることがなければ、支援という言葉を使うべきではない。
または気持ち悪いけれど支援といえばいい。そういった単純な言葉で
全てがキレイに収まればいいけど、そうでもないのが現実だ。

ヒーローみたいな出来る人が全てやるというやり方は、
きっと今後は流行らない。が、まあどちらにせよ、能力がある人が
リーダーシップや組織を創るとか、あと新しいことをやることに
なりがちなのはしょうがないけど、その人が死ねば終わるってのもな。

レベルが低いことを常にやり続けていて、大したことがない人も同時にいる。
あなたが本当にそれをやりたいならいいが、実はそれは継続と結果で
あなたがどう感じるかで常に分かるものだ。
やりたいことをやったらいい。無理は良くない。無理はやりたくないことを
続けるというようなこと。

 

創ることができない

創ることができない、からといって、
それを認めないのはよくない。
とはいえ、プライドもあるから、
できません、とはいえないのも分かる。
ただ、そういうところとは別の視点から、
自分が創れないから違う関わり方、違うところで
動くのは良いのではないかなと思ったり。

場を創るセンスを磨く

センスはあるのかどうか、はおいておいて、
それを本当にやりたいなら、磨かれていく。
そして人からは「センスがあるね」って言葉で終わる。
自分を信じる。最後まで自分を信じている。

見ているけどみえてない普通。

見る、ことは誰でも出来る。
日本人の多くは日本語が使える、と思っている。
でも、出来ると使えるは違っていて、
ここでいえば、見ているけど見えてない場合、それは見てないとなる。
紛らわしいが、物理的に見ていても、全体をぼやっとみていれば
細かなことは見えないし、本当に情報として視野に入っていても
見えないものが多い。
日本語も知っていて、ある程度会話が出来たとしても、
それで出来るという感覚で一般的にOKだが、
そもそも、使えるという意味では、もっとマニアックなものというか、
大きな挑戦だったり、そこに表現だったり、解説が出てきてもいいのかなと
思ったりしている。
つまり、簡単にいえば、
人が表現する言葉はその表現したかったことを100%表現してないことが多い。
むしろ、全く別のことを言いたいこともあるし、
または補足を強く望んでいたりすることも多い。
だからこそ、日本語が使える人は意外に少ないのだ。なんてね。
でも、これは大きなヒントだと思っている。

自分と向きあうようになる人

アイデア会議だからこそ、その人が何をやりたいのかを
突き詰めるのではなく、
こういうアイデアが欲しいという人自身がそれを本当にやりたいか、
そして何をしようとしているのかと向きあう必要がある。
そういうものでなければ、
きっと根っこがないヒョロっとしたアイデアで、
すぐに出来るものでも、実は一回やって飽きちゃって、
持続はできないかもしれない。
または、持続すればいいとかそういうことじゃなくて、
単にやっても面白くないのかもしれないと思った。
ここにヒントがある。
つまり、アイデアといっても、内実はコーチングに近く、
とはいえ、アイデアも出すところが新たな感覚ではないかなと。
逆にいえば、人は会議やパーティーやアソビで新たなアイデアを
欲しがっていることがあって、そこに人がいれば怒り出す?ことはなく、
せっかくだから何かアイデアをだそうとするものだ。僕もまた然り。
それがビジネスになるのではないかと大きな仮説を立てている。

言葉ことばコトバ

全然ダメという言葉は、自分に言っている。人にはほとんど使ったことがない。
が、人に対してではなく、その仕事に対してならそういうことはあると思う。
全然ダメなものを評価しても仕方がない。
それは面白い、よくやったと応援する、
肯定的な反応が、生ぬるいという感じはよくわかる。
もっとへこまないと次が出来ないだとか、良い評価はいいから、
悪い評価が欲しいというか、突っ込んで欲しいというか。そういうのね。
でも、それはダメですとか、それはダメなんじゃないかな、
やり方が違う、もっと考えてみたらとか、へこむほうが
多いのではないかと。デフォルトとで。
なぜなら、人がやらないものをやっている人と付き合うし、
そういう人と話をしているからって話。
また褒めあってもいいと思う。
僕はそういう場が好きだ。そして勘違いしていないのは、
そこで閉鎖するのではなくて、他の部分でもビンビンにアンテナを立てて、
位置をしっかり把握しているということが重要だ。
励ましあって、それで終わるなら励ます意味もなく。
外に向かうからこそ(物理的な意味ではない)、それを応援するのである。

努力しない

努力なしで出来る人もいるけど、努力している人は成功する。
なんて言葉が。素敵な言葉だと思う。やるね。
名前を思い出せない人とか。
1回目の何々(名前)というフレーズ。非常に印象に残った。
確かに、二度目がないなら、会う必要もないというか、
印象に残すとかそういう必要もないかも。
まあ、一期一会って姿勢は別に二度目会おうってことではないし、違うけど、
その精神がある二度目を見据えたものというか。
相手はこちらを覚えてくれているし、何となく会った覚えがある。
でも、僕は覚えてない。どこでかも怪しい。
愛想がいいとは思わないけど、コミュニケーションは好き。
そんな言葉で僕は表せられるかもしれない。

主催しない

何でも自分で企画して何かやればいいというのはある。
が、実際にそれはそれで微笑ましいのだけど、
もっと大きなことをやるとすると、限界がある。
さて、もっと近しい話をすると、
自分が主催とか企画しなくても、
人がやったらそれに乗っかるというレベルのものがある。
そんな自分の心境を分析してみると、
気負うことはなく、カジュアルに参加する。
そんな感じのイメージかなと。
自分が主催するよりも、企画に参加する側の方が多い。
ないなら企画したほうが早いこともある。
でも、あえて人がやるのを待ってたり、
それにノッカルのも面白いなと思っている。
この感じは、実は、主催するまでもないけど、
とはいえあればいくよみたいな、そういう人の方が
多いからこそヒットするのかなあと。
こういった層は、ジャンルによって分けられるというよりも、
満遍なく存在している気がする。
そこをうまく狙いたい。

メディア化

自分をメディア化するとか、そういう感じの類のもの。
メディアって、何かある種の情報を伝えるもの、というモノイメージだけど、
実は人が何人も集まれば、雑誌や何かに匹敵する情報はあるわけで。
ソーシャルメディアってものが、それを担うかどうかは分からないけど、
井戸端会議、とりあえず食事をするとか、飲むとか、
そういった行為はある種メディアで。
気のあった人と飲むとかって、
やすらぎとか楽しいとかそういうこと以上に
面白いかなーと思ったり。

倒れそうになったときにすがれるもの。

もちろん、自分が倒れそうになったとき、ということだ。

それはあくなき好奇心。興味。関心。
欲求。なんでもいい。

でも、これをやらないと死ねない。そんな感じ。

それを僕はこう定義してみたい、ちょっと柔らかいが
多分これは今後大きく変わらないはずだ。

「アイデアによって人のために立つことをする。
それを、アイデアを提供すると同時に、人の話をきき、
最善の戦略をねって、一緒に創る。
持続するには当然これらをビジネスとして行う」


アイデアとは、ラーメンの美味しい食べ方ではないし、
当然、ラーメンを提供するわけではない。 
おっとラーメンで例えればの話だ。
ここでいうアイデアとは、ラーメンだったら、
どうしたいのかを聴く。ラーメンが実は苦手とか。
ならば、ラーメンが食べれるように考えましょうか、
みたいなことからスタートする。
最終的には何かしらの目標が出来てくる。
それがラーメン屋に一人でいって帰ってくることかもしれないが、
ひきこもりの人ならそれでいいのかもしれないが、
まあ大体そんなイメージだ。

で、ツールとして、
当然、話を聴く手段も今は色々あるので大いに活用する。
具体的には、対面でのブレスト会議もそうだし、
ブレストツールや手法は最低限にとどめ、そもそも、
アイデア自体を僕自身がすごく信じていて、
その「アイデア」の「可能性」に体がもたれかかっている、
つまり、これが倒れそうになっときにすがれるものの答えだ。
もちろん僕がであって、あなたが何かは知ったことではないが、
あるとかなり人生が楽になるかもしれない。同時に楽しい。

すがれるというのは、闇雲に信じているとか
そういう宗教的な心情ではない。
それに助けられた、または希望を見いだせるという意味で、
それに近いといえばそうだが、ちょっと違う。

とりあえず、これこそアイデアだと思う。 

最終的に一周したのか、どこかでベクトルが変わったのか。

以前から、自分の独り言は、
その頭のメモであり、いわゆるコンピュータでいう「メモリ」であって、
それは一度起動したら記憶されているけど、
もう一度再起動したら消えている・・・くらいのイメージ。

だから、メモ的であって、そこからどうアウトプットしていくか、
それが大事だと思っていた。
そして今もそう思う。自分へのログである。
よくブログとして公開する意味はないとかもあるけど、
まあ、そもそも積極的に公開しない時点で、
人に知られることもないので同一。

あと、今まで何度となく、同じような哲学というか、
独り言について、ネット経由でやり取りした人も多い。
でも、何かある種の属性、性質があって、
会えないけども、面白いみたいなものがあった。
で、別にそういう人がダメとか、自分もその類だけど、
どうかということすら感じることが薄くなった。

つまり、どういうことかといえば、
乱暴にいえば、一緒に関わって何か残すとか、
アウトプットという形にしないと、どうにもなというところ。
これは少しおかしいのだけど、そもそも、何かネットのやりとりにおいて
何か残す目的はなく、単純にコミュニケーションするという、
それはとくに「人」の「関係性」において、すごく絞られていた話だったと思う。
それが盛り上がるし、こういう人はいるけど、こう考えたらいいとか。

多様性って言葉もある。
が、正直、多様性なんてかなり怪しい言葉だ。
僕自身、偏見がミスジャッジか、防衛か、分からないし、
一生分からない。つまり、そういうものだという認識がある。
これを冷めているとか、ロジカルだとか思う人もいるけど、
そういう気分ではない。むしろ、どうしようもないけど、
諦めずに思考停止せずになんとかしたいなーってところで、
留めているといったほうが正確。もちろん、答えはないけど。
それを気持ち悪がる人もいそうだ。僕は全く気持ち悪くない。

さて、本題。

一周したかどうかはおいておいて、
やっぱ「こうじゃなくちゃね」という、自分らしさの定義、
いや定義しなくてもいい「これが自分らしい」で終わり、そこで
文章は終わる。それ以降の追求は自分次第で、そう言い切れることが
大事かなと思っていて。その人らしさなんて伝わることはほとんどない?
こともなくて、大いに伝わるものだと思っている。

ベクトルがどこかで変わった気分ではない。
すごく自然体で、気持ちが落ち着いている。嵐の前の静けさとか
良い表現。一気に何かまた来るという感じ。
これは、半年に一回くらい来る感じで、去年も同じような気分が、
夏ごろにあったかと。6月くらいがそうなりやすいというか。確かだけど。

自分を追い込んだり、どんどん削っていって、最終的に残るものは
なんだろうと考えるのが好きで、
彫刻家例えば、チェーンソーアートでもいいけど、どんどん削って作られる、
ようにみえるけど、実は、既に出来上がっているものを具現化する、
のでは全く視点が異なる。ただの木の塊にそれが見えるだろうか?
見えない。僕も見えない。設計図かいて、こうでしょう?
でも、実際にそれを見ても作れないはず。スキルは磨かれる。

でも、それをいとも簡単にやっている人いる。彫刻家だ。
それってなんだろう。プロセスが分かっても真似できない強さ。
それを自分もやりたいなと思っていたら、言葉があった。

言葉というのは抽象的な意味でも、具体的な意味でも、
言葉は言葉である、というところ。
ツールでもいい、道具でも、コミュニケーション、作文、国語、
表現、小説、新聞なんでもいい。コピーライター。キャッチ、広告でもいい。

言葉というものを好んで食べてきた。食べるというと
意味が分からない人のためにいえば、言葉を調べて自分で、
こう使ってみるとか消化する作業。とても好きだ。
例えば、最近使えない言葉として「有り体に」って言葉がある。
この言葉を使うと自分は使えないなーみたいな、妙な居心地の悪さがある。
ただそれだけだけど、使っている人はどうかは知らない。
あと「頭がいい」という言葉も微妙すぎて使えない。
分かる人は分かると思うが、そこは割愛。

自分は場を創るとか、創るとか、何か0から1とか
そういうものに興味があって、あと編集するとかね。
でも、そういうものって、実は、ひとつのアイデアで全部解決できるというか、
そもそも課題はなにかってことからいくとしよう。
一つずつ冷静にいこう。

まず、僕の課題としては、正確にいえば、僕が課題と思っていることは、
何をすれば、自分ではなく、周りの人が面白くなるだろうか、
という意識だ。これは大した意味はない。そう思ってしまうから。
例えば、なぜ人々は自分がやりたいことをやらないのか、ずっと不思議に思っていて、
そう考えていると、やりたいことをやってない人が歯がゆくて仕方ないという気分も
あったし、今もある。が、どうも、思考とか考え方でそう思えない。

つまり、僕の見方だからそう見えるのであって、本人はそうではない。
少なくとも、逆で、僕が何でそうできるのか不思議だという心境だろう。

この課題は結局何かしらのアクションを自分がしないと解決しないことに気づいた。
それは、何でもいいのだけど、自分が人生捧げてもいいとか、これで死ねるなら
幸せだとか、例えば先ほどカレーに納豆を乗せて食べたけど、
これはやはり上手い。幸せを感じている。カレーと納豆で幸せっていいと思いませんか?
そういう幸せがあればいいとかそういうことじゃなくて、ただそこにある幸せって意味で。

さて、そんな課題を解決するとかは、かなりお節介になってくるが、
どうも、そういうお節介とは別で、もっとプラスというか、良い風にとらえて
考えればいいなあと思い始めた。

昔、仕事をしていて、何で将来何をするとか、こんなことをしたいとか、
考えないんだろうとか思っていて、どうもそれは教育とか、何かもあるけど、
そもそもパーソナリティーとして、その人の個性と思っていた。
そして、それもあると今でも思うと踏まえた上で、
単に「表現できてない」だけではないかと気づいた。

それは、そのままいえば、
「私は今が苦しい。何かうまくいかないことが多いし、
そしてこれからも何か面白いことがないと思ってしまう。」
なんて文章で全てが表現できてない。量の問題ではない、
表現、つまり、言葉の問題だ。

こんな文章で全てを語れると思う人はいないかもしれないが、
少なくとも、書いた時点でそこに書き手が宿るのは確かだ。
嘘を書いても嘘がそこに隠れているという意味で。もちろんばれないかもしれないが。
嘘を嘘じゃなくてという前提が小説だとも言えるわけだし。

例えば、自分は色々やりたいと思っているけど、それを言葉にできない人も多い。
それに対して「言葉にすればいいんだよ」は、多分適切ではないし、
またアドバイスも出来ない。つまり、表現力スキルがありすぎる、またはなさすぎるために、
自分を表現出来てない。だから、伝わってない。だから僕もわかってないし、誤解している。
だからこそ、上に出てきた個性って捉えちゃったんじゃないかと思った。
もちろん、全面リニューアルみたいな気分じゃない。なんというか、そう思ったということで、
自分の中立性を証明しようとしている、かなと思っている。それはどちらでもいい。

話を戻す。
だから、言葉を使うのは僕であって、あなたは話をすればいい。
僕がストーリーを創るし、またつくるって嘘が嫌なら嘘のない、あなたの言葉を
つなげること、またはあなたがピンと来る言葉をたくさんだすから、
しっくりくるね、って言葉を使えばいいのではないかと思う。
というか、それをしようとしている。

シゴトコレクターは、インタビューといってるけど、
多分「言葉」にこだわるから、きっと、主観が大事といいつつも、
出来る客観視をするだろう。また、物語を創ることも仕事になるだろう。
物語って、別に小説ではない。編集のテクニックにきこえるかもしれないが、
「飴玉をなめて、仕事にいった。風邪で喉が痛いから。」
って文章は、それなりに伝わるかもしれないけど、
「いつも食べている飴がある。その飴がコンビニに売ってなかったから、
別の飴を買った。だけど、やはり食べる気になれなかった。」
みたいに書くと、たかが飴だけど、おや?っと変化を感じる。
これを創作だといってもいいが、どうも創作って感じではない。
単に、飴をどう切り取るかでしかない。
それをここでは人の思いとかとしたら、それを切り取る、編集するのは、
僕のような編集者の数だけあるし、また客体の数だけある。客体とは人そのものだ。

分かりやすくいえば、
写真とは、風景とか対象となるもの数、または時間もあるが、それと撮る人の数だけ
作られる。生産されるというよりも、作られる、生み出されるといってほうがいいだろう。
ある種編集とは、意図があるし、またそれを伝えるための意図もあって、結構分かりづらい。
ただ、明確に言えることは、
僕が編集者と名乗ることで動きやすくなること。
また、雑誌の編集とかそういう言葉を使うイメージで伝わることはどうでもよくて、
僕は言葉ってものを愛していて、どこまでそいつとともに社会に切り込めるか、
そんなチャレンジをそろそろしないとダメなんじゃないかと思い始めた。
これは全く、自分の話。

出版もいいし、小説を書くのもいいし、言葉って武器の磨き具合はイマイチという
評価があったとしよう(笑)でも、食い下がってトライをしてしまう。
自分を表現できる人間が人を表現することが出来ない可能性もあるが、0ではない。
また、自分を表現できない人間は人を表現できないは正しいと思う。
どちらにせよ、やってみないと分からない。そういうことだ。

さて、ぐるぐる回って巡り巡ってここにたどり着いたというよりも、
実は根底でそれが流れていた、無意識に流れていた、でもそれで
闘う、勝負する、やってみたいというのがちょっと変だった、または
多分これが正解に近いけど、自分の中でしっくり来ないということだったのではないかと
今では思っている。

常に可能性のあるものに対して、
または、自分がチャレンジしているものを選んできたし、
またはそれが面白いと思って選んで道を開いてきた。

そういう意味でまた道は開かれるし、楽しいものが出来てくるだろう。
最初は誰もが下手だけど、練習すればうまくなる。
そういうものを見せてみたい。
 
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